第九章(前編) この世界で起こる出来事には、必ず原因がある

 窓際で通りを凝視していたオレの耳に、聞き覚えのある足音が聞こえてきた。他の人間とは違う、耳に心地良い足音。


 人影が見えた。

 まだ遠く離れているので、オレの視力でははっきりと顔を確認できないが、間違いなく育美だとわかった。

 喜びと不安からの解放で、オレは着地点を見誤るほど大ジャンプして棚にぶつかったが、そのままの勢いで玄関へと走った。


 ドアが開き、笑顔の育美が入ってくる。顔や身体に怪我のあとは見受けられない。

 オレは鳴き声を上げて育美に飛びつき、何度も頬ずりをした。育美はくすぐったそうに笑う。


 育美は銀の食器の前でオレを下ろすと、バッグから猫の絵が描かれている缶詰を取り出した。

 それはオレの誕生日等の特別な日に買ってきてくれる、値段の高い猫缶だった。


 今日は、オレにとって特別な日ではない。それなのになぜ高級猫缶を食べさせてくれるのか。

 オレの心の声が聞こえたのか、育美が答える。


「ねえ幸丸。今日の朝ね、駅に向かって歩いてる時、マンションの下に植木鉢が落ちてたの。朝、幸丸が遊んでのおねだりをしなかったら、あの植木鉢は私の頭に落ちてたかもしれない。ありがとうね、幸丸。この猫缶は、そのお礼よ」


 オレの見た夢が、再び現実になったことを証明した瞬間だった。

 育美を心配させないために、普段どおりに食べ続けたが、味はほとんどしなかった。


 オレの見た夢は再び現実になる。

 そう想定して行動していたわけだが、実際にそうなってしまうとやはりショックだった。


 今朝のことを思い出す。

 夢の中で見た落下物は、自然に落ちてくるのか、故意に落とされるのか。


 ギリギリまで答えを出せずに迷っていたが、最終的に育美を狙っている人間はいないと判断した。夢で見たアレは決まった時間に落ちてくるのだと答えを出し、育美の外出時間を遅らせる方法を取った。


 運任せでそちらを選択したわけではない。そう結論を出せるだけの判断材料はあった。


 なぜそうなるのか未だに原因はわからないが、オレが未来の出来事を夢で見るのは、育美の身に危険が迫った時である。

 もし誰かが育美に危害を加えようとしているのであれば、以前にもそういう夢を見ているはずだと考えた。


 しかし自転車のブレーキが壊れる夢より前に、育美が危険な目に遭う夢は見ていない。育美の口からも、最近危険な目に遭ったとか誰かに狙われているというような話は聞かれなかった。

 それらを総合して、アレは故意に落とされる物ではないとオレは結論付けたのだ。


 育美を送り出した時点では、この推測にある程度の自信は持っていた。

 ただ、育美の姿が見えなくなってから、この推測には綻びがあることに気づいた。


 何事にも始まりはある。

 育美を恨んでいる人間がいたとして、今までは何もしなかったが、今日初めて危害を加える行動を取った、という可能性もあるのではないか。


 一旦悪い考えを浮かべると、もうそれを打ち消すのは無理だった。

 そちらが正解なのではないかと、育美が帰ってくるまでずっと不安だった。

 結果的には、最初に自信を持って出した答えが正しかったわけだが、この数時間生きた心地はしていなかった。


 夕食を食べ終えた育美がオレの元にやってきた。

「ねえ幸丸。あの動画、視聴回数が二十万回を突破したんだよ。一日で二十万回は凄すぎだよ。それで、お昼ご飯を食べてる時にね、テレビ局からあの動画を放送させて欲しいって連絡がきたの。すぐOKの返事をしたわ。放送される日は一緒に観ようね。あー、楽しみ」


 その言葉のとおり、育美はとても嬉しそうな表情だ。

「さて、お風呂に入ろうかな。幸丸、一緒にお風呂入る?」

「ニャッ」


 オレは短く鳴いてそっぽを向いた。それがオレの拒否を示す言動だ。

 濡れること自体嫌いだし、小さい時に脚を滑らせて浴槽の中で溺れかけて以来、浴槽にお湯が溜まっている時の浴室がトラウマになっている。

 浴槽が空の時はいいが、お湯が溜まっている時はダメだ。あそこは猫が入る場所ではない。


 まあ、育美はそのことを知っていてオレを誘っているのだが……。

 子供のやる、他愛のない悪戯みたいなものだ。

 オレの拒否反応を見ると、育美はふふふと笑って脱衣所へと消えた。


 オレは毛づくろいしながら、再び奇妙な夢のことを考える。

 一回だけなら、偶然という言葉で片づけられたが、二回続けてオレの見た夢が現実になってしまった。もう偶然では片づけられないと思う。


 夢について考えていると、悪い考えばかりが浮かんできた。

 二度起こったのだから、三度目が起こっても不思議じゃない。

 確か、二度あることは三度あるという諺があったはず。


 何度もこんなことが続けば、オレがどれだけ頑張っても育美を助けられない時がくるのではないか。育美が事故に遭う夢を当日に見て、目覚めた時には育美は出かけたあととか。その事故がいつ起きるのかわかるヒントが夢の中にないとか。そうなったら、オレにはどうしようもない。


