第十一章(前編) 異形の者

 雨が窓を激しく叩いていたその夜、育美は帰ってくるなりオレに抱き着いてきた。


「じゃーん。幸丸、見て見て。S社から合格通知が届いたのよ! 私、二次面接を突破したの! やったあ!」


 育美はオレにスマホの画面を見せて喜びを爆発させていた。

 一次試験を合格した時も凄い喜びようだったが、今回はその二倍、いや三倍くらいの歓喜だった。


 育美はS社と並行して、他の会社の就職試験も受けているようだったが、一次や二次の試験を合格してもここまで喜んではいなかった。

 それだけ、S社に入社したい気持ちが強いのだろう。


「でも、これで終わりじゃないの。あと一つ、最終面接をクリアしないといけない。社長直々の面接だから、きちんと対策しておかないとね」


 面接の受け答えの難しさというのは、もちろんオレにはわからないことだが、社長と言えば会社で一番偉い人間。一番偉い人間の面接だから、今までとは違う難しさがあるのだろうなということは理解できた。


「あー、今から緊張してきた。ねえ、幸丸、私大丈夫よね。きっと最終面接に合格できるよね」


 育美は潤んだ瞳でオレを見つめる。

 育美なら大丈夫だ。そんな思いを込めて、オレは高らかに鳴いた。

 すると育美はぱっと明るい表情に変わった。


「そうよね。大丈夫よね。幸丸、私が合格できるように、応援しててね」

 その言葉に対して、オレはもう一度高らかに鳴いた。


 それから育美は、二次面接合格のお祝いとして、オレの夕食に高級猫缶を御馳走してくれた。これまでで一番値段の高い猫缶ということだった。

 育美が最終面接に合格したら、世界で一番値段の高い猫缶を買ってくれるかもしれない。


 夕食を食べ終え、毛繕いしている時、育美がオレの隣にしゃがんで話し掛けてきた。

 

「ねえ、幸丸。明日、友達が五人遊びにくるの。そのうちの二人は、幸丸も知ってる美咲と佐紀ちゃん。で、他の三人は初めてくるんだけど、あの動画を観て幸丸に興味を持ったのよ。だから、明日はアレやってコレやってって言ってくると思うけど、少し我慢して付き合ってあげて。もちろん、嫌な時は嫌ってはっきり鳴いていいからね。あっ、でも、威嚇はしないでね、怖がっちゃうから」


 育美は笑いながら猫の威嚇の真似をした。

 わかったという意味を込めて、オレは短く鳴いた。


 五人も遊びにくるのか。オレが覚えている限りでは、この部屋にくる最大人数だった。


 美咲はよく知っている。この部屋に遊びにくる回数は美咲が最も多い。育美の高校時代からの親友のようで、とにかくよく喋る女という印象だ。

 だが、うるさい感じはなく、オレとの距離感も程よい感じで気に入っていた。


 育美が佐紀ちゃんと呼ぶ女は、美咲の次にここに遊びにくる友達だった。育美と同い年みたいだが、やりとりを見聞きする限りでは、年下のような印象を持っていた。


 初めてくる三人はどんな感じの女たちだろう。美咲のように喋り続けるタイプか、佐紀のように喋り方や受け答えが幼い感じか。


 いや、友達だから男ということも有り得るのか。オレが同居するようになって以降、この家に男が上がったことはないが……。


 いずれにしても、オレにあまりちょっかいをかけてこない人間であって欲しかった。

 育美にお願いされたから、芸を見せてやるのは構わない。オレが作る《5》や《1》や《6》の形が見たいのなら、いくらでも見せてやる。

 だからあまり乱暴な手つきで触ってきてくれるなよと願った。


 実際にそんな扱いを受けたことはないが、ネットの動画では、デリカシーのない触り方をする人間をよく見かけていた。


 人間だって、見ず知らずの誰かにいきなりベタベタ触られたら絶対に嫌なはずだ。相手が生理的に受け付けないタイプだったら尚更。オレたち猫も人間と同じ感覚なのである。

 まあ、育美の友達だから、その辺はしっかりしているだろう。




 翌日――。

 育美は目覚まし時計が鳴るなり、すぐに目覚めてベッドを出た。

 それから育美はオレと一緒に朝食を食べたあと、ノートパソコンの前に座って、長いあいだ一人で喋り続けていた。

 喋っている内容を聞いていると、どうやら最終面接に関する受け答えの練習をしているみたいだった。

 育美は時折、手鏡を持って、笑顔をつくったり真剣な表情をつくったりしていた。質問に答える際、そういった表情も大事な要素になるのだろう。

 

