最終章(中編) 終焉
人を呪う行為に労力を費やさず、自己研鑽に励んだ方が、採用される可能性は高まるというのに……。
S社への思いが強いが故に、人の道を踏み外し、まともに考えられなくなってしまったのだろうか……。
私は呪いの言葉が書かれた紙片を拾い上げる。
彼女が私を、いや、私たちを呪っていることはわかった。
ただ、彼女の呪いに、本当に効果があるのだろうか。
私が呪いを信じているかどうか、この際それは無視しよう。色眼鏡を外して、冷静に考えてみる。
私と同じく最終面接に進んだ斎藤さんは、バイクのブレーキが壊れて重傷を負った。その他にも、就職試験中に様々な災難に遭った人たちを、実際にこの目で見ている。
私が見聞きした一つ一つの災難は、特別珍しいものではない。誰にでも起こり得る出来事だと思う。
だから、美咲にこの話題を振られた時も、私はただの偶然だと答えていた。生きていれば、誰だって怪我や病気くらいすると。
だけど、その災難に遭った人たちが、呪いをかけられていたという事実を知った今だと、見方が変わってくる。私自身に起こった出来事に対しても、その見方は大きく変わっていた。
自転車のブレーキが二つ同時に壊れ、いつも通る時間帯の道にマンションの上階から植木鉢が落ち、いつも乗る時刻の電車内で刃物を持った男が乗客たちを襲った。
これら三つの出来事、今まで関連付けて考えることはなかった。
でも、彼女が私を呪っているという事実を認識したあとだと、この三つの出来事は繋がっていて、呪いは存在するのかもしれないという考え方になってくる。
もし私が他の人たちと同じように怪我や病気をしていたら、今の段階で呪いの力を百パーセント信じたかもしれない。まだ疑う気持ちが残っているのは、私が無傷だから。
でも、私が無傷なのは、全て幸丸のおかげだ。彼女の人を呪う力が本物で、幸丸が側にいなかったら、私はとっくに死んでいたかもしれない。
そこまで考えたところで、私はその事実に気づいてはっとした。
彼女が私を呪っているという恐ろしい事実を知って、そのことに意識が向かなかった。
幸丸は、なぜ今、この御守りを破いたのだろうか。それはとても重要なことに思えた。昨日でも一昨日でもなく、今破いたことに、必ず意味があるはずだ。
私は幸丸と破れた御守りを交互に見ながら、その意味を思案する。
すると、ある一つの思いが浮かんできた。
幸丸は、ここで何かを見たのではないか。この御守りの中に、私を傷つける物が入っていると、そう確信できるような光景を目にしたのではないか。だから今、それを私に伝えたと。
「ねえ、幸丸。ここで何かを見たの? 山口さんは、ここで何かをしていたの?」
「ニャアァァ」
幸丸は高らかに鳴くと、私を手招きして部屋を出て行く。私も早足で続く。一階に下りた幸丸は、冷蔵庫の前で止まると、下の引き出し部分を前脚で叩いて鳴いた。
「この引き出しを開けろってこと?」
「ニャア」
この中に、何かあるのだ。私は頷いて引き出しを開けた。
そこは冷凍庫で、タッパーが六つあった。私は全てのタッパーを取り出して、幸丸の前に置いた。幸丸はタッパーを一つずつ凝視したあと、右から二番目のタッパーをトントンと叩いた。
「この中に、幸丸が見た何かが入ってるの?」
「ニャアァァ」
幸丸の観察力に感心しながら、私は蓋を開けた。
中には、焼く前のハンバーグが入っていた。
見た目は普通だ。鼻を近づけて匂ってみる。異臭はしない。
念のため他のタッパーも開けて確認してみたけれど、全て同じ形のハンバーグだった。
幸丸が示したこのハンバーグ。中に何か入っているのだろうか?
