第十二章(前編) 守護神
寝起きの悪い朝だった。
何だか眠った感じがしない。
何か夢を見ていたと思うけれど、それは夢ではなく現実だったような気もする。
音……。
そう、何か音が聞こえていたような……。
いつものように幸丸に起こしてもらってベッドから出た時、音の正体が何なのかわかった。
棚の上に置いていた折り畳み財布が床に落ちていて、中は開かれていた。
「えっ、泥棒?」
思わず上擦った声が出る。
私はベッドの側にある窓と、その対角線上にある窓を調べた。
どちらもきちんと施錠されている。
次に私は玄関へと向かった。恐る恐るといった足取りで。
玄関のドアも鍵は閉まっており、チェーンも掛けられたままだった。他に泥棒が侵入できるところはない。
「良かった。泥棒じゃない」
私は胸に手を当てて溜息を吐いた。
ということは、財布が落ちた理由は……。
「ニャア」
足元で幸丸が鳴いた。私をじっと見つめている。
私は財布を拾い上げた。
「もしかして、この財布落としたの、幸丸なの?」
この家には私と幸丸しかいないのだから、泥棒の可能性が消えた今、当然幸丸の仕業ということになる。でも、私はきちんと順序立てて訊きたかった。なぜこんなことをしたのかと。
「ニャッ」
幸丸は短く鳴いた。そうだよ、という返事だ。
「何で財布を落として中を開いたの?」
幸丸は鳴かない。私をじっと見つめるだけ。
財布をよく見ると、銀行等のカードが引き抜かれそうな形になっていた。ただ、猫の前脚では上手く引き抜くことはできないため、どれもカード入れから少し上に出ているだけの状態になっている。
今まで、幸丸がこんな風に財布に悪戯したことはない。右も左もわからない仔猫の頃はともかく、成猫になってからは、私が困るような悪戯はしていなかった。それなのに、なぜ突然こんな悪戯を?
もしかして、悪戯じゃないとか?
自問しておいて、笑ってしまう。
悪戯以外の理由って何? 銀行のカードを使ってお金を下ろそうとしたとか? あるいはお札を引き抜いて何かを買おうとしたとか?
いやいや。いくら幸丸でも、さすがに自分で何かを買おうとはしない……はず。さすがに、そこまでは、ねえ。
大体、幸丸が何を買うというの。キャットフード? 玩具?
食べ物に不満があるのなら、食べている時の表情で気づく。玩具も、仔猫の頃ほどは興味を示さないし、幸丸がお金を払ってまで欲しい物があるとは思えない。
結論。これはただの悪戯だ。
「幸丸、財布は落としちゃダメよ。金運が下がっちゃいそうだもん。お金は大切に扱わないとね」
幸丸が何をしようとしたのかはわからないけれど、一度注意すれば、もうしないはずだ。
「ニャッ」
幸丸はまた短く鳴いたけれど、いつもの鳴き方とは違って低い声だった。
「早く起きて遊んだから、お腹が空いてるでしょう。ちょっと多めにあげるわね」
銀の食器に、いつもの朝食の三割増しでキャットフードを入れた。すぐに幸丸は食べ始めたけれど、その食べ方を見て私は少し心配になった。
心ここにあらず。そんな食べ方に見えた。
口の中に入れようとして零したり、あっちを見たりこっちを見たりしながら食べている。
水を舐める時も、視線をあちこちに彷徨わせて上の空といった感じ。
虫でも飛んでいるのかなと思って部屋の中を注視してみたけれど、どこにも虫は見当たらなかった。
体調が悪いわけではないと思う。もしそうなら、そもそも食べようとしないだろう。
何か気になることでもあるのだろうか。楽しいはずの食事よりも気になることが。
私は二週間ほど前のことを思い出す。
幸丸が何度か昼ご飯を残していた時も、考え事をしているような顔を多く見た。今の幸丸は、あの時と同じように見える。
幸丸とは、かなりの部分で意思の疎通ができているという自負はあるけれど、もちろん完璧ではない。今幸丸が何を考えているのか訊いてみたかった。体調不良ではなさそうだという点は安心できたけれど、やはり気になる。
心だけじゃなく、言葉も通じたらいいのに。ああ、もどかしい。
幸丸の様子が気になりつつも、私は朝食を食べ、化粧と髪型を整えたあと、テレビの前に座った。
いつもならテレビを観ている幸丸は、今は財布等を置いている棚の上に座っていた。
「幸丸、テレビ観ないの? 幸丸が好きなアクション映画の宣伝してるよ」
幸丸はニャッと短く鳴いただけで、こちらに一瞥もくれない。宝探しをする子供のように、一心に何かを探しているようだった。
やはり、今日の幸丸は様子が変だ。
いったいどうしたの?
私は立ち上がり、幸丸の元に向かった。
幸丸は、壁に掛けてあるコルクボードを見つめていた。ボードには幸丸や美咲たちと一緒に撮った写真や予定表が貼ってあり、いくつかの鍵も掛けてある。
「幸丸、ここに貼ってあるものが気になるの?」
「ニャアァァ」
ふむ。どうやら正解のようだ。
「どれが気になるの?」
「ニャア」
幸丸は後ろ脚で立つと、コルクボードの左下、複数の鍵が掛けてあるところを前脚で触った。そこには自宅の鍵、自転車の鍵、郵便受けの鍵、実家の鍵が掛けてある。
「鍵が気になるの?」
「ニャア」
「幸丸、鍵は使わないでしょう」
「ニャッ、ニャッ、ニャッ」
短い鳴き声の三連発。
二連続はよく聞くけれど、三連続はほとんどない。これはどういう意味だろうと考える。
うーん……鍵の種類を教えろとか?
