第十一章(後編) 異形の者

 黒い塊が戻ってきた。

「水原さんの家のトイレ、マットも壁紙も凄くお洒落ね。ホテルみたい」

「褒めてくれてありがとう。マットも壁紙も自分で張り替えたの」


 まだ正体はわからないが、仮にこいつが悪魔、あるいは悪魔のような力を持っているとしよう。それで育美を襲った出来事に説明が付くだろうか。


 触れることなく自転車のブレーキを壊す。

 触れずに植木鉢を落下させる。

 超能力が使える悪魔なら、この二つは簡単にできるだろう。


 ただ一方で、悪魔の仕業だとすると、合点がいかないところがあった。


 、という点だ。

 ブレーキを壊すタイミングも植木鉢を落とすタイミングも、ズレている。特に植木鉢の方は、育美がそこにいないのになぜ落としたのだろうか。


 予め、その時間に故障したり落下したりするように設定していたのだろうか。目覚まし時計のタイマーのように……。


 その場合、山口は、未来の育美の行動パターンを把握していたことになる。

 山口は、予知夢と似たような能力を持っているのだろうか。

 もっとも、本物の悪魔なら、人間の未来を見通せる力を持っていても不思議ではないが……。


 オレは一つの仮説を立てる。

 山口は未来予知の能力を持っていて、育美の行動パターンを把握していた。だから

ブレーキを故障させるタイミングや、植木鉢を落下させるタイミングをコントロールできた。

 しかしオレが予知夢の能力を得たことにより、育美の行動パターンを変えて命を救った。


 今のところ、これが一番納得のできる答えかもしれない。

 これが真実なら、オレの能力は山口を上回っていることになる。『後出しじゃんけん』をしているようなものだから。

 ただ、いつまでもオレの思いが育美に伝わるとは限らない。

 

