第十一章(中編) 異形の者

 そいつはオレから離れていくと、美咲たちと一緒にテーブルを囲んで座った。

 育美は、腕にぶら下がったままのオレを連れて行こうとしたが、オレはそれを拒否してまた窓際へと座った。そいつの側へは行きたくない。その一心だった。


 美咲たちが袋の中から大量の菓子やデザートを取り出し、テーブルの上に置き始めた。

 そいつも、袋から菓子を取り出して育美に渡した。


「水原さん、これ新作のチョコ。食べてみて」

「わあ、ありがとう、山口さん」


 さっきは恐怖心のあまり聞き逃していたが、そいつの名前は山口というのか。

 人間の名前で呼んでいるのだから、こいつは人間ということになるのだろう。山口に対する育美たちの接し方を見ても、そう判断するしかない。


 だが、山口の姿は、オレの目には人間の姿に映っていなかった。

 オレが認識している人間の姿とは、まるで違っていた。


 人間の姿は必ずしも同じではない、というくらいの知識はオレも持っている。

 たとえば障がいや病気が原因で、手足や指、目や耳の数が健常者とは違う人間もいる。肌の色も、人種によって違うことは知っている。


 そういった知識を持った上で言う。

 山口と呼ばれている者の外見は、手足の数が違うとか、肌の色が違うとか、そういう差異ではない。言葉どおりの意味で、人間の姿をしていないのだ。


 オレの目に映っている山口は、一言で言うなら影が動いている感じだった。黒い塊には、目も鼻も口も耳も手足も何も付いていない。辛うじて、形だけは人間のように見えなくもないというところか。上部は丸く、真ん中は横に広く、下方は少し細い。山口はそういう形をしている。


 世界は広い。

 もしかしたらオレが知らないだけで、こういう姿の人間がいるのだろうか。

 この世界には、現代の医療では治せない難病や奇病が存在するという。何かしらの病で、こんな姿になっているのだろうか。


 しかし、そうだとすると、なぜ口が付いていないのに喋れる? なぜ目が付いていないのに見える? 人間かどうか以前に、生物かどうかを怪しむレベルの外見なのではないか。


 恐怖心はまだオレをきつく縛っていたが、更に山口を観察することにした。

 少しして、ソレの存在に気づいた。


 山口の上部、人間で言うところの頭部に、出っ張っているものが見えた。上部の横側から二本、何かが出ている。その突起物は直線的ではなく、途中で真上に角度を変えて伸びていた。


 頭からこんな突起物が出ている人間は見たことがない。

 やはりこいつは人間じゃないという思いが強まる一方、なぜ人間の名前で呼ばれているのかということには説明が付けられない。

 何が起きているんだ。いったいこいつは何者なんだ。


「――でね、アレが現れる度に叫んじゃった。ほんと、今まで観たホラー映画の中でも五本の指に入るくらい怖かったわ。昨日の夜は、なかなか寝付けなかったもん」

「何でそんな怖がりなのにホラー映画好きなのよ」

「わかんないけど、求めちゃうのよね、身体が」

「そこに山があるから登るみたいな感じ? そこにホラー映画があるから再生しちゃうみたいな」


「あ、そうそう。そんな感じ」

「何カッコつけた言い方してんのよ」

「そっちが振ったんでしょ」


 育美と美咲の会話。育美が、昨日の夜に観たホラー映画の感想を話している。

 その会話が耳に入ってきた直後、オレの記憶が強く刺激された。

 見たことがあると思った。


 オレは過去に、山口と呼ばれる者に似たものを見たことがある、と。

 黒い塊をじっと見つめながら、必死に思い出そうとする。オレはいったいどこでこいつに似たものを見たんだ。


 育美たちの会話の中に、再びホラー映画という言葉が出てきた時、オレは思い出すことに成功した。


 そうだ! 以前観た映画で、あんな姿の生き物を見たことがあるのだ。

 確かそいつは、悪魔と呼ばれていたと思う。人間を襲って殺す悪魔。映画で観た悪魔は、人間と同じように目も口も付いていたが、人間には付いていないものが一つ付いていた。


 それは頭から生えていたツノだ。

 悪魔の頭部には、こめかみの部分から二本の太いツノが生えていた。

 最初は横に伸びていて、途中から角度を変えて真上に伸びるという形。


 映画の中の悪魔は、瞬間移動したり口から火を噴いたり、初めて目にする存在だったので強く印象に残っている。こんな奴が家の中に入ってきたら、どうやって倒せばいいのだろうと、映画を観ながら本気で心配していた。


