第十二章(後編) 守護神

 自転車で大学に行くと、電車の約二倍の時間がかかるので、いつもより二十分ほど早く家を出ることにした。

 幸丸はもう変な行動を取ることはなく、玄関ドアの前にちょこんと座って私を見つめていた。


「今日帰ってきた時にはだいぶすっきりしてるから、楽しみにしててね。それじゃ、行ってきます」


 幸丸の鳴き声を背中に受けて家を出た。ピカピカの自転車を駐輪場から出して、駅とは反対方向に進み始める。

 自転車で大学に行くのは、去年の十月以来。久しぶりに見る景色を眺めながらペダルを漕ぐのは、なかなか楽しかった。


 本当に、最初は楽しかったのだけれども……。


 私と同じ方向に自転車を進ませる高校生たち。私はその子たちに次々と抜かれていた。

 真顔でペダルを漕いでいる私の横を、楽しそうにお喋りしながら女子高生たちが追い抜いていく。

 爽やかな朝の風を心地良く感じられたのは最初の十分だけで、走り始めてから二十分が経過する頃には、私は早くも息切れしていた。


 おかしい。私、こんなに体力なかったっけ。

 七ヵ月前は、こんなに息切れしていなかったと思う。

 私の体力が落ちたのだろうか。


 そうかもしれない。

 高校生の時は毎日自転車通学していて、ハードな体育の授業もあった。今とは雲泥の差だ。体力が落ちるのも当然か。


 長い上り坂に差し掛かったところで、私は一度自転車から下りた。

 軽々と坂道を上っていく高校生たちを見ながら、自販機で買ったスポーツドリンクを飲む。


 このままではダメだなと思った。就職するまでに、私はもっと体力をつける必要がある。そう気づかせてくれた幸丸に感謝である。


 再び自転車に乗り、長い坂道を上り切った時、前方からサイレンが聞こえてきた。一台だけではなく、複数のサイレン。


 私は自転車から下りて前方を眺める。

 やがて十台くらいのパトカーや救急車が現れ、猛スピードで走り去っていった。

 少し、身体が震えた。


「テロでもあったのかって騒ぎだな」

「そうだな。普通じゃないよ。――スマホには何の通知もきてないな。ニュース速報も何もなし」

 近くに立っていた高校生たちの会話。

 

 何があったか気になったけれど、まだ速報は入っていないようだ。スマホを見るのはあとでいいだろう。私は大学に向かってペダルを漕ぎ始めた。



 ふー。

 大学に着いた時、私は一仕事終えた気分になっていた。早い夏がやってきたかのように、身体は火照っている。額から流れる汗をハンカチで拭いながら、講義室に向かった。


「あっ! 育美! 良かった! 無事だったのね!」

 ドアを開けるなり、私に向かって声が飛んできた。


 声のした方に視線を向けると、美咲たちが駆け寄ってきた。

 美咲はそのままの勢いで私に抱き着き、「良かったぁ」と安堵した顔で言った。

 普段はそんなに喋らない人たちも、どんどん私の元にやってきて、口々に「良かった」という言葉を発していた。

 何が起こっているのかさっぱり理解できない私は、首を傾げた。


「ちょっと、美咲、どうしたのよ?」

「電話したのに、育美出ないんだもん。心配したんだよ」


 美咲は、その言葉どおりの表情をしていた。今にも涙が零れそうなくらい、目は潤んでいる。


 私はバッグの中のスマホを取り出しながら、

「ごめん、スマホはバッグの中に入れたままだった。で、私が無事で良かったってどういう意味?」


「えっ、育美まだ知らないの? 育美が毎日乗ってる時刻の電車に、刃物を持った男が乗り込んできて、人を刺したみたいなのよ。それでたくさん怪我人が出てるって書き込みがあるの。――ほら」

 美咲はスマホの画面を私に見せた。


 今の説明のとおり、SNS上には事件の書き込みが溢れていた。

 それらを総合すると、確かに私がいつも乗る時刻の電車の中で、事件は起こったようだった。


《電車が走り始めてすぐ、男が喚きながら周りにいた人たちを刺し出した》


《十人以上は刺されたと思う。倒れたまま全然動いてない人もいた》


《電車が緊急停止したあと、男は窓を開けて逃げて行った》


 事件の内容を伝える書き込みと共に、現場の写真もいくつかアップされていた。その全てに、血が写っていた。大学にくる時、猛スピードで走り去っていったパトカーと救急車の光景が脳裏を過ぎった。


