最終章(前編) 終焉
ドアを開けると、幸丸が階段を下りてくるのが見えた。その後ろから山口さんが下りてくる。
二階で遊んでいたのだろうか?
しゃがんで幸丸を撫でると、頬ずりをしてきた。いつもより長めの頬ずり。くすぐったくなって、私は笑った。
「山口さん、幸丸と遊んでくれてたの?」
「ええ。幸丸、元気一杯で楽しかったわ。私の方がクタクタになっちゃった」
「そうなの。身体は私たちより小さいのに、体力が凄いのよ」
「猫ってこんなに可愛いのね。私も飼ってみようかな。幸丸、また遊ぼうね。――それで、魚は何匹釣れたの?」
私は肩を竦めて、
「ごめん。一匹も釣れなかった」
「え、そうなの?」
「五人もいて一匹も釣れないとか、終わってるわよね」
と、美咲が溜息を吐きながら言った。
「あんたが言うな」
「ボートを停めた場所が悪いんだって」
「側で釣ってたおじさん、めちゃくちゃ大漁だったじゃん」
「ううぅ、それは……」
「まあまあ、いいじゃない。私も最近魚捌いてなかったから、却って良かったかも。それじゃ、食材を買いに行かないとね。誰か一人付き合ってくれる?」
「大口叩いた責任取って私が行きます」
美咲が勢いよく挙手した。
「じゃあ、あたしたちは遊んでていい? 森の中を探索したいんだよね」
「いいわよ。バーベキュー場に行く前の一時間だけ手伝って欲しいから、四時頃までには戻ってきてね」
「了解。ありがとっ、山口さん。それじゃ、みんな行こうか。育美も行くでしょ?」
うんと返事をした直後、私の足に幸丸がしがみ付いた。後ろ脚で立ってしがみ付く姿は、愛おしさを感じさせる。
私に行って欲しくないんだなと、理由を訊かなくてもわかった。まだ遊び足りないのかもしれない。
私は幸丸と残ることにし、あとで行けたら行くと告げた。
五人が出て行くと、幸丸は私から離れ、階段の方へ歩いて行く。
「幸丸、二階で遊ぶの? 一階の方が広いよ」
幸丸は振り返ると、前脚を宙に浮かしてクイッと動かした。
手招きだ。幸丸はこれをよくする。
私は言われたとおりに、二階へと上がる。
幸丸はベッドのある部屋に入ると、床に置いてある私のバッグの前で立ち止まった。猫の玩具は持ってきていないけれど、何か興味を惹く物でも入ってたっけ。
「幸丸、バッグの中に何が入ってるか見たいの?」
そう私が訊いた直後だった。
幸丸は突然バッグに噛みついた。ガジガジと、一心不乱に噛み続ける。
私は驚いて、声を出すまでに数秒かかった。
「ちょっと、どうしたの幸丸? 何でバッグを噛むの?」
止めようと手を伸ばすが、あまりの迫力に幸丸に触れられない。
仔猫の時は、私の手や物を噛んでいたけれど、それも短い期間の話で、成猫になってからは全く噛まなくなっていた。ここまで激しく噛むのは、仔猫の時でもなかったことだ。
いったいどうしちゃったの?
「ねえ、幸丸、どうした……」
声を掛けようとして、私は気づいた、
幸丸が噛んでいるのは、バッグではなかった。
ファスナーに付けてある、御守りを噛んでいたのだ。
それは山口さんから貰った、災厄除けの御守り。慌てて止めようとした時には、すでに御守りはボロボロの状態になっていた。
「御守りにこんなことしたら、罰が当たっちゃうよ。どうしたの幸丸?」
私は半泣きになって、噛み千切られた御守りを手に取った。
布製の御守りの中に入っていた物が、少し外に出ていた。
これまで、いくつかの御守りを買ったり貰ったりしていたけれど、中身を見たことはなかった。
本来なら取り出さないのだけれども、すでに中身が飛び出している状態だから仕方がない。
心の中で、神様ごめんなさいと言いながら、中身を摘んで取り出した。
中に入っていたのは、紙片だった。黒い糸でぐるぐる巻きにされている。その黒い糸を解こうとした時、身体がぶるぶるっと震えた。
「えっ、ちょっと、これ、髪の毛じゃない?」
黒い糸と思ったものをまじまじと眺める。
髪の毛と黒い糸を見分けるのは、人によっては難しいことかもしれないけれど、私には自信があった。これは絶対に髪の毛だ。
なぜ髪の毛で紙片を巻いているのだろう?