 まだこの世界がどういうものか全く知らなかった仔猫の頃の話だ。

 それからいくらか時間が経って、悪魔に怯える必要はないとわかった。

 悪魔は、現実には存在しない。映画や漫画の中にだけ登場する架空の生物。だから何も恐れる必要はないのだ。


 その認識は間違っていないはず。

 それなのに、今オレの前に、悪魔そっくりの何かがいる。


 大学にいるカッコいい男の話。最近できたケーキ食べ放題の店の話。内定を貰った会社の話。最終面接を控えている育美たちの話。

 話題は尽きることなく、会話はずっと盛り上がっていた。

 その中に得体の知れない何かが混ざって、一緒に笑い声を上げている。


 そんな盛り上がっている会話の中で、山口と呼ばれる者も、育美と同じS社の二次面接を合格したことを知った。

 こんな奴を食品会社に入社させたら、とんでもないことが起こるのではないか……。

 いや、そもそも、何でこいつは面接を受けて合格しているんだ。面接官は、こいつを見ても何も思わなかったのだろうか。


 時間が経ってもオレの混乱は収まらない。緊張が緩むこともない。何もかもが不正確なまま、時間は過ぎていく。


「あ、そうだ、水原さん。御守り持ってきたからあげるわね」

 悪魔のような姿の山口は、バッグの中から何かを取り出すと、それを育美に渡した。


「ありがとう。うわぁ、厳かな感じがする御守りだね。すごく値段が高そう。山口さん、私お金払うわよ」

「いいのいいの。友達を助けるのは当たり前だから」

「助ける? 何の話? 何で御守りあげてるの?」

 美咲が育美と山口の会話に割って入る。オレも理由を知りたかった。


「昨日、山口さんに訊かれたのよ。最近災難だなと思うような出来事に遭ってないかって。それで、いくつか思い当たることがあったから話したら、この災厄除けに効果のある御守りをくれるって話になったの」

「災難って、具体的にどんなこと?」


「自転車のブレーキが二つ同時に壊れたとか、いつも通る時間帯の道にマンションの上階から植木鉢が落ちてたとか、そういうこと」

「ええっ、それってめっちゃ危ないじゃん。初耳なんだけど」

「昨日山口さんに訊かれるまで誰にも話してなかったからね」

「それで大丈夫だったの?」


「ブレーキが壊れた時は、平坦な道の上だったから助かった感じ。植木鉢が落ちた正確な時間はわからないけど、その日はいつもより家を出る時間が遅かったから助かったのかもしれない」

 その話をしている時、育美は一度オレの方に視線を向けた。


「少し展開が違っただけで、大怪我してたかもしれないってわけか」

「そうなの。まあ、怪我をしてないから、災難に遭ってるのかどうかは判断が難しいところなんだけど」

「育美が強運なのは間違いないわね。運の悪い人間なら、坂道を下ってる時にブレーキが壊れて大怪我するか、植木鉢が頭に当たって死んでるかもしれないんだし」

「そうだね。そう考えると、私は運が良いんだと思う」


「でも、水原さんの強運もいつまで続くかわからないから、この御守りは肌身離さず持っていた方がいいわ」

「うん。ありがとう。いつも使ってるバッグに付けておくわ」

「それにしても山口さん、よく人に御守りをあげてるわよね。育美はこれで二個目でしょ? 私は一個も貰ってないけど」


 美咲の不満そうな物言いに、山口は笑い声を上げて、何か欲しい御守りがあるならあげるわよと言葉を返した。


 育美たちの話を聞いていて、オレは一つ思い出した。

 そういえば、以前、育美は大学の友達から就活祈願の御守りを貰ったと話していた。凄くご利益のある神社の御守りなので、努力が報われる気がしてきたと、育美は嬉しそうにしていたっけ。


 その御守りをくれた相手の名前は覚えていないが、今の話の流れからすると、その相手は山口と見て間違いないようだ。


 オレは戸惑う。

 本当に効果があるかどうかは置いておいて、御守りには神様の力が宿っているとされている。


 そういう物を育美に渡したということは、この悪魔とそっくりな姿の山口は、育美の身を案じているのだろうか。就活祈願の御守りを渡したのも、育美に第一志望の会社に入って欲しいという思いからか?


