第十章 御守り
駅前の横断歩道を渡っている時、叫び声が聞こえてきた。
叫び声の上がった方に振り向くと、駅前の通りに立っている男が意味不明な言葉を絶叫していた。
何度か見たことがあると思った。
最近見たのは、一ヵ月くらい前だったか。その時もやはり意味不明な言葉を叫んでいて、警察官に注意されていた。
触らぬ神に祟りなし。
私は歩度を速めて駅の構内を目指したけれど、視線を感じて振り向いてしまった。
男が私を見ていた。無言で、じっと。
視線が交わった瞬間、男の人相が凶暴なものへと変わり、意味不明な言葉を大音声で私にぶつけてきた。
ヤバッ!
私はほとんど走る格好で駅の構内に入り、そのまま階段を駆け上がった。
振り返る。さっきの男の姿はない。叫び声も聞こえてこない。
はあ、怖かったぁ。
私は溜息を吐く。今度から安易に振り向くのは止めよう。
恐怖を感じたからか、私は尿意を催してしまった。トイレに入り用を足す。手を洗いながら鏡を見ていると、昨日の出来事を思い出した。
自販機の中から出てきた紙片を見て、二人のギャルが悲鳴を上げた件。
その紙片には、文字か記号かわからないものが赤色で記されていた。
その女の子たちの友達の話では、このトイレに張り付けてある鏡の裏からも、似たような紙片が出てきたということだった。
手を拭いたあと、私は鏡を横から覗いてみた。
隙間には、何もなかった。
もう一枚の鏡の裏も覗いてみたけれど、結果は同じ。
今度は自販機のところに行って、取り出し口の中を触ってみる。
紙の感触はない。自販機の下やゴミ箱の周りを見回すけれど、紙片は確認できなかった。
いったい、あの紙片は何だったのだろうか。
他人から見て、それがどんなに下らないことでも、あの紙片には必ず意味があるはずだ。文字か記号かわからないものを紙片に書き、自販機の中に入れたり鏡の裏に貼ったりする意味が、必ず。
紙片がどこかにないか探し回っておいて言うのもなんだけれど、そこまで気を引かれるわけではない。もしまた紙片があったら、あの文字か記号かわからないものを写真に撮って画像検索でもしようと思った程度で、別にないのならそれで構わない。
電車がやってきた。
シートに座ってスマホを操作し始めた頃には、もう紙片のことは頭の中から消え去っていた。
講義室に入ると、前の方に美咲たちの姿を見つけた。でもその列の席は埋まっていた。
他に友達がいる席はないかと見回していると、山口さんの後ろ姿が目に留まった。中央の席に座っている。私はその隣に座ることにした。
「おはよう、山口さん」
私は机の上にバッグを置き、腰を下ろした。
「あ、おはよう、水原さん」
山口さんは飲んでいた缶コーヒーを置いて笑顔を見せた。
「雨、降ってなかった?」
「雨の匂いはしてたけど、ギリギリ大丈夫だった。ほら、私、晴れ女だから」
私は掌を天井に向けるポーズを作り、おどけてみせた。
「水原さんが晴れ女って初めて聞いた」
「黙ってたけど、実はそうなのよ」
「でも、みんなで遊びに行くと、雨降ってる時多くない?」
「あれは美咲が雨女だからよ」
「晴れ女は、雨女に勝てないの?」
「美咲のソレは、台風並みの威力だから」
私がそう言うと、山口さんは愉快そうに笑った。笑っている途中で、思い出したように手を叩いた。
「あ、そうだ。幸丸の動画が放送される日って決まってるの?」
「うん。今度の日曜日、夕方のニュース番組の中で放送されるみたい。〇チャンネルで」
「テレビで放送されたら、更に人気爆発すると思う。ああ、楽しみ」
幸丸が《5月16日》を表現した動画は、公開から丸一日経った今、視聴回数が五十万回を超えていた。
動画のコメント欄には、見たことのない言語もたくさん書き込まれていて、反響の大きさを実感していた。
山口さんは言葉を継ぐ。
「私、この三年間なにしてたんだろう。幸丸があんなに賢い猫だって知ってたら、もっと早く会いに行ったのに」
このあいだ約束したとおり、幸丸を見るという目的で、山口さんは明日初めて私の家にくることになっていた。
最初は美咲と山口さんの二人だけが遊びにくる予定だったけれど、幸丸の動画を観て興味を持った他の友達もくることになった。
幸丸からすると、五人のうち三人は初めて見る顔になる。どういう反応をするか楽しみだった。
山口さんの思いに、私は言葉を返す。
「幸丸の頭がいいなって思うエピソードは他にもたくさんあるけど、親バカだと思われるだろうから話すのを自重してたの。幸丸をよく知ってる美咲にも、そういうエピソードはあんまり話してないし」
山口さんはうんうんと頷いて、
「私、今まで犬と猫なら犬の方が知能は高いんだろうなと思ってたんだけど、幸丸のあの動画を観て考えを改めたわ」
「よく、犬は人間の言葉を理解しているって言うわよね。だからお手やお座りなんかもきちんとするって。でも、その程度のことは猫も理解してるのよ。ただ、言うことを聞く気がないだけだと思う。お手やお座りをして何か得があるの、みたいな」
