第八章 偶然
頬にパンチを浴びて私は目を覚ました。幸丸が私の顔を覗き込んでいる。
目が合うと、幸丸はニャアと鳴いた。私もおはようと声をかけて、上体を起こし大欠伸をした。
幸丸はもうベッドから下りていて、テーブルの上にあるリモコンを前脚でちょんちょんと触っていた。テレビを点けろという動きだ。仰せのままに、私はリモコンを取ってテレビの電源を入れた。
普通の飼い猫は、朝起きたらご飯をちょうだいのアピールをすると思うのだけれども、ここ数日の幸丸はニュース番組の方に興味があるようだった。
ニュース番組を熱心に観るその姿は、さながら有能なサラリーマンのよう。幸丸が人間だったら、きっとデキる男になっていただろう。
私は洗面所で顔を洗ったあと、スマホを手に取った。
「えっ?」
思わず声が出る。
私が昨日の夜にアップした動画の視聴回数が、すでに十万回を超えていた。
その動画というのは、幸丸が英数字の《5》と《16》を身体で表現したもの。いつアップするか迷った末、昨日の夜に公開していた。
美咲たちから、動画を観た感想が寄せられていた。幸丸は賢いだとか凄いという称賛の言葉が書き込まれている。
その他にも、動画を観た人たちから幸丸を絶賛するコメントが寄せられていた。
《こんな動きする猫初めて見た! 天才猫だ!》
《尻尾を上に伸ばして6にしてるのがほんとに賢い。尻尾が下に伸びてたら9になるからね》
《猫の知能って人間の三才児くらいって言われてるけど、この猫を見る限りそれは間違いだってわかる。この猫は三十歳の俺より頭が良い》
そんな数々のコメントを見て、私はニヤニヤしていた。
私が褒められたわけではないのに、気分が高揚していた。自分の子供を褒められた親の気持ちって、多分こんな感じなんだろうなと思った。
私は幸丸の隣に腰を下ろして、スマホの画面を見せた。
「ねえ、幸丸。このあいだ撮った動画、昨日の夜にアップしたんだけど、視聴回数がもう十万回を突破してるのよ。一万回でも凄いのに、その十倍よ。まだまだ伸びると思うし、超が付く有名猫になるわよ、幸丸」
幸丸はスマホの画面を前脚でちょんちょんと触ってニャッと鳴いた。
私はまず美咲たちに返信し、次にメッセージをくれた人たちへお礼の返事を書いた。
そうやって書き込んでいる最中にも、動画を視聴した人たちの新しい書き込みは増え続けていた。まだ午前六時台なのに、凄まじい反響である。
全てのコメントに返事を書いていたら日が暮れてしまう。
私は適当なところで切り上げ、幸丸の朝ご飯を食器の中に入れた。しかし幸丸はこちらには反応せず、依然としてテレビ画面に釘付けだった。
「幸丸、ご飯だよ」
そう呼びかけても、幸丸は一度振り向いて短く鳴いただけで、テレビの前から動こうとしない。そんなに幸丸の気を引くような出来事を報じているのだろうか。
テレビに視線を向けると、ただの芸能ニュースだった。
人気ドラマの続編が決定して、そのキャストを紹介しているところ。
このドラマの前作は、私も欠かさず観ていた。その私の横で、幸丸も熱心に観ていたっけ。面白かったドラマを思い出したから、画面に釘付けになっているのだろうか。
「さあ、時刻は六時半になりました。五月十六日木曜日、これまでに入っている世界のニュースをお伝えします」
芸能ニュースが終わり、アナウンサーがそう話したところで、幸丸は食器の前に移動した。
うーん。本当にドラマの続編情報に興味があったみたいである。
私も朝食を食べ、大学へ行く準備を整えて、幸丸と並んでテレビの前に座った。
そうしているあいだにも、動画の視聴回数は増え続けている。過去にアップした幸丸の動画も注目を集めていた。その数字を見て、私はまたニヤニヤしてしまうのだった。
「それでは、皆さん、また明日。時刻は間もなく八時になります」
アナウンサーが言い終えたところで、私はテレビを消して玄関へと進む。
お見送りする幸丸に声をかけて、玄関のドアを開けた。
その瞬間だった。
幸丸が私の足元をすり抜けて、外に飛び出してしまった。
保護した当時は、幸丸が外に逃げ出すかもしれないと思い、玄関のドアを開ける時には細心の注意を払っていた。けれども脱走する気は一切ないとわかってからは、普通にドアを開けていた。
今日初めて、幸丸は外に飛び出した。
いくら幸丸が賢くても、外は危険が一杯だ。猫が命を落とす原因となるものは、あちこちに存在している。私は慌てて追いかけようとした。
そんな私の心配は杞憂に終わる。
幸丸は階段の手前で立ち止まると、こちらに振り返ってちょこんと座った。
その顔をよく見ると、口に玩具を咥えていた。