 早く、こいつを何とかしないと……。


「ねえ、幸丸ぅ。そんなところでこっちを眺めてないで、お姉さんたちと一緒に遊ぼうよ」

 美咲がオレを手招きしている。


 山口は、美咲の隣に一人挟んだ向こう側にいる。

 美咲のところに行けば、山口もオレを触りにくるかもしれない。


 怖い。それがオレの本音だった。

 あいつに触られたら、オレはどうなるのだろう。最悪、死ぬのではないか。死なないまでも、脚の何本か折れるかもしれない。


 でも、このままじっとしているわけにもいかない。あいつが育美にとって危険な存在なら、正体を確かめる必要がある。情報がなければ、対処のしようがないのだから。


 あいつがオレを触りにきて、身体に異変を感じたら即座に逃げればいい。そういう考えを持って、オレは美咲の元に進んだ。

 もっとも、異変を感じた瞬間にオレは死んでいるかもしれないが……。


 美咲はオレを抱っこすると、

「幸丸ぅ、毎日育美の顔見てたら飽きるんじゃない? しばらく私の家にきなよ。可愛がってあげるから」

 と言ってオレの腹をなでなでし始めた。


 美咲の両隣にいた女たちも、オレの身体のあちこちを触り始めた。さながら、実験体のようだ。そんなオレを見て、育美は満面の笑みを浮かべていた。


 そんな状況下でも、オレの意識は山口に集中していた。

 黒い塊の山口が今どこを見ているのかもわからない状態だったが、こちらに近づいてくる様子はなかった。


「ねえ幸丸ぅ、高級猫缶あげるから《5》の形してぇ」

 美咲は甘えた声を出し、オレに芸を要求してきた。


 今は高級猫缶を食べる気もしないし、芸をする気分でもなかったが、美咲の要求に応えてやった。

 すると女たちは歓声を上げ、可愛いーと言いながらまたオレの身体を触り始めた。


 依然として、山口が近づいてくる気配はない。

 オレに危害を加える気はないのかもしれない。

 少なくとも、ここでは。

 そう判断したオレは、山口に近づく決断をした。


 正体を確かめるためには、奴に触れる必要がある。

 誰も気づいていないだろうが、オレの脚は少し震えていた。

 警戒しながら、ゆっくりと、山口に触れられる距離まで進む。


 黒い塊が、オレの鼻先で揺れている。間近で見ると、呑み込まれたら二度と抜け出せないと思わせられるようなどす黒さだった。

 闇の中から手が伸びてきて引き摺り込まれる。そんな映像がオレの脳裏を過ぎった。


 オレは、右の前脚を浮かして、恐る恐る、山口に触った。

 触れた瞬間、信じられないことが起こった。


 オレの前脚に伝わった感触。それは人間の身体を触った時と全く同じものだった。育美と同じ柔らかさである。


 困惑しながらも、オレは前脚で色々なところを触った。

 これは、太ももの感触だ。

 これは、お腹の感触。

 そしてこれは、腕の感触。指もきちんとある。


 今も、山口は黒い塊にしか見えていない。どう見ても人間ではない。しかし感触は人間の身体そのもの。


 これはいったいどういうことなのだ。

 混乱して思考が纏まらない。


「嬉しい。やっと私にも触らせてくれた。――うん。やっぱり賢そうな顔してる。ペットは飼い主に似るって本当なのね」

 と、山口は明るい声音で言った。


 育美の嬉しそうな笑い声が響く。

 間近で聞く山口の声も、他の人間と同じ。映画で観た悪魔のような、地の底から聞こえてくるような感じではない。


 そして山口の匂いも、人間のものだった。香水の匂いがきついが、それは他の女にも言えることだ。


 この山口と呼ばれている者は、正真正銘の人間なのか?

 人間なのだとしたら、なぜオレの目には悪魔のような姿に映っているのだろう。

 人間と悪魔。悪魔と人間。人間……悪魔……悪魔……人間……。


 二つの言葉を繰り返し心の中で唱えていると、『悪魔のような人間』という言葉が頭に浮かんできた。


 それは、過去に観た映画やドラマの中の台詞だ。一度だけではなく、何度か聞いたことがある。残虐な行為や冷たい言動を取る人間に対して使われる言葉らしい。


 オレは思った。

 もしも、悪魔のような心を持った人間の姿が、オレの目には悪魔に見えるとしたら。

 育美の未来を夢で見る力を持っているオレなら、そんな普通じゃない見え方になってもおかしくはないのではないか。


 山口は本物の悪魔か……。

 それとも悪魔のような心を持った人間か……。


「ねえ、来週の土日、みんなでキャンプに行かない?」

 と、山口が言った。

「すでに内定を貰った三人のお祝いと、最終面接を控える私と水原さんの息抜きといった感じで遊びに行きたいの。東条さんに関しては、来週の土日を迎える前に第一志望の会社の結果が出るみたいだから、内定のお祝いができればいいなと思ってる。来週の土日だと急かもしれないけど、再来週の土日だと、次の月曜日がS社の最終面接日だから、さすがにキャンプしてる余裕はないって思ったの。どうかな?」