訳がわからないまま、私は紙片を広げた。
そこには、赤い字で、見たことのない記号のようなものが記されていた。
一度はそう判断したけれど、その記号のようなものを見つめていると、頭の中に訴えかけてくるものがあった。
私は、コレを、どこかで見た記憶がある。
どこだろう。どこでコレを見たのだろう。そんなに昔ではない。最近、見た気がする。
ふっと、脳裏に二人のギャルの顔が浮かんできた。
そうだ! 駅のプラットホームにある自販機! 二人のギャルが、自販機でジュースを買ったら変な紙片が出てきたと騒いでいて、その紙にもコレと全く同じものが記されていた。
災厄除けの御守りの中に入っていた紙片と、自販機の取り出し口の裏側に糊で貼り付けてあった紙片。そのどちらにも、同じ記号のようなものが記されている。
えっと……それはつまり……どういうことになるのだろう。私は首を傾げる。思考が追いつかない。
「ニャア」
幸丸が、私のポケットを前脚でトントンと叩いた。ポケットの中には、スマホが入っている。
「スマホ?」
「ニャア」
「あ、そうか! 画像検索で、この記号みたいなものを調べればいいんだ」
「ニャアァァ」
私は唸りながらスマホを取り出す。
幸丸、何て冷静なの。スマホの機能を十分理解していて凄い。
私は感心しながら、スマホのカメラで記号のようなものを撮った。すぐにウェブ検索する。
「えっ……何これ……」
表示された内容を見て、私は絶句した。
《邪術》
《呪いを引き寄せる効果》
《邪術の儀式における術の一つ》
そんな物騒な文字が連なっている。
「邪術? 呪い? どういうこと?」
私の心臓は早鐘を打ち出している。頭の整理がつかないまま、一番上に表示されているサイトを開いてみた。
タイトルと同じように、そこに書かれている内容もおぞましかった。
邪術の歴史が長々と語られ、相手を呪う方法と種類、術がかかりやすい時間と場所等を詳細に解説していた。
その方法と種類の中で、紙片に描かれた記号のようなものの説明がされていた。実際には、それは古の文字らしく、あらゆる災いを引き寄せる言葉であると説明があった。
呪う相手を思いながら、自分の血でその文字を紙に書き、標的の近辺に置くか持たせることで、相手に呪いをかけられる。そう解説されていた。
私は破れた御守りに視線を移す。
縁起物の御守りの中に、なぜこんな邪悪な物が入っているのか。
この御守りは、山口さんから貰った物。神社で売っている御守りの中に、最初からこんな物が入っているはずはない。そうなると、この紙片を入れたのは、山口さんということになる。私を心配してこの御守りをくれたはずの彼女が、なぜこんなことを?
混乱はますます深まる。頭の中の糸がぐちゃぐちゃになっている。自分の身に何が起こっているのか全く理解できない。
「ニャア」
幸丸が私の手の上にそっと前脚を置いた。その前脚を、擦るように動かし始める。
落ち着け。
そんな声が聞こえてくるようだった。
私は幸丸に頷き返し、冷静になれと自分に言い聞かせながら深呼吸した。
……本当は、こんなことは考えたくない。
けれども、実際に目にしてしまったから、こんな推測をしないといけなくなる。
山口さんは私を呪っている。
なぜ?
