第六章 不穏

 午前の講義が終わると、私は五人の友達と一緒に、大学前にあるファミレスへと移動した。

 各自注文を完了すると、最初にケーキが運ばれてきた。中央に《おめでとう》の文字が添えられている小さなケーキ。


 三つの蝋燭の火を、佐紀ちゃんが息を吐いて消した。みんなが拍手し、歓声を上げる。

 佐紀ちゃんは「イエーイ」と喜びの声を上げてピースサインを作り、ケーキを口一杯に頬張った。


 これは内定を貰った佐紀ちゃんのお祝い。

 私たちのグループからは、三人目の内定者だった。

 普段から底抜けに明るい佐紀ちゃんだけれど、内定を貰って以降はその明るさが数倍増していた。


「みんな、ありがとう。正直、最終面接は失敗したかなと思ってたんだよね。予想してない質問をされた時に、ちょっとテンパっちゃってさ。だから、ほんと良かった。日頃の行いが良かったのかな」


 佐紀ちゃんはケーキを食べながら喋り続けている。よく零さずに喋れるなと私は感心した。

 食べるか喋るかどっちかにしなさいとか、自分で日頃の行いが良いとか言うなというツッコみが入り、どっと笑いが起こった。


 やがてそれぞれが注文した料理が運ばれてくる。食べながら、佐紀ちゃんが内定を貰った会社の話に花を咲かせた。


 佐紀ちゃんに関する話が一段落した時、私の隣に座っていた山口さんが話題を変えた。


「そういえば、みんな聞いた? 斎藤さんが交通事故に遭ったって話」

 そう話を切り出した山口さんは、神妙な表情。


 みんなが驚きの声を上げた。私の声は裏返っていたかもしれない。

 少し前までは、私たちと斎藤さんはそんなに親しくなかった。私は彼女の名前も知らなかったくらいだ。


 そんな斎藤さんと私が親しくなったきっかけは、共に第一志望だったS社にある。就職試験の勉強会で話をするうちに、段々と親しくなっていった。それから私の友達とも面識ができて、話す機会は増えていた。


「事故に遭ったのって、いつ?」

 と、私は訊いた。


「昨日、原付バイクに乗ってる時に、ブレーキが壊れて車に突っ込んだみたいなの。幸い命に別状はないみたいだけど、全治一ヵ月の怪我らしいわ。せっかくS社の二次面接まで進んだのに、斎藤さん可哀想。でも、全治一ヵ月なら、二次面接を合格したと仮定して、最終面接には間に合うかもしれない。OGの話では、S社の最終面接は、二次面接の合格通知を出してから二週間後と決まってるみたいだから。ほんと、不幸中の幸いだわ」

 山口さんの言葉に、私たちは頷いた。


「それにしても、S社への入社を目指している人たちの怪我や事故に遭う率が高いわね」

 と、山口さんが呟くように言った。


「え、それどういう意味?」

 と、美咲が訊ねる。


 私には山口さんの言った意味がわかったけれど、美咲は知らなかったようだ。佐紀ちゃんたちも首を傾げている。

 山口さんは美咲の問いに答える。


「実はね、うちの大学からS社の就職試験を受けた人たちが、次々と不幸な目に遭ってるのよ。正確に言うと、就職試験を受ける前の段階で、突発性難聴になった人や原因不明の高熱が一週間も続いて入院した人もいる。今回の斎藤さんを含めると、私が知ってるだけで九人が事故や怪我、災難に遭ってるわ」


「ええっ? 初耳よ、そんなの。他の人たちはどんな災難に?」

 美咲は、あまり見たことのない表情で山口さんを凝視している。


「S社の一次試験の日に、駅の階段から転んで骨折した人もいるし、同じ日に、野良犬に追いかけられて噛まれた人もいる。他には、電車の中で変態にスーツを鋏で切られた人もいたし、一次試験が終わったあとだと、車に轢かれたり、火事で家が半焼したり、彼氏に暴力を振るわれて骨折した人もいたわね」