幸丸は玩具を下に落とすと、ニャアニャア鳴きながら前脚で玩具を転がし始めた。
私は幸丸の前で屈んだ。
「幸丸、どうしたの? 遊んで欲しいの?」
「ニャアァァァ」
いつもより長い鳴き声。そうだよ、と言っているように聞こえた。
こんな風に幸丸が遊んでアピールするのは、珍しくはない。仔猫の時に比べれば、回数は減ったけれど、今でも口に玩具を咥えて私の元にくることはある。
ただ、それは私が家の中にいる時に限られる。今みたいに、外出する私を呼び止めるかのようにしてまで遊ぼうアピールをしたことは、過去一度もなかった。
最近、幸丸に構ってあげられていないということはなく、きちんと遊びに時間を割いているつもりだ。それなのになぜ、こんなアピールをするのだろう。
幸丸は、なおも玩具を前脚で転がしながら私をじっと見つめている。その瞳は、潤んでいるようにも見えた。
そんな目で見られたら、拒否できないじゃない。
私は溜息を吐く。
どうしても遅刻できない理由があるのなら、心を鬼にしてこのまま行くけれど、一限目の講義を一回受けなかったくらいで単位を落とすわけでもない。
「しょうがないなあ。今日だけだよ」
私は幸丸を抱えると、部屋に戻ってたっぷり四十分遊んだ。途中、どっちが遊ばれているのかわからないくらい、私は動かされていた。
その四十分で、私はクタクタに疲れた。身体は私の方が大きくても、体力勝負では幸丸に勝てない。この小さな身体のどこにそんな体力があるのだろうか。生命の神秘である。
「もうおばちゃんは歳だから、この辺で勘弁してちょうだい。帰ったらまた遊んであげるから、もう大学に行ってもいいよね?」
冗談っぽい口調でそう言い、私は玄関に進んだ。
私を見送る幸丸は、まだ遊び足りないのか、どことなく寂し気な表情をしていたけれど、今度は外に出たり私に抱き着いたりはしなかった。
「それじゃ、行ってくるね。お留守番、よろしく」
私は幸丸に手を振ってドアを閉めた。
外階段を下りてアパート前の通りへと出る。窓際の幸丸にもう一度手を振って私は歩き始めた。
いつもより四十分遅く家を出たので、通りを歩く人の顔触れもいつもとは違う。八時くらいだと、まだ小学生や中学生が登校している最中だけれど、この時間だともう子供の姿は見えなかった。
小さな交差点を渡り、緩やかな坂道を下り終わったところで、五十メートルほど先に人だかりができているのが見えた。幸丸を保護した場所で、側には高層マンションが建っている。私は人だかりの側まで進んで立ち止まった。
見ると、人だかりの中で二人の男女が口論していた。一人はスーツを着た五十代くらいの男の人で、もう一人はパジャマ姿の四十代くらいの女性だった。
私は近くに立っていた、同い年くらいの男の人に訊いてみることにした。
「すいません。あの人たち、何で口論してるんですか?」
「ああ、何か、このマンションの上から、植木鉢が落ちてきたみたいなんだ。誰にも当たらなかったみたいだけど、あのサラリーマンの人が、植木鉢の持ち主に怒ってるみたい」
その話のとおり、道路上には植木鉢の残骸が散らばっていた。何を植えていたのかわからないほどの惨状だ。
「だから何度も言ってるだろ。植木鉢をベランダの塀に置くなよ」
と、男の人が言った。
「誰も怪我しなかったんだからいいじゃない」
と、女の人が反論した。
「そういう問題じゃないだろ」
「今度から落ちないところに置くから。それでいいでしょ」
「全然反省してないな。誰にも当たらなかったのは、たまたまだろうが。それで済む話じゃない」
「じゃあ、どうすればいいのよ。警察でも呼ぶの」
「ああ、あんたは警察に説教してもらった方がいいだろうな。早く呼びなよ」
「何で私が呼ばなくちゃいけないのよ。面倒臭い。あなたが電話すればいいでしょ」
「俺は会社に行かないといけないんだよ。そっちが呼べ」
口論はまだまだ続きそうだったので、私はその場を離れて駅へと向かった。
プラットホームのベンチに座って電車を待っていると、先ほどの植木鉢の残骸が脳裏に浮かんできた。
あの植木鉢が落下した正確な時刻はわからないけれど、最悪、私に当たっていた可能性もあるのではないか。そんなことを思った。私は今日、いつもより四十分遅く家を出た。幸丸が遊ぼうアピールをしていなかったら、危なかったかもしれない。
ふっと、自転車のブレーキが壊れた時のことを思い出す。
あの時も、結果的には、幸丸に助けられた形になっている。
こんな偶然、二回も続くだろうか。
もしかして、幸丸は、危険を察知する能力を持っているとか? それで前回も今回も、いつもとは違う行動を取って私を助けたとか?