 と、そこまで考えたところで、オレはある事実に気づいた。

 なぜ育美は何度も危険な目に遭うんだ? 先週の土曜日に一回目、そして今日木曜日で二回目。

 こんな短期間で、二度も命を落とすかもしれない災難に遭うものだろうか?


 オレが育美の未来を夢で見るのと同じくらい、それは不可思議なことに思えた。

 自ら危険な行動を取っているならともかく、育美の行動や選択は普通そのものだ。

 これは運が悪いで済む話なのだろうか? 


 自転車のブレーキが二つ同時に壊れて車に撥ねられたり、頭の上に植木鉢が落ちてきたり、短期間にそんな体験をする確率っていったいどのくらいなんだ?    


 普通に生活していたら、どちらも一生経験しないまま終わるのではないか。それなのに育美は、オレが夢を見ていなければ、そんな災いに二度も襲われていたことになる。


 何かおかしい。そう思った。

 何かがおかしいという考えは、段々と膨らんでいった。

 その膨らみの中に、以前テレビで人間が話していた言葉が入り込んできた。


『この世界で起こる出来事には、それがどんな不可解な事象であっても、必ず原因が存在する』


 その人間は、確か博士と呼ばれていた気がする。世界各地で起こった、長いあいだ解明されていない事象を、その博士が機械を使って解明していくというテレビ番組内での発言だったと思う。

 結果はうろ覚えだが、長年の謎をいくつか解明していたはずだ。頭の良い人間なのは間違いない。


 その博士に訊きたかった。

 育美が何度も災難に遭うことにも、何か原因があるのかと。


 脱衣所のドアが開く音がした。良い匂いのする育美がやってきて、オレを抱っこすると、ノートパソコンの前に座った。

 観たいテレビ番組がない時は、育美はネット動画を視聴している。


 今夜育美が選んだのは、国内外で起こった未解決事件の特集動画だった。

 

 海上の船内から忽然と消えた数十名の乗客。

 全てのドアがロックされた走行中の車からいつの間にか消えた子供。

 記憶喪失で保護された男は一年前に火葬された人間だった。


 どれも興味をそそられる話で、真相を知りたいと思うものばかりだった。

 動画の中では様々な角度から検証がされていたが、残念ながら未解決事件なので、真実がわかることはなかった。


「どれもほんとに不思議な話ばかりだねえ。でも、こういうミステリーって、真相を知ったら案外拍子抜けするんだよね。何だ、そんなオチかって。真実がわからないから魅力的に見えてる部分ってあると思う」


 育美のその言い分は、わかる気がした。

 見えないから、わからないから、想像を膨らませる。結果、真実が膨らませた想像以下だったら、ガッカリする者は多いだろう。


 未解決事件の動画が終わると、育美は次に不思議な体験をした人間たちの特集動画を再生し始めた。先ほどの動画と違って、こちらはその出来事の中心にいる人間が話をするという内容だった。


 亡き妻の導きによって墜落する飛行機に乗らなかった男。

 前世の記憶を持ったまま生まれてきた子供。

 動物の声が人間の言葉となって聞こえてくる女。


 それらの話は、今のオレにとってとても興味深いものだった。

 育美は半信半疑といった感じで観ていたが、オレはその人間たちの話を信じていた。普通では考えられないような事象は、確実にこの世界に存在しているのだ。オレはそれを知っている。


 その人間がいつ死ぬかわかるという男の話が終わったあと、眼鏡を掛けた女が出てきた。番組の進行役の男が、その眼鏡を掛けた女の能力を説明し始める。


「こちらの女性は、かの有名な連続殺人鬼の男を特定した方です。三年のあいだに八名を殺害し、警察の捜査を巧妙に掻い潜り続けた男。そんな残虐で狡猾な犯人を、この女性はたった一人で見つけ出しました。九人目が襲われる場所を特定し警察に通報することで、見事犯人逮捕に貢献したのです。いったいどんな能力で、この女性は連続殺人鬼を追い詰めたのでしょう。――実はこの女性、これから起こる出来事を夢で見るという、予知夢の能力を持っていたのです」


 その説明を聞いた瞬間、オレはノートパソコンの画面に顔をくっつけて女を凝視していた。

 これから起こる出来事を夢で見る能力だって? オレが二度体験した現象と同じじゃないか!

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