仮にそうだとして、どうやってこのハンバーグを私に食べさせる気だろう。全部見た目は同じハンバーグで、タッパーに名前が書いてあるわけでもない。いくら作った本人でも、見分けるのは難しいのではないか。
色々と考えながらタッパーを見回していると、その違いに気づいた。
六つのうち、一つだけタッパーの形が違っていた。
五つは長方形のタッパーで、残りの一つは楕円形のタッパー。その楕円形のタッパーこそが、幸丸が前脚で叩いた物だった。
私は確信した。
彼女は、私に食べさせようとしているハンバーグの中に、何かを入れたのだ。その光景を、幸丸は見ていた。その何かは、幸丸から見ても明らかにおかしな物だったに違いない。
これは人間が食べる物じゃない、と。
その時に、彼女の口から何かを聞いたのかもしれない。独り言か、幸丸に対して毒を吐いたのかはわからないけれど、私を恨んでいるというような言葉を聞いた可能性はある。
それで、幸丸は御守りの中に何かが入っていることを知ったと。私はそう推測した。
「幸丸、山口さんはこのハンバーグの中に何かを入れたのね? それは、食べてはいけない物だから、私に教えてくれたのね?」
幸丸は楕円形のタッパーに前脚を載せて、
「ニャアァァァァァ」
と、今日一番の高い鳴き声を出した。
何てことだろう。ただ不幸になれと念じるだけではなく、汚らしい物を食べさせようとするなんて。到底許される行為ではない。
そういえば、さっき見た邪術を解説したサイトに、食べ物に呪いをかける方法が載っていたはず。私はスマホを取り出し、もう一度さっきのサイトにアクセスした。
食べ物や飲み物に、自分の血や髪の毛、動物の糞尿や虫を混ぜて食べさせた際の効果が解説されていた。
自分の血を入れないと呪いの効果が出ないので、血を混ぜるのは最低限の条件のようだ。どれを混ぜるにしても、その量は多ければ多いほど呪いの効果は強くなる。
しかし大量に入れると異臭がし、味も変わるために、相手に気づかれるリスクが高まる。だから如何にバレないように混ぜるか、そのテクニックや異臭を消すオイルの作り方も解説されていた。
ご丁寧に、異物を混ぜやすい食べ物もランキング形式で載っている。ハンバーグは、第五位だった。
私は左手に持ったタッパーを見る。
このハンバーグの中に、彼女の血が入れられているのだろうか。動物の糞尿や、潰した虫も混ぜられているかもしれない。
想像しただけで総毛立った。タッパーを持った左手が震え始めている。
「あっ……」
私は、思い出してしまった。
以前、彼女が作った手料理を食べたことがある、と。
就職試験の勉強会に参加するために、彼女の自宅に行った時のことだ。
出された料理を二度食べた。
競争相手を不幸な目に遭わせるのが目的なのだとしたら、あの時点で料理に呪いがかけられていたと判断するのが妥当に思えた。そういう答えが出てしまう。
彼女の自宅で二度食べた料理が、次々と脳裏に浮かんでくる。
シチュー、オムライス、カレー、トマトサラダ。
あれらの料理の中に、彼女の血や動物の糞尿が……。
吐き気を催した私は、シンクに手を付いて荒い呼吸を繰り返した。胃から逆流してくる物を、必死に押し留める。
「ニャアァ」
幸丸が心配そうな顔で私の腰の辺りを擦ってくれている。
呼吸がある程度落ち着くと、蛇口を捻って直接水を飲んだ。
怒りと恐怖で全身が震えていた。
自分だけが内定を貰えず、他のみんなは内定を貰って喜んでいる。その光景を見ていたら憎しみが湧いてきて、みんなを呪った。
こういうことであれば、人間の心情として、理解できる面はある。
それなら許せるということではなく、同情できる面はあるという話だ。
だけど実際は、逆恨みでさえない。自分以外全て消えればいいという、おぞましい思考が発端となっている。
そこに同情の余地はない。
私は心の底から彼女を軽蔑した。
こんな物、食べて堪るか。
