第十三章(前編) 元凶
キャンプ当日は快晴で、絶好のキャンプ日和だと育美は喜んでいた。
オレは猫用のキャリーバッグに入り、迎えにきた美咲の車の後部座席に乗った。
その車には育美と美咲以外にあと一人乗っていたが、山口ではなかった。あいつは別の車に乗って後ろから付いてきているようだった。
車に揺られながら、オレは一週間前のことを思い返していた。
山口がオレたちの家にきた日の夜、オレは育美が殺される夢を見た。
その夢は、前回と同じく、オレと育美が朝のニュース番組を観ているところから始まる。
画面右上に表示されていた日付は、《5/20(月)》だった。
家を出た育美は、駅の構内に入っていき、プラットホームに出る。
すぐに電車がやってきて、育美は最後尾の車両に乗り込んだ。
車両のドアが閉まる直前、一人の男が乗り込んでくる。電車が走り始めた直後、男が鞄の中から刃物を取り出し、次々と乗客を襲い始めた。
育美は逃げようとしたが、男に背中を刺されて倒れてしまう。うつ伏せに倒れた育美の背中に乗って、男は何度も刃物を振り下ろす。そのあと、男は窓を開けて逃げて行った。
これが、夢の内容。
また夢の中で日付を見るかもしれないと思い、カレンダーの見方は育美に訊いて学習していた。
数字の読み方を完璧に覚えたわけではないが、《13》の次は《14》とか、《29》の次は《30》という日付の進み方は理解した。曜日の見方に関しても、大体把握したつもりだ。
なので、夢の中で見た《5/20(月)》がいつなのか、今回はすぐに理解できた。
ただし、どうすれば育美を助けられるのか、その方法を見つけるまでには時間がかかった。
夢の中で、刃物を持った男は電車内から逃走している。
その直後に捕まったのか、それとも駅を抜け出して行方がわからなくなるのか、これは重大な問題だった。
もし駅の構内で捕まるのであれば、前回と同じように、育美の外出時間を遅らせるだけでいい。
だが、犯人の行方がわからなくなってしまったとしたら、育美を駅に向かわせるのは非常に危険なものとなる。
たとえ外出を三十分遅らせたとしても、犯人は駅周辺に潜んでいるかもしれない。そうなると、育美が犯人と出くわす恐れもある。
以上の理由から、今回は外出する時間を遅らせるだけではダメだと判断した。前回答えを出したとおり、育美を家の中に閉じ込めるのも不可能。
そこでオレが考え付いたのが、育美を自転車で大学に向かわせるというものだった。
これまで何度か、育美は自転車で大学に行っている。
その際、いつもより早めに家を出ていた。電車よりも自転車の方が時間がかかるためだろう。
早く家を出るというのも、駅から遠ざかるという点ではとても良かった。駅周辺から離れれば離れるほど、育美は安全になるのだから。
方針が固まった時、育美は布団の中で寝息を立てていた。
時間は真夜中。
眠らずに考え続けたせいで、オレの頭はかなり疲弊していた。どうやって自転車で大学に行くように仕向けるか、深く思案する時間も残されていなかった。
焦る中で、最初に思い付いたのは、電車に乗るためのカードを隠すというものだった。
カードがなければ、育美は電車には乗れず、結果自転車で大学に行こうとするのではないか。そういう考えだった。
折り畳み財布を下に落とし、留め具を外して中を開く。
ここまではスムーズにいったのだが、駅で使うカードがどれかわからない。カードは十枚以上あり、見分けることはできなかった。
財布ごとどこかに隠せばいいのではないかという考えが浮かんできた時、目覚まし時計が鳴ってしまった。
オレの取ったこの行動、冷静になればわかることだが、たとえカードがなくても現金があれば電車には乗れる。最初から財布を隠すことに頭が回らなかったのは、それだけ