「あ、その例えはわかり易い。お手をしてご飯が出てくるわけじゃないよね? 出てくるのならしてあげてもいいけどって」
「そうそう。そんな感じ」
講義の開始まで十分を切った。私は教科書とノート、筆記用具を取り出して、バッグを机の下に置いた。
顔を上げた時、山口さんが真顔で私をじっと見ていた。
「ねえ水原さん。最近何か変わったことはなかった?」
「変わったこと?」
「ええ。ほら、このあいだ、みんながいる時に話したでしょ。うちの大学からS社を目指している人たちが次々と災難に見舞われた話。実は私も昨日、怪我をしたのよ」
「ええっ、ほんとに?」
「見てのとおり、大怪我をしたわけではないんだけどね。あるお店の柵に寄りかかったら、支えてる棒が外れて派手に転んだの。で、その帰りに、三回も自転車にぶつかられたわ。大怪我しなくて良かったけど、かなり痛かった」
そう言って山口さんは左腕の袖を捲って見せた。二の腕には包帯、それより前の部分には二枚の絆創膏が貼られていた。
「そんなことがあったんだ……」
「跡に残る傷じゃないから気にはしてないんだけど、怪我をした時に思ったのよ。お店の柵が壊れたり、普通に歩いてるだけなのに三回も自転車にぶつかられたりするのって、災難といえば災難だなって。それで、水原さんはどうなのかなって思ったの。大きな怪我はしてなくても、危なかったなって思うような体験はしてないかなって」
「私は……」
私は最近身の周りで起こった出来事を振り返る。
すぐに二つ浮かんでくる。
一つは、自転車のブレーキが二本同時に壊れたこと。
もう一つは、いつも通る道にマンションの上階から植木鉢が落ちていたこと。
私はその二つの出来事を話すことにした。
「今振り返れば、危なかったなって思う体験は二つしてるかな」
私がそう切り出すと、山口さんは少し目を見開いた。
「えっ、それってどんな?」
「一つは、斎藤さんが事故に遭う前日の話なんだけど、幸丸を動物病院に連れて行った帰りに、自転車のブレーキが二つ同時に壊れたの。幸い、壊れた場所は平坦な道の上だったから大事には至らなかったんだけど、私本当は長い坂道を下りようとしてたの。でもね、坂道を下りる直前に、幸丸が異様な鳴き方をしたのよ。たぶん長い下り坂を怖がったんだろうけど、それで私は方向転換をして事無きを得たの。あのまま坂道を下りてたら、大怪我してたと思う。最悪、命の危険もあったかも。
もう一つは、昨日の朝のことなんだけど、私が毎日通る道の上に植木鉢が落ちてたの。マンションの上階から落下したみたいなんだけど、昨日私はいつもより四十分遅く家を出たのよ。もしいつもどおりの時間に家を出てたら、あの植木鉢は私に当たってたかもしれない。そう思うとゾッとするわね」
私の話を聞き終えた山口さんは、とても驚いた顔をしていた。
そこまで驚くようなことかなと私が首を傾げるくらい、目と口を大きく開いていた。
そんな表情の山口さんを見るのは初めてだったので、私は少しおかしくなった。
「ふふ。山口さん、そんなに驚いてどうかしたの? そんなに驚くような話かな?」
「ううん。水原さんが危険な目に遭ってたの、知らなかったから」
「知らなくて当然よ。今まで誰にも言ってなかったからね」
「ブレーキのワイヤーが二本同時に切れるって、そんなにあることじゃないと思うけど」
「うん。このあいだ新しい自転車買ったんだけど、お店の人にそのことを話したら、凄く驚いてた。片方だけなら珍しくないけど、二本同時に切れるのは稀だって」
「そうよね……。その落下した植木鉢は誰にも当たらなかったの?」
「うん。幸い怪我した人は誰もいなかったみたい。通行人の男の人と、その植木鉢の持ち主の女の人は口論してたけど」
「その二つ以外は、何も危ない目に遭ってないの?」
「……たぶん、ね。私が気づいてないだけかもしれないけど」
山口さんは私から視線を逸らし、何やら考え込む表情になった。
どうしたのと訊こうかと思ったけれど、口を挟めないような真剣な表情だったので、私は黙っていた。
やがて講義室前方のドアが開き、教授が現れた。同時に山口さんが口を開いた。
「水原さん、大丈夫だとは思うけど、念のために災厄除けに効果のある御守りをあげるわ」
「え、そんな、悪いわよ」
「いいの。ほら、前に就活祈願の御守りをみんなに配ったでしょう。その時に、災厄除けに効果のある御守りもいくつか買っておいたのよ。袋に入ったままの新品が残ってるから、水原さんにあげるわ」
「そう……。それなら、有難く頂戴しようかな。山口さんから貰う御守りって、凄く効果がありそうだし」
「それじゃ、明日持って行くわね。――ああ、幸丸に会うのが楽しみだわ」
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