第七章(後編) 以心伝心
外から足音が近づいてきて、ドアが開いた。
オレと視線が合った育美が、にこりと笑った。
「ただいま、幸丸」
オレはニャアと鳴いて育美に頬ずりしたあと、一緒に部屋に戻る。バッグと買い物袋をテーブルに置いた育美は、絨毯の上を見て驚きの声を上げた。
「あれ、幸丸、カレンダー剥がしちゃったの?」
カレンダーを拾い上げようとする育美の手を、オレは前脚で制止した。
「何、どうしたの幸丸?」
この数字の読み方を教えてくれ。
そう心の中で呟きながら、オレは前脚で大きな《5》の部分をトントンと叩いた。
しかし意図が伝わらなかったようで、育美は首を傾げてオレと同じようにカレンダーの上を手で叩いた。
「ふふふ。こうして遊びたいの?」
言葉が通じないのを、これほどもどかしいと思ったことはない。
オレはもう一度、大きな《5》を叩いた。育美は笑いながらまたカレンダーの上を叩く。
違う、違う、そうじゃないんだ。
ううぅ……。
どうすればいい。どうすればオレの思いは伝わるんだ。
「幸丸、あとで遊んであげるから、まずはご飯を食べようね。お腹ぺこぺこでしょ」
育美は銀の食器に夕ご飯を入れる。
オレの大好物であるマグロの匂いが鼻の中に入ってきたが、食欲は湧かない。
だが、食べないとまた育美を心配させてしまい、日付のことを調べられなくなってしまう。
だからオレは素早く夕食を平らげて、カレンダーの上に移動した。
数字の群れをじっと見つめながら、思いを伝える方法を考え続ける。
すると、オレの頭に一つのアイデアが浮かんできた。
昔テレビで観た、人間が言葉を使わずに身体の動きだけで思考を相手に伝えるというやり方。これを真似すれば、育美に思いを伝えられるかもしれない。
ご飯を食べ終えた育美が、オレの隣に座った。
「幸丸、物凄い早さでご飯食べてたね。そんなに美味しかった? それとも早く遊びたかったの?」
オレは育美をじっと見つめたあと、絨毯の上に寝そべった。
その状態で二本の前脚を頭上で曲げて、次に二本の後ろ脚を前脚とは反対方向に曲げる。
この格好は《5》を表している、つもりだ。
鏡で見ることができないので、きちんとした形になっているかはわからない。
次にオレは《1》の形を作った。これは簡単だ。前脚と後ろ脚を真っすぐに伸ばせばいいだけだから。
そして最後に《6》の形を作った。上体を丸めて後ろ脚をピンと上に伸ばせば、《6》の出来上がりだ。
三つの数字を表現したオレを見て、育美は抱き着いてきた。
「幸丸、何その格好! 可愛いー! めちゃくちゃ可愛いー! 悶え死んじゃう!」
ダメだ……。まるで伝わっていない……。
ただ、形自体は表現できているはず。何も告げずに、いきなり数字を表現したのがまずかったのかもしれない。
そうだ!
まずカレンダーの数字を叩いて、それから身体で表現すれば伝わるかもしれない。
オレは育美の腕の中から出たあと、カレンダーの大きな《5》を前脚でトントンと叩いてから《5》の形を作った。それを二度繰り返した。
これでどうだ?
見上げると、それまで笑顔だった育美が驚いた表情に変わっていた。
「えっ、ちょっと待って、何、今の? 幸丸、今の何?」
育美は目を瞬かせながら、オレとカレンダーを交互に見ている。
きた! と思った。
もう少しで、育美がオレのやっていることに気づく。
オレはもう一度、同じ動きを育美に見せた。
育美の目と口が、更に大きく開いていく。
「えっ、えっ、えええぇぇ! 嘘、もしかして幸丸、《5》の形を作ってるの? 今、五月を叩いてから、《5》の形作ったよね!」
オレの思いが伝わった瞬間だった。
そうか。この大きな《5》は、五月を表しているのか。言葉としては何度も聞いている数字だった。
よし。この勢いのままいこう。
次にオレはカレンダーの《16》を前脚で叩いてから、《1》と《6》の形を作った。先ほどと同じように、それを二度繰り返した。
「うわあぁぁ! 凄い! 凄すぎるわ幸丸! それは十六日を表現してるんだよね!」
なるほど。カレンダーの《16》は十六日という意味なのか。これも何度か耳にしている数字だった。
これで、わかった。
オレが夢で見た日付は、五月十六日。
もう一つ《(木)》というのも残っていたが、たぶんこれは曜日のことだろう。日付がわかったのだから、曜日の読み方までは知らなくてもいい。
「幸丸が賢いのは知ってたけど、まさかここまで凄いとはね。猫界で一番賢いんじゃないの、ほんとに」
育美は感心した様子でオレの頭を優しく撫でた。
危険が迫っている時ではあったが、育美に褒められてオレはとても嬉しかった。
これからもずっと、この笑顔を見ていたい。
そのためには、未来に起こる危険な出来事から育美を守らなければいけない。それができるのは、この世界でオレだけだ。
育美はテーブルの上に置いていたスマホを手に取って、オレに向けた。