 ふむ。

 今日一発で起きたのは、最終面接の練習をするためか。

 最終面接までは、まだだいぶ日数があるのに、この気合の入りよう。


 育美なら、きっと大丈夫だと思った。

 この情熱は、必ずS社の社長に伝わるはず。

 オレも、その日まで、神様に願い続けようと思った。

 どうか育美が最終面接に合格しますようにと。



 昼ご飯の時間が近づいてきた時、窓の外から女たちの話し声が聞こえてきた。

 その中に、聞いたことのある声が混じっていた。きっと育美の友達がきたのだと思った。

 予想どおり、育美は窓の外を見て「きたきた」と言って玄関へと向かった。


 オレは窓際に座ったまま、部屋に入ってくる育美の友達を眺めることにした。


 玄関のドアが開く音がし、育美と友達の話し声が聞こえてきた。

 瞬間、オレの身体の中を、何かが通り抜けたような感覚になった。

 それがいったい何なのか、自分でもわからない。

 恐らく、初めての感覚。だから説明できない。今のは、いったい……。


 育美が友達を連れて部屋に戻ってきた。

 最初に姿を見せた女の声と匂いはよく覚えている。美咲だ。

 美咲はオレの眼前まで近寄ると、

「幸丸ぅ、元気だったかぁ。二ヵ月ぶりだけど、私のこと覚えてる?」


 育美の親友を忘れるわけがない。

 覚えてるぞ。そう思いを込めて鳴くと、美咲は嬉しそうに頷いた。


「おおっ、覚えてくれてたか。良かったぁ。ねえ幸丸、五月十六日を身体で表現する動画、めっちゃバズって超有名猫じゃん。凄いねぇ」

 そう言って美咲はオレの頭を優しく撫でた。


 マシンガンのように喋り続ける女だが、触り方は優しい。猫を飼っていた経験があるらしいので、猫の気持ちはわかっているのだろう。オレが手の甲に頬を擦りつけると、美咲は可愛いーと言いながらオレを抱き締めた。


 二番目に入ってきた女の匂いと声も覚えがあった。佐紀だ。美咲に続いて佐紀もオレにぐっと顔を近づけてきた。


「やっほー、幸丸ちゃん。あたしのこと覚えてる? 三ヵ月ぶりだから、忘れたかな?」

「三ヵ月前なら余裕で覚えてるわよ。ね、幸丸」


 育美の言うとおり。二ヵ月前も三ヵ月前も変わらん。

 オレは高らかに鳴き、佐紀の手の甲に前脚を載せてスリスリした。佐紀は、きゃはははと笑い声を上げた。


「すごーい。育美おばちゃんと違って、記憶力がいいんだねえ。ほんとに天才猫だ」

「こんなお肌ぴちぴちのお姉さん捕まえて、何がおばちゃんよ。ねえ、幸丸、私は綺麗な若いお姉さんだよね」


 育美はおばちゃんではなくお姉さん。

 それにはオレも同意するのだが、ここでは鳴かない方が面白いのだろうなと思い、無言のまま窓の外に視線を移した。いわゆる、空気を読むというやつだ。


 オレの読みどおり、美咲と佐紀は大笑いした。育美は恨めしそうな目でオレを見ている。その視線を、オレはそっと受け流した。


 続いて三人目と四人目が入ってきた。

 聞こえてくる声も、嗅ぐ匂いも、初めての女たち。

 二人はオレに近づき、「可愛いー。お利口さんの雰囲気が出てる」とか「目力が強い。何か、他の猫と違う感じがする」という感想を述べていた。

 そんな二人も、オレを撫でる手つきは優しかった。やはり育美の友達にがさつな人間はいないようだ。


 さて、最後の一人はどんな感じだろう。

 少し遅れて、五人目が部屋に入ってきた。


「水原さんの部屋、とっても綺麗にしてるわね。――あの子が幸丸ね。ほんと、賢そうな顔をしてるわ」


 えっ! ええっ? ええぇぇぇ! な、なんだこいつはっ!

 最後に入ってきた奴を見た時、オレはぎょっとした。


 防衛本能が働いたのか、オレは無意識のうちに立ち上がり、後退っていた。

 窓際に座っていたことも忘れ、オレは脚を滑らせ落下しそうになる。

 思わず鳴き声を上げてしまったが、寸でのところで踏み止まり、再び窓枠によじ登った。


 そんな間抜けな格好になったオレを見て、育美が笑いながら近寄ってきた。

「ちょっと、どうしたの幸丸? 初めて見る人だからびっくりしたの?」


「大丈夫よ。私は食べたりしないから」

 と、そいつは言った。


 食べたりしないだと?

 冗談で言ったのか、それともオレへの脅しなのか、その姿からは判断できない。


「ほんとに賢そうな顔をしてるわよね。凛々しいっていう言い方でもいいかな。可愛いだけの猫とは違う感じ」


 こんな姿の奴に褒められても、全然嬉しくない。

 そいつが、オレの方に近づいてくるのがわかった。

 くるな! くるな! くるなぁ!


 オレは育美の腕にしがみつくように掴まった。絶対に離れない。強い意志でぶら下がり続ける。


「あれ、私嫌われてるのかな。他の人たちみたいに触らせてくれないみたい」

「そんなことないわよ。あれだ、山口さんが美人だから、緊張してるのかも」


「ちょっと、それじゃ私たちが美人じゃないみたいじゃない」

 と、美咲が頬を膨らませて言った。


「いや、そういう意味じゃなくて、ほら、緊張するタイプの美人と取っつき易いタイプの美人がいるってこと。美咲たちは後者ね」

「あー、はいはい、それなら納得だわ。私、よくナンパされるもん。声をかけ易いタイプの美人ってことよね」

 そう言って美咲は愉快そうに笑った。


 いったいなぜ、この状況で育美たちは普通に会話ができるのだろう。

 こいつの姿を見て、なぜ平然としていられるんだ。なぜ誰も怖がらないんだ。


 オレは何かを見落としているのだろうか。あるいは何か勘違いしているのだろうか。考えようとするが、恐怖心に身体を包まれている現状では、冷静な判断ができなかった。

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