 話し終えた山口のツノが伸びた、ように見えた。錯覚だろうか。


 キャンプ。

 確か、自然の中で食事をしたり寝泊まりしたりすること。

 山口は遊びに誘っているだけなのだろうか、それともよこしまな目的があるのか。

 オレは会話を見守る。


「おー、いいね、キャンプ。今くらいの季節にやるのが、一番気持ち良さそう。山口さんの期待に応えて、私のお祝い会になればいいな」

 美咲は乗り気のようだ。


「キャンプかぁ。中学生の時以来してないな」

 育美の声の調子は普通。乗り気かどうかわからない。


「あたしも行きたいけど、テントで寝るのは嫌だな。何か怖いもん。変な男とか入ってきそうじゃない? だからコテージがあるキャンプ場がいいな」

「コテージで寝ても、変な男がいたら怖いんじゃないの?」

「コテージならドアと窓に鍵掛けられるじゃん」

「まあそりゃそうだけど」


「私はテントの方がいいな。キャンプって言ったら、テントの中で眠るのが醍醐味じゃないの」

「私もそう思う。テントに一票」

「現時点でテント派二票、コテージ派一票。じゃあ私はコテージにするわ。これで二対二。山口さんはどっち?」

「私もコテージの方に一票入れるわ」


「これで三対二。育美はどっちがいいの?」

「私はどっちでもいいけど……」

「どっちでもいいはダメ。どっちかに決めて。同数ならじゃんけんか何かで決めるから」

「そのキャンプって、泊まりだよね?」


「そりゃそうでしょ」

「私は幸丸の世話があるから、泊まりだと行けないかな。ペットホテルに幸丸を預けるのは可哀想だし」

 育美はオレを見た。視線が交わる。


「育美は優しいねえ。じゃあ、どうしようか。猫連れて行けるキャンプ場なんてあるかな」


「あるわよ」

 と、山口は即答した。

「みんなでキャンプに行きたいって思った時に、幸丸のこともきちんと考えて調べたから大丈夫よ」


「ほんとに猫OKのところあるの?」

 育美の声は少し弾んでいる。


「ええ。県内にあるいくつかのキャンプ場は、ペット可のところもあるのよ。犬と違って猫の場合は制約が多いんだけど、猫と一緒にコテージで寝泊まりできるキャンプ場を見つけてあるわ。普通にバーベキューもできるし、テントで眠るキャンプとそんなに違いはないと思うけど」


 美咲がパンパンと手を叩いて、

「はい、これで決まりね。いいじゃん、コテージで寝泊まりでも。バーベキューはできるんだし、幸丸も連れて行った方が絶対に楽しいよ。幸丸もキャンプ行きたいでしょ?」


 当然だ。絶対に付いて行くに決まっている。外で育美と山口が二人きりになる場面を想像しただけで震える。


 オレが鳴いて返事をすると、

「ほら、幸丸も行きたいって。これで決まりね」


「山口さんありがとう。幸丸も連れて行ける場所を見つけてくれて」

「いいのよ。みんなで楽しみたいもの。みんな来週の土日でいい? OKなら早速予約するわ」


 育美を含めて、全員次の土日でも構わないという返事だった。山口はスマホでキャンプ場に電話をかけ、予約を取った。


「ねえ、バーベキューする時、みんなの分のハンバーグ作ってもいい?」

 電話を切った山口が、みんなに訊ねた。


「え、作ってくれるの、ありがとー。他の料理も全部山口さんに任せちゃっていい?」

「コラッ、佐紀、調子に乗るな。串刺しくらいはあんたでもできるでしょ」

「まあ、その辺は分担すればいいんじゃない。買い出しする人とか、道具の準備をする人とか。私は二日間料理担当でもいいけど」


「そんなに料理好きなんだ。あたしは自分が食べる物を作るのも面倒臭い」

 その言葉のとおり、佐紀は面倒臭そうな顔をしている。


「私の作った物を食べて、美味しいって言ってくれる人の顔を見るのが好きなの」

 そう話す山口のツノは膨張していた。オレがさっき見たツノの異変は錯覚ではなかった。ツノは脈を打つかのように、膨らんだり萎んだりを繰り返している。


 この動きは、何を表しているのだろう。

 キャンプ場に行けることに対して興奮しているのか?


 そうだとすると、みんなと行けるから喜んでいるわけではないだろう。育美を連れて行けるから興奮しているのかもしれない。キャンプ場で育美に危害を加える気なのだろうか。


 かもしれないとか、だろうとか、推測でしか言えないことがとてももどかしかった。

 山口は育美にとって危険な存在だとオレは確信している。だが、物的証拠がない。


 三日だけでいいから、オレは人間になりたかった。人間になって、山口に関する情報を集めたかった。こいつの正体が何であれ、山口の周辺で起こったことを調べれば、どんな方法で育美たちを襲っているかわかるはずなのだ。

 だが、猫のオレに調べる手段はない。


 育美たちの会話はとても弾んでいる。全員がそうだというわけではないが、基本的に女の声音は耳に心地良い。今、部屋の中に響いている女たちの会話も、目を閉じて聞いているととても穏やかな気持ちになる。

 だが、目を開けると、そこには悪魔がいるのだった。


 山口は、午後五時の時報が鳴ったあと、美咲たちと共に帰って行った。

 窓の外を見ると、山口の頭上を鴉たちが鳴きながら旋回していた。あいつの姿が人間以外の何かに見えるのは、どうやらオレだけじゃないらしい。


 山口が座っていた座布団や、あいつが使用したトイレを見てみたが、特に異常は見受けられなかった。

 しかし家の中の空気は、明らかに重くなっていた。部屋の中はどんよりとしていて、酷く居心地が悪い。


 換気して元に戻るのかどうかわからないが、家じゅうの窓とドアを開けて欲しかった。何か嫌なことが起こるような、そんな雰囲気が漂っていた。


 そのオレの感覚は当たっていたみたいだ。

 その夜、オレは、育美が殺される夢を見てしまった。

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