 それが真実だとすると、この山口は良い人ということになる。見た目は悪魔そっくりだが、思い遣りのある良い人。


 人間社会には、人を見た目で判断してはいけないという、一種の戒めのような言葉がある。


 それは正しいと思う。一見危なそうな外見でも猫に優しい人間はいるし、虫も殺せないような見た目の人間が猫を虐待したりする。見た目で判断するのは危険なのだ。


 だが、本当に、山口は良い人なのだろうか……。


 育美と暮らし始めてから二年以上。オレの野性味はほとんどなくなっていた。無防備に腹を出して眠るし、大きな物音がしても眠り続ける。危機管理能力は、今や皆無に等しい。


 しかしそんなオレの中にも、僅かに野生動物として生きていた頃の血は残っていた。

 その野生の勘が告げていた。こいつは危険な奴だと。近づいてはいけないと。


「ねえ育美。さっきの話聞いて思い出したんだけど、ほんとに大丈夫なの?」

 と、美咲が訊ねた。少し心配そうな表情になっている。


「何が?」

「このあいだ山口さんが言ってた、S社の就職試験を受けた人たちが災難に遭ってるって話よ。育美は怪我しなかったけど、一歩間違ってたら大惨事になってたわけだよね」

「その話、またするの?」

「ちょっと心配じゃない? だって、ブレーキが壊れたのって、斎藤さんと同じだよね」


「まあ、それに関しては、怖い偶然だとは思うけどね。私の自転車のブレーキが壊れた翌日に、斎藤さんのバイクのブレーキが壊れてるし」

「えっ、育美の自転車のブレーキが壊れた話って、斎藤さんが事故に遭う前日の出来事なの?」

「そうなの。私も一歩間違えてたら、斎藤さんのように全治数ヵ月の大怪我をしていたかもしれない」

「その事実知って、ますます心配になってきたんだけど。ほんとにそれ偶然なの? S社の二次面接を通過した二人が、連日ブレーキの故障に見舞われるなんて」


「その時点では、私も斎藤さんも二次面接通過してないけどね」

「ああ、もう、そんな細かいことはどうでもいいのよ」

「美咲って、そんな心配性だったっけ?」

「えー、誰でも気にすると思うけど」


「誰でも? 佐紀ちゃんたちは気にしてないっぽいよ」

「佐紀は今の話聞いてどう思った?」

「まあ、気味の悪い偶然って感じかな。育美が怪我してたらオカルト的な考えもしちゃうかもだけど、育美は無傷だし」

「そう、そこよね。私は無事なんだからさ。ただの偶然だって」


「そうなのかなぁ……」

「このあいだも言ったけど、生きてたら大なり小なり、災難に遭うって。美咲だって、先月山登った時、足滑らせて危うく滑落しそうになったじゃん」

「あー、その話蒸し返すのやめて。マジで黒歴史なんだから」

「それで、滑落しかけた美咲はS社の就職試験受けたの?」


「受けてないです」

「私の言わんとしてること、わかるよね」

「はい、わかります、育美先生」


 育美と美咲のやりとりを見て、他の女たちは笑い声を上げていた。

 オレは全然笑えなかった。


 育美と同じS社の二次面接を合格した人間が、ブレーキの故障で大怪我をした? 他にもS社の就職試験を受けた人間たちが災難に遭っている?

 何だそれは……。

 育美はただの偶然だと思っているようだが、本当にそうなのだろうか。


 美咲だけが、それらの事実に対して変な感じを受けているようだったが、オレも美咲側だった。


 予知夢を見ていなければ、オレも育美と同じように、ただの偶然だと判断しただろう。

 育美が言ったとおり、生きていれば怪我くらいするし、事故に遭うのも珍しくはないはず。人間が暮らす世界には、そういう場所や物がたくさんあるのだから。


 だが、二度も予知夢を見たオレとしては、それらの出来事は単なる偶然ではないのではないかという思いになっていた。


 初めて予知夢を見た時から、ずっと霧の中を歩き続けているような状態だったが、新たな事実を聞いて、霧の中に影が見えた気がした。


 やはり、育美が危険な目に遭う原因は存在するのではないか。

 いや、育美一人の問題ではなくなっている気がする。育美たちは、《何か》に狙われているんじゃないか。


「水原さん、トイレ借りるわね」

「どうぞー」

 黒い塊が、トイレのある方へと消えていく。


 あっ……。

 オレはなぜ、この黒い塊を見た時に気づかなかったのだろうか。いくら恐怖心に身体と心を縛られていたといっても、その考えが浮かんでこなかったのはあまりにも間抜けだ。


 目の前に、オレが探し求めていた答えがあるじゃないか。

《何か》が、そこにいるじゃないか。

 山口と呼ばれている者が、災厄の原因なのだ。オレは確信した。

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