そこまで考えたところで私は笑った。
いやいや、さすがにそれはない。犬や猫には、危険を察知する能力はあるかもしれないけれど、それは近くに危険な動物や生物がいるとか、そういう意味に限定されるはずだ。
自転車のブレーキが壊れたり植木鉢が落ちてきたりするのを察知する能力なんて、持っているはずがない。それはもはや未来を予知する超能力である。
前回も今回も、ただの偶然よ。
でも、偶然だとしても、結果的には幸丸のおかげで私は助かったのかもしれない。今日は幸丸が大好物の高級猫缶を買って帰ろう。
「きゃあっ! 何これ気持ち悪い!」
突然、短い悲鳴が上がった。
何事かと、私は声のした方に振り向く。
金髪と黒髪の女の子二人が、自販機の前に立っていた。下の方を見て何か喋っている。
二人の足元を見ると、白い紙片のようなものが見えた。特に何か危険が迫っているわけではないようなので、誰も二人に近寄る人はいなかった。
私もそのままベンチに座っているつもりだったけれど、妙にその紙片が気になって立ち上がっていた。そのまま二人の元に歩み寄る。
「あの、どうかしたんですか?」
私が訊ねると、二人はこちらに振り向いた。
服装と同じく、派手な化粧。ザ・ギャルといった感じの二人だった。
「ここでジュースを買ったら、一緒にこの紙が落ちてきたんです」
と、金髪の子が言った。見た目と違って、すごく丁寧な口調だった。
私の頭に浮かぶクエスチョンマーク。
紙が一緒に出てきたから悲鳴を上げた? 何で?
疑問を解消すべく、私はしゃがんでその紙を拾おうとした。
「あっ、触らない方がいいよ。呪われそうだもん」
と、黒髪の子が言った。こちらはタメ口だった。
「え? 呪われる?」
意味がわからず、私は首を傾げた。
すると、黒髪の子が、ハイヒールの爪先部分で、半分閉じていた紙片を開いて見せた。
赤色で何かが記されていた。
その何かは外国の文字にも見えるし、記号のようにも見える。現段階ではっきりと言えるのは、私が初めて見る文字・記号ということだけだ。
「この赤色、血に見えませんか? 血で書かれた文字に見えるんですけど」
金髪の子が、不気味そうに言った。
私は紙に触らないように、顔を近づける。
……言われてみれば、血の色に見えなくもない。
間近で紙片を見て、一つ気づいたことがあった。
紙の裏側には、糊が付いていた。つまりこの紙は、缶を詰め込んでいる奥深くではなく、取り出し口から手を入れて貼られたものだと推測できる。恐らく、ジュースが落ちてきた振動で剥がれたのだろう。
「この紙、裏に糊が付いてるので、誰かが悪戯で貼ったんだと思います」
と、私は推測を語った。
「悪質ぅ」
「陰キャの仕業だよ」
「何のためにこんなことすんの?」
「ジュースが不味くなる呪いとか?」
「それ何の得があるの?」
「ライバル企業がやってるのかも」
金髪と黒髪の子は、そんな風に言葉を交わしている。
突飛な発想に、笑い声が出そうになったけれど、言った本人は真面目な顔をしていたのでぐっと堪えた。
「あっ、そういえば!」
金髪の子が手を叩いて叫んだ。
「ほら、ヒロミが前に言ってたじゃん。そこのトイレで手を洗ってる時、鏡の裏から変な紙が落ちてきたって」
「あー、あったあった」
「ヒロミ、その紙に変な文字が書いてあったって言ってなかったっけ。赤い文字だったかは忘れたけど」
「えー、どうだったかな。そこまでは覚えてないや」
私はトイレの方を見る。トイレにもこの紙片と似た物が?
至るところに貼るということは、嫌がらせ目的だろうか。
でも、嫌がらせなら、それを見た人が嫌悪感を抱くような文字や記号を書くのではないだろうか。それとも、この見慣れない文字・記号を書くことに意味があるのだろうか。
二人は、ヒロミという子に連絡しようとしていた。もう少し話を聞いてみたい気もしたけれど、私の乗る電車がやってきてしまった。私は二人に別れを告げて電車に乗り込んだ。
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