「ねえ、幸丸。五月十六日の形を表現するの、もう一回してくれないかな。ネットに動画をアップしたいの」
猫や犬の面白い動きや表情を撮って、ネット上にアップするのが流行っているのは知っていた。育美もオレの動画を何度かアップしていて、まあまあの視聴回数のようだった。
今は一刻も早く、五月十六日まであと何日なのかを知りたかったが、その方法をすぐには思いつかない。なので、育美の要求に応えることにした。
育美はスマホのレンズをオレに向ける。オレは先ほどと同じように五月十六日を表現した。 育美の楽しそうな笑い声が響く。
動画を撮り終えた育美は、少し考える顔になった。
「この動画、いつアップしようかな。早くみんなに見せたいけど、十六日まであと三日あるし、今日アップするのはちょっと早い気がするのよね。よりインパクトを与えられるのは、十六日の朝か前日の夜だと思うんだけど、悩むわね」
図らずも、その育美の言葉で、五月十六日まであと三日ということがわかった。
あと三日か……。
明日じゃなくて良かったが、そこまでの余裕があるわけでもない。これなら確実に育美を助けられるという方法を早く見つけないと。
マンションの上から落ちてくる物。どうすれば、あの落下物から育美を守れるのだろう。
当日の朝、育美を起こさなければいいのではないかという考えが浮かんだが、いずれ育美は目を覚ますし、確実な方法とは言えない。
次に育美をこの家の中に閉じ込める考えが浮かんだが、これは不可能だろう。立場が逆なら簡単だが、猫は人間を閉じ込められない。
オレが育美と一緒に外出するのはまず無理で、育美を外に出さないようにするのも不可能。
他にどんな方法があるだろう。どこかに最善策があると思うが、なかなか光は見えてこない。
今オレが何を考えているのか、そして五月十六日、何が自分の身に起きようとしているのか、それらを知る由もない育美は、寝そべってオレに顔を近づけてきた。
「それにしても、何で五月十六日の形を作ったの? たまたま?」
育美に危険が迫っているからだよ。
その思いが伝わるならいくらでも鳴くが、話が変な方向に進む恐れもあるので、オレはじっと育美を見つめ続けた。
育美は微笑むと、オレのお腹に顔をくっつけて目を閉じた。
「あー、あったかい」
恋人を腕枕する男というのを映画で観たことがあるが、今のオレはそんな状態だった。腕枕ならぬ、腹枕。ふわふわ感なら、オレの腹に軍配が上がるだろう。
その格好で、オレは育美救出作戦に思考を戻す。
マンションの上から物が落ちてくる時間というのは、決まっているのだろうか。育美がどういう行動を取ろうとも、一秒たりともズレることなく、夢で見たのと同じ時間に落ちてくるのだろうか。
前回見た夢の、自転車のブレーキが壊れるタイミングは、現実でも同じ時間だったと思われる。
今回も、夢と現実の時間がズレることはないと思って考えてみよう。
育美が家を出る時間は、毎日同じだ。
朝のニュース番組が終わる直前に、アナウンサーが『時刻は間もなく八時になります』と言う。それを観てから育美はテレビを消し、玄関へと向かう。
誰に対してそう言っていたのか、記憶がはっきりとしないが、育美はこのアパートから駅まで歩いて十分くらいかかると言っていた。マンションは、その途中にある。
ふっと、足止めという言葉が浮かんできた。
そうだ、家を出る時間を遅らせれば、助けることができるのではないか。
オレの計算が間違っていないなら、八時十分まで育美の外出を阻止できれば、事故には遭わないという結末になるはずだ。十分程度の足止めなら、オレにもできるはず。
希望の光が見えてきた直後、まるでその光を打ち消すかのように、昔観たニュースの記憶が甦ってきた。
建物の上から故意に物を落として、通行人に怪我をさせたというニュース。一度だけではなく、何度かその手のニュースを見聞きした覚えがあった。
もし、育美の頭に落ちてくる物が、故意に落とされた物だとしたら……。
そんな考えが浮かんできてしまった。
決まった時間に物が落ちてくるわけではなく、誰かが育美を狙って物を落とすのであれば、家を出る時間を遅らせても意味がない。
故意であるはずがないと、否定はできなかった。
実際にそういう悪意を持った人間が存在しているのだから。
夢の中の情報だけでは、故意か故意じゃないかは判断できない。
自然現象か、故意か。
五月十六日の朝までに、物が落ちてくる原因をどちらかに決めた上で、オレは行動を起こさないといけない。
「うーん。むにゃむにゃ」
オレの腹に寄りかかっている育美が、寝息を立て始めていた。
いつもなら、こんなところで寝たら風邪を引くぞと頬にパンチを喰らわすところだが、今は考え事を優先させた。
育美の寝顔を見ながら、オレは最善の方法を探り続ける。
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