「育美、何でこの事件知らないの? いつもとは違う時間の電車に乗ってきたとか?」

「ううん。今日は自転車できたの」

「えっ、自転車で? 何で? 四十分くらいかかるよね?」

「えっと……運動不足解消にいいかなって。あと、ダイエットも兼ねて」

 私がお腹をぽんぽんと叩くと、みんなが笑った。緊迫していた空気が緩んだ。


「自転車で大学くるのなんて、かなり久しぶりじゃないの?」

「去年の十月以来だね」

「育美、凄い強運じゃない。いつも乗る電車で殺傷事件が起きた日に、七ヵ月振りの自転車通学をするなんて。宝くじで高額当選するくらいの確率だよ」

「そうね。ほんと、運が良かったわ。自転車できて良かった……」


「ちょっと、ごめん、通して」

 周りに集まっている人を掻き分けて、奥から山口さんが現れた。


 私と視線が合った山口さんは、驚いた顔をした直後、ホッとしたような笑みを浮かべた。


「水原さん、本当に無事で良かった」

「ありがとう」


「ネットの書き込みを見た時、山口さんは誰よりも早く鉄道会社に電話して、育美が被害に遭ってないか確認してたのよ。私もだけど、山口さんも凄く身体震えてたよね」

 と、美咲が説明した。


「心配かけてごめんね」

「水原さんが謝ることじゃないわよ。とにかく無事で良かった。今日自転車できたのはたまたまみたいだけど、一昨日渡したその御守りも、少しは効果があったのかな」

 山口さんは、私がバッグに付けている災厄除けの御守りを見ながら言った。

「ええ、そうね。この御守りが効いたのかも……」


 教授が講義室に入ってきた。みんな席に戻って行く。

 私も席に座ったけれど、教授の話には集中できず、思考は別の方に向いていた。


 私がいつも乗る電車は、四両編成だ。私は大体、最後尾の車両に乗る。刃物を持った男がどの車両に乗り込んできたかはわからないけれど、今日いつもどおり電車に乗っていたら、私も刺されていたかもしれない。殺されていた可能性すらある。美咲が言ったとおり、宝くじに当たるほどの確率で、私は難を逃れたと言っていい。


 その宝くじを買ったのは、自分の意思ではない。

 幸丸とのやりとりで、結果的に自転車でくることになった。


 幸丸……。

 私の頭の中は、幸丸で占められていた。


 今朝の幸丸の行動は、ただの偶然なのだろうか。私は、たまたま助かったのだろうか。

 偶然にしては出来過ぎな気がする。それが率直な感想だった。

 でも、偶然ではないとしたら、幸丸は私を助けるために行動したということになる。


 つまり、幸丸は私が乗る予定だった電車で何が起こるか知っていた。だから自転車で大学に行かせた。そんな答えが生まれてしまう。

 それじゃまるで未来予知ではないか……。


 幸丸は、超能力を持っている?