 話の前半に出てきた五人については、私も本人たちから話を聞いているので知っていた。


 突発性難聴になった人は、不幸にもめげずに明るく面接を受けていた。

 原因不明の高熱が続いた人は、熱が引いてからも体調が優れなかったみたいで、筆記試験の内容は散々だと嘆いていた。


 駅の階段から転んで足の指を骨折した人は、痛みに耐えながらS社まできて筆記試験と面接を受けていた。

 野良犬に噛まれた人も、血が出るほどの怪我を負いながらも筆記試験と面接を頑張っていた。

 スーツを鋏で切られた人は、S社に着いた時には大泣きしていて本当に可哀想だった。


 後半の三人に関しては、私は初耳だったけれど、うちの大学からS社への入社を目指していた人たちの何人かは、確かに災難に見舞われていた。


 話を聞き終わった美咲の顔は、少し引き攣っていた。

「ほんとにほんとに、全部初めて聞く話なんだけど。ちょっと育美、何で教えてくれなかったのよ? 山口さんも」


「人の不幸話なんて、ペラペラ喋るものじゃないでしょ」

 と、私は至極当然の返事をした。


「水原さんと同じ考え。まあ、私は今話しちゃったんだけど」

 そう言った山口さんは、少しバツが悪そうだ。


「ううぅ……。私は別に人の不幸話が聞きたいわけじゃないんだからね」

「わかってるわよ」

「でもさ、何か変じゃない? そんな立て続けに何人も怪我したり災難に遭ったりするかな? S社かうちの大学か、どっちか呪われてるんじゃないの?」


「こらこら」

 私は苦笑して美咲を叱った。

「呪われてるとか、大袈裟よ。うちの大学からS社の就職試験を受けた全員が災難

に遭ってるわけじゃないのよ。斎藤さんを含めても、二十五人中の九人だから」


「いやいや、約三人に一人じゃん。結構な確率じゃん」

「あのね、美咲。一週間のあいだに九人がそんな目に遭ったわけじゃないのよ。三ヵ月のあいだに、そういうことがあったの。三ヵ月もあったら、誰だって今日はツイてないなって体験をするでしょ」


「それはそのとおりなんだけどさ。育美って超常現象とかオカルトの話好きだよね? その手の動画しょっちゅう観てるじゃん」

「確かにそういうの観る趣味はあるけど、だから信じるかっていうと話は別よ」

「信じてないの?」

「信じられるかなって思う話もあれば、これは作り話だなって思うものもある」


「じゃあ、S社の就職試験を受けた人たちが次々と災難に遭ってることはどう思うの?」

「どう思うって……ただの偶然だとしか思わないけど……」

 私は肩を竦めた。偶然以外に、何があるの?


 美咲は私から山口さんに視線を移して、なおも質問を続ける。

「ねえ山口さん、他の大学のS社志望の人たちはどうなの? 怪我とか事故に遭ってる?」


 そう訊かれた山口さんは、落ち着いてというように両手を美咲に向けた。

「ちょっと待って。私は探偵じゃないから、さすがにそこまではわからないわ」


「山口さんはどう思うの? これってただの偶然? それとも何かあると思う?」

「さあ、どうかな……。私、オカルト的なことはあんまり信じないから。水原さんが言ったとおり、全員が災難に遭ってるってわけではないからね」


 美咲は偶然の出来事という答えに納得がいかないのか、佐紀ちゃんたちにもどう思うか訊ねた。

 でも佐紀ちゃんたちもただの偶然でしょと笑っていた。

 美咲は不服そうだったけれど、それ以上は何も言わなかった。


「内定を貰う前に災難に遭った人たちは、やってられないって感じでしょうね。災難に遭うのなら、せめて内定を貰ったあとにしてほしい。それなら、きっと笑い飛ばせるだろうから」


 そう言った山口さんも、私と同じS社を第一志望にしていて、現在は二次面接の結果を待っている身だった。


 私がS社を第一志望にしたのは二年生になってからだったけれど、山口さんは高校生の時からS社で働くことを思い描いていたそうだ。

 どれだけS社に入社したいか、入社したあとに何を成し遂げたいか、私たちにその思いを熱く語ったことは一度や二度ではない。私は彼女の情熱に何度も気圧されていた。


 山口さんの面接を担当した面接官も、きっとその情熱を感じたはずだ。


 本来なら、同じ会社の就職試験を受ける人はライバルである。だけど山口さんは、そのライバルたちに何度も力を与えていた。


 たとえば、御守りを配るという行為。

 今年一月。山口さんは、就活にご利益があるという遠方の神社まで足を運び、そこで購入した御守りを、S社の就職試験を受ける全員に配っていた。


 時間もお金もかかる行動。普通はそんなことできない。少なくとも、私には無理だ。

 なぜそんなことができるの?