私は自宅の鍵を触って、
「これはお家の鍵だよ」
と言ってみた。
幸丸は鳴かない。じっと鍵を見つめている。
次に私は自転車の鍵を触って、
「これは自転車の鍵だよ」
と言ってみた。
すると幸丸は器用に自転車の鍵を咥え、さっと私の足元に飛び降りた。
呆気に取られて、私は幸丸と見つめ合った。
これはいったい何なのだろうか。家の鍵の時は何の反応も示さず、自転車の鍵と教えたらこの行動。
何を考えているのかはわからないけれど、それは意味のある行動なのだろうなと思った。
私はしゃがんで幸丸に顔を近づけた。
「幸丸、この自転車の鍵で何かしたいの?」
幸丸は絨毯の上に自転車の鍵を落とすと、ニャアと鳴いた。
うん。やっぱり自転車に関係することのようだ。
いったいそれは何だろう。
このあいだ、動物病院に行った帰り、普段とは違う景色を見ている幸丸は楽しそうだった。それを思い出して、またカゴに乗って散歩したくなったのだろうか。ぱっと思いつく理由はそれくらいしかなかった。
「もしかして、自転車のカゴに乗ってお散歩したいの? このあいだみたいに、見たことのない場所に連れて行って欲しいの?」
幸丸は鳴かない。じっと私を見つめている。
どうやら違うようだ。
うーむ。他にどんな理由が考えられるだろう。
「自転車に関することで、何かあるかなぁ。今日は自転車に乗る予定ないし……」
そこまで言った時、幸丸がニャアと鳴いた。
「え、何? 今日は自転車に乗らないよ。大学にはいつも電車で行ってるから」
幸丸は立て続けにニャア、ニャアと鳴いた。
私の頭に幸丸の言いたいことが流れ込んでくる。そんな感覚に包まれた。
「え、何、電車じゃなくて、自転車で大学に行けって言ってるの?」
「ニャアァァ」
幸丸は高らかに鳴いた。
この反応。当たりのようだ。
「何で?」
私は当然の疑問を口にした。
幸丸は答えない。前脚で踏んでいる自転車の鍵を、ごりごりと動かしている。
そんな幸丸の姿を見ていると、私の中に一つの思いが生まれた。
確信はなかったし、別に自分でそう思っているわけではないけれども、訊いてみた。
「まさか、最近太ってきたから、ダイエットのために自転車で行けって言ってるの?」
そう訊いた直後だった。
凄い発見をしたかのように、幸丸の目と口が大きく開かれた。一緒に暮らし始めてから二年五ヵ月。過去最大の表情の変化だった。
「ニャアァァァ」
そうだぁぁぁ、と返答しているように聞こえた。その表情同様、その長い鳴き声も、初めて耳にするものだった。
「誰がデブやねん!」
私は手刀を作り、幸丸の顔にちょこんと当てた。
その行為に対して何か反応を見せて欲しかったのだけれども、幸丸は鳴かず動かず、手刀越しにじっと私を見つめるだけだった。
私はそっと手を引っ込めた。
幸丸の目には、最近の私は太って見えているのだろうか。他の猫なら、そういう概念自体がなさそうだけれども、幸丸ならあり得る。
今の私と幸丸のやり取りを他の人が見たら、多くがこう判断するだろう。
この猫は適当に鳴いているだけだと。私が都合よく解釈しているだけだと。
でも、そうではないという思いがあった。
その思いを確信に変えるために、私は変化した質問をしてみる。
「ねえ幸丸、その自転車の鍵を持って大学に行けばいいの?」
幸丸は鳴かない。
「幸丸、私は自転車に乗って駅に行けばいいの?」
幸丸は鳴かない。
「幸丸、私は自転車に乗って大学に行った方がいいの?」
「ニャアァァァ」
先ほど同様に、長い鳴き声だった。
凄い! 私は身震いした。
今更ながら、幸丸の言葉を聞き分ける能力の高さに脱帽した。本当に素晴らしい。
しかし、そうなると、幸丸は本当に私にダイエットして欲しいと思っている、ということになる。
えー。
私は右手で顔を、左手でお腹を触る。
最近体重が増えたのは事実だった。運動は全くしていないし、体重が減るような特別なこともしていない。
特にこの三日間は、S社の二次面接を突破した嬉しさから、美味しい物を爆食いしていた。特にデザート。
そりゃ、増えちゃうよね、体重。
窓の外を見る。快晴。
まあ、いいかと思った。
もし雨だったなら、どれだけ幸丸が自転車で行けアピールしても拒否したけれど、たまには自転車で大学へ行くのもいいだろう。それに、このあいだ買った自転車には全然乗っていないので、新しい相棒に慣れるいい機会かもしれない。
「わかったわ。幸丸が痩せろって言うのなら従うわよ。私にいつまでも綺麗でいて欲しいんでしょ。うんうん。わかるわよ」
茶化すように言って私は自転車の鍵を取った。
目を細めて鳴く幸丸の表情は、とても嬉しそうに見えた。
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