 いくら幸丸が賢くても、さすがにそれは……。


 そんな風に、色々と考えていると、幸丸に助けてもらった経験は今日が初めてではないことを思い出した。


 自転車のブレーキが二本同時に壊れた時の光景が頭に浮かんできていた。

 ブレーキが壊れる直前、私は長い下り坂を進もうとしていた。だけど幸丸がいつもとは違う鳴き方をしたので、私は進路変更をした。

 もしあの時幸丸が鳴かなかったら、坂道を下りている途中でブレーキが壊れて、大怪我をしていた可能性が高い。


 次に頭に浮かんできたのは、植木鉢の残骸。

 自宅から駅へと続くいつも通る道に、マンションの上階から植木鉢が落ちてきた日。

 あの日の幸丸も、普段とは違う行動を取っていた。私が玄関のドアを開けた瞬間に、幸丸は外に飛び出し、口に咥えた玩具を私に見せて遊ぶように訴えていた。

 もしあの時いつもの時間に家を出ていたら、あの植木鉢は私に当たっていたかもしれない。


 それらの出来事は、ただの偶然だと思っていた。

 でも、その偶然は今日で三度目となる。しかも短期間のあいだに三度だ。

 幸丸が超能力を持っているかもしれないというのは、俄かには信じ難い。しかし私の身に起こった三度の出来事が、全てただの偶然とも思えない。


 幸丸に訊けば、答えてくれるだろうか。

 一刻も早く幸丸に会いたい。


 一限目の講義が終わると、私は家に帰ることにした。私の様子がおかしかったのか、美咲たちは心配する言葉をかけてきたけれど、用事があると適当に答えて大学を出た。


 夢中でペダルを漕ぎ続けたからか、行きと違って帰りは疲労を感じなかった。

 あっという間に自宅に着く。自転車を駐輪場に停め、外階段を駆け上がり、玄関のドアを開けた。


 部屋の奥から幸丸が走ってきて、私の胸の中に飛び込んだ。私の顔に頬ずりする幸丸の表情は、安堵しているようにも見える。


 植木鉢が落ちていた日も、幸丸は帰宅した私の胸に飛び込んで安心したような表情をしていた。明らかに、いつもとは違う動きと表情。やっぱり、何かあるのだろうか……。

 私は部屋に入り、絨毯の上に幸丸と一緒に座った。


「ねえ幸丸。今日ね、凄いことがあったの。それで、早く幸丸に会いたくて、まだ講義が残ってるのに帰ってきちゃった」

 私はそう切り出した。

「今朝、私がいつも乗る電車の中で、刃物を持った男が暴れたの。もし、今日もあの電車に乗っていたら、私は殺されていたかもしれない。でも、私は傷一つ負うことなく、こうして帰ってこられた。幸丸が自転車で大学に行くように言ってくれたおかげだよ」


 幸丸は鳴かずに私をじっと見つめている。


「その事件の話を聞いて、私思い出したの。幸丸に助けられたのは、今日だけじゃないなって。自転車のブレーキが壊れた日のこと、覚えてるよね。あの時、坂道を下りる直前に、幸丸はいつもとは違う鳴き方をした。長い下り坂が怖いんだろうなってずっと思ってたんだけど、本当はブレーキが壊れると知っていたから、あんな鳴き方をして方向転換をさせたんじゃないの?

 いつも通る道に植木鉢が落ちていた日も、幸丸は外に飛び出して咥えた玩具で遊べとアピールした。あの時も、植木鉢が落ちると知っていたから、私の出発を遅らせたんじゃないの? あの日以来、玩具を咥えて遊べアピールしたことなんて一度もないよね」


 これだけ私が話していれば、いつもなら一度くらいは鳴くのだけれども、幸丸は私を見つめたままだ。その瞳を見つめ返しても、真実は映っていない。


「幸丸は、何か特別な能力を持ってるの? たとえば、私の身に危険が迫っていることを察知できるような、そんな力があるの?」


 少しの間があって、幸丸は首を傾げた。

 何を言っているのかわからない。そんな表情に見えた。


 昨日までの私なら、幸丸のこの仕草を見て、私の言っている意味がわからないんだなと答えを出しただろう。


 でも今の私は、この幸丸のポーズを素直に受け止められなかった。

 その内側に、何か別の思いが込められているんじゃないか。そんな考え方になっていた。

 だけど、それを確かめる術はない。


 こうして幸丸が首を傾げている以上、そんな特別な能力は持っていないんだという答えを出すしかなかった。幸丸に助けられた三度の出来事は、全て偶然なのだと。

 私は幸丸の身体を優しく撫でる。幸丸はお腹を見せて、気持ち良さそうに舌を出した。


 そんな幸丸の顔を見ていると、それでいいじゃないかと思った。

 奇妙な偶然。それで片づけてもいいじゃないか。

 特別な能力があろうとなかろうと、幸丸が私の守護神ということに変わりはないのだから。


「幸丸、三回も助けてくれてありがとうね。幸丸は私の守護神だよ」

 それまでずっと黙っていた幸丸は、高らかにニャアと返事をした。

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