タッパーごとゴミ箱の中に捨ててしまいたかったけれど、山口さんを、いや、山口を許せないという思いの方が上回った私は、長方形のタッパーに入っているハンバーグと、楕円形のタッパーに入っていたハンバーグを入れ替えた。
その入れ替えた長方形のタッパーの蓋に、私は包丁で小さな傷を付けた。注視しないと見えない程度の傷を。
私のした行為の意味を理解したのか、幸丸は嬉しそうに鳴いた。
六つのタッパーを冷凍庫に戻したあと、私は幸丸を抱えてソファに座った。
先週の土曜日、山口が家にきた時のことを思い出す。
初めて山口を見た時の幸丸は、とても驚いていた。窓際から落ちそうになるほどに、慌てていた。
あの時点で、幸丸は何かを感じ取っていたのかもしれない。それが具体的にどんなものなのかは、私にはわからないけれど、山口の膝の上に座り続けていたのも、別の目的があったからではないかと今なら思う。
「また助けてもらったね。ありがとう、幸丸」
「ニャアァァ」
幸丸は私の首筋をぺろっと舐めたあと、頬ずりをする。私は幸丸をぎゅっと抱き締めた。
「ごめんね。幸丸は私のために色々としてくれていたのに、何も気づいてあげられなかった。幸丸は私を助けるために、ひとりで頑張ってくれてたのに。ほんとにごめんね」
腕の中の幸丸が、トントンと頭をつけてきた。その表情は、気にするなよと言っているようにも見えた。
私は頷く。落ち込むのはあとにしよう。幸丸のためにも、今は目の前の問題を解決しないといけない。
真実を知った私は、これからどう行動するべきだろうか。
はっきり言って彼女はまともではない。
私を呪っていた証拠を突き付けても、話が通じるとは思えない。斎藤さんたちに真実を話して全員で詰め寄っても、彼女の負のパワーに燃料を注ぐだけのような気がする。
じゃあ、警察に行く?
でも、誰かを呪って、その人が怪我をしたとしても、法的には罰せられない。呪いの効果を立証することなんてできないから。そう考えると、現時点では、警察には頼れない。
わからない。解決策が見えない。
窓の外から、美咲たちの話し声が聞こえてきて、玄関ドアが開いた。食材の入った袋を抱えた美咲と山口が入ってくる。
「あら、水原さんと幸丸ラブラブね。戻ってくるのが早すぎたかな」
そう言って山口は笑った。
もう騙されない。
私は知っている。
その笑顔の下には邪悪が詰まっていると。
それから程なくして、佐紀ちゃんたちが森の探索から戻ってきた。
全員集合してから一時間ほど、バーベキューで食べる肉や野菜の下ごしらえをみんなでした。
串に何を刺すか、肉と野菜をどういう順番で刺すか、そんなことを話し合っている時は楽しく、一時的に私の中からマイナスの感情が消えていた。でもそれも文字どおり一時的なもので、山口の顔が視界に入った途端、私の心はどんよりと曇った。
下ごしらえが終わったあとは、夕食までの一時間をコテージの中で過ごすことにした。
美咲たちはこのあいだと同じように、幸丸に数字の形を作るようにお願いしていて、優しい幸丸はその要求に応えてあげていた。
山口は一人で二階に上がっていた。ずっと下りてこない。荷物は同じ部屋に置いてあるので、入ろうと思えば入れたけれど、彼女と同じ空間に二人きりになるのは耐え辛く、みんなと一緒に一階で過ごしていた。
遊び始めて三十分ほど経った頃だろうか。それまで軽快に動いていた幸丸が、突然ソファの上に移動して横になった。脚を伸ばして、大きな欠伸をしている。
「幸丸、眠いの?」
私の問い掛けに、幸丸は肯定的な鳴き方をした。
「ぐっすり眠ってていいよ。私たちは外で食べてくるから。幸丸のご飯は冷蔵庫の横に置いておくからね」
幸丸はもう一度鳴くと、目を閉じて眠りに就いた。
家にいる時の幸丸は、あまりこの時間帯に眠ることはないのだけれど、初めてくる場所で疲れたのかもしれない。あるいは、山口の本性を見て、精神的に疲れてしまった可能性もある……。
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