当然そんな疑問が湧いてくる。
恨まれるようなことをした覚えは、全くない。だけど私が気づいていないだけで、恨みを買っている可能性はある。恨まれる原因となるものに付いて、私は考えてみた。
性別や年齢によって多少変わってくるかもしれないけれど、よく聞くのは異性関係や金銭関係のトラブル。あとは、傷つけるような言動を取ったとか、大切な物を壊したとか、そのくらいだろうか。
そのどれも、思い当たる節はなかった。
山口さんと同じ人を好きになったことはないし、お金の貸し借りをしたこともない。彼女の悪口を言ったこともなければ、彼女が大切にしている物を壊したこともない。
山口さんと友達になってからの約三年、喧嘩した覚えはないし、不仲になった記憶もない。
やはり、どれだけ考えても、恨まれる原因について心当たりはなかった。
でも、山口さんは私を恨んでいる。命を奪ってやろうというほどに。人にそこまで恨まれるのは尋常ではない。確実に、私たちのあいだに何かが起こっているのだ。私が気づいていない、何かが……。
その原因が、どんな些細なことだったとしても、どちらか一方だけが関わっているというものではないと思う。
どちらもソレを知っているはず。同じ大学、共通の友達を持っているという以外に、他にどんな接点があるだろう。
私は必死に頭を働かせて、原因を見つけようとした。記憶の箱を引っくり返して、この三年間にあった彼女との出来事を振り返り続ける。
ふっと、脳裏にある映像が浮かんできた。
「あっ」
瞬間、私は思わず声を上げていた。
二人の接点が、他にもあった。
S社。
私と山口さんは、S社を第一志望にして、最終面接を控えている。
まさか、それが理由?
私を蹴落として、ライバルを減らそうとしているってこと?
俄かには信じられないけれど、もしそれが真実なら、意味のないことをしていると思った。
仮に私が最終面接を受けられなかったとしても、それで山口さんの採用率が上がるわけではないのだから。
他の会社の基準は知らないけれど、S社は採用する人数を決めていない。それは直接、S社の二次面接の時に面接官から聞いている。
優秀な人材だと判断すれば、百人でも採用するけれど、そうでない場合は採用者ゼロの場合もあると。
実際には、採用者ゼロの年はないとのことだったけれど、上限も下限も決めていないという話だった。
その話は山口さんも聞いているはず。
つまり、最終面接を受ける人数を減らしたところで、無意味なのだ。
それなのに、山口さんは、こんな凶悪な方法で私を葬り去ろうとしている。
私の知る温和な山口さんとは、どうしても結びつかない。
それに、こんな手の込んだ呪い方を、すぐに実行できるものなのだろうか。
二次面接の合格通知が届いたのは先週の金曜日で、この災厄除けの御守りを貰ったのが先週の土曜日……。
その僅かなあいだに邪術の勉強をして、御守りの中に呪いの紙片を入れた? いくら何でも、行動が早すぎる。何年も前から邪術に精通していないと、即座に対応できないはず。
と、そこで私は気づいた。
私が利用する駅の自販機でこの紙片を見たのは、先週の木曜日だった。
彼女は、二次面接の結果が出てから私を呪い始めたのではない。もっと前から、私に呪いをかけていたのだ。
いったい、彼女はいつから私を呪っていたのだろうか……。
そこまで思考を進めた時、私の脳裏に御守りが浮かんできた。目の前にある御守りではなく、家に置いてある方の御守り。
私は、山口さんから、御守りを二個貰っている。今年一月に就活祈願の御守りを、そして最近災厄除けの御守りを貰った。
就活祈願の御守りの方は、私以外にもたくさんの人が貰っている。うちの大学からS社の就職試験を受けた、山口さんを除く二十四人全員が受け取っている。
もしも、私以外の人たちが受け取った就活祈願の御守りの中にも、呪いの紙片が入っていたとしたら、話は大きく変わってくる。
その場合、山口さんはかなり前から邪術に詳しかったということになる。
そして呪っている相手は私だけではなく、S社への入社を目指した全員。
殺す気があったのかどうかは判断できないけれど、S社の就職試験を受けられないくらいの身体と精神状態にしてやろうという意図はあったはずだ。
彼女から御守りを貰った全員に連絡して確認したいところだったけれど、私が連絡先を知っているのは斎藤さんだけ。その斎藤さんはまだ入院中で携帯に繋がるかわからない。
ただ正直なところ、そちらが真実なのだろうなと思った。
私だけを呪いたいなら、私にだけ就活祈願の御守りを渡せばいいのだから。
他の人たちにも御守りを配ったり、自宅に志望者を招いて勉強会を開いたりしたのは、呪う対象が私だけではないという証左だ。
自分が採用されたいから、ライバルを全員呪う。
まともな人間の考えることではない。
今まで彼女に持っていた知的で大人の女性というイメージは崩れ去り、ただただ恐ろしい人間としか思えなくなっていた。それと同時に、呆れるという感情も生まれていた。
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