 私の疑問に、山口さんはこう答えた。


『全員ライバルでもあるけど、S社へ熱い思いを抱く仲間でもある。だから報われて欲しいの』と。


 私が一生かかっても辿り着けないと思われる境地に、山口さんは大学生の時点で到達していた。

 聖人とも思えるような行動は、他にもあった。


 一人でも多くS社の内定を貰えるようにと、山口さんは試験の対策を練る勉強会を自宅で開いていた。

 就活のプロ講師と呼ばれる人を自費で雇い、みんなに模擬面接を受けさせる、なんてこともしていた。


 私も二度、勉強会に参加させてもらったけれど、とても有意義な時間を過ごせたと思っている。その時に振る舞ってくれた山口さんの手料理も、すこぶる美味だった。


 そんな山口さんが二次面接に進んだことは、素直に嬉しかった。

 正直、私は他人の心配をするほどの余裕はないのだけれども、山口さんの情熱や努力、そして人柄を知っているから、一緒に内定を貰いたいと思っていた。


 前述した事柄からもわかるように、山口さんはとても大人だ。精神年齢が高いなと思う言動をよく取る。私が子供っぽいというところを差し引いても、すでに大人の女性としての雰囲気が漂っていた。


 でも、それはある意味では当然かもしれなかった。


 山口さんは、私と同じ四年生ではあるけれど、年齢は二つ上だった。

 二浪して大学に入ったとのこと。

 その理由を直接は訊いていないけれど、病気療養していたという事情があるようだった。


 そんなわけで、山口さんを呼ぶ時はみんなさん付け。山口さんが他の人を呼ぶ時は、基本的には苗字呼び。

 ただ会話する時は互いにざっくばらんなので、年上という事実はほとんど感じていなかった。


「ねえ育美、幸丸は元気にしてる?」

 食後のチョコレートパフェを頬張りながら、美咲が訊いてきた。


 このグループの中で、美咲以外の四人とは大学に入ってからの付き合いだったけれど、美咲は高校時代からの友達だった。

 幸丸を保護した時も、初心者の私に色々と教えてくれて、美咲が実家で飼っている猫の遊び道具やトイレを譲ってくれていた。


「幸丸は元気だよ。このあいだの診断では、極めて健康って言われた」

「それは良かった。最近会ってないから、久しぶりに会いに行こうかな。忘れられると寂しいし」

「忘れられると寂しいって、二ヵ月前にきたじゃない」

「二ヵ月会ってなくても大丈夫? 猫って長く会ってないと親しい人間でも忘れるっていうし」


「幸丸は他の猫よりも遙かに記憶力がいいから大丈夫だよ」

「出たあ。自分の子は他の子とは違うっていう親バカ発言」

 そう言って美咲は大笑いした。他の四人も笑い声を上げる。


 私は頬を膨らませて、

「だって、事実だもん。幸丸はたくさんの言葉を理解してるし、記憶力もいいんだよ」

「わかったわかった。じゃあ、どのくらい記憶力がいいか、今度確認しに行くわ」

「どうぞどうぞ」


「あ、私も水原さんの部屋に行ってみたいな」

 と、山口さんが言った。


 そういえば、山口さんを家に上げたことはなかったな。

「うん、いいよ。山口さん、猫アレルギーとかない?」

「大丈夫。犬も猫も大好き」

「それなら今度きて。私の可愛い子を紹介するから」


 午後の講義が始まる時間が近づいていたので、私たちはファミレスを出た。

 大学へ戻る途中、車道を走る原付バイクを見て、先ほどの山口さんの話を思い出す。


 斎藤さんは、原付バイクのブレーキが壊れて事故を起こした。

 さっきは話が変な方向に進んだので気づかなかったけれど、私と同じじゃないかと思った。自転車とバイクの違いはあるけれど、二人ともブレーキが壊れている。私は土曜日に、斎藤さんはその翌日に。

 私と斎藤さんは、S社の二次面接を受けた者同士……。


 ただの偶然だろうか?

 自問しておいて何だけれど、それはそうだろうという答えが出る。偶然じゃなかったら、いったい何だというのか。


 非科学的な何か?

 まさか。美咲じゃあるまいし、そんなこと言ったら笑われる。


 でも、二人とも立て続けにブレーキの故障に見舞われるなんて……偶然という考え方に変わりはないけれど、恐ろしい事実ではある。

 時間が取れたら、斎藤さんのお見舞いに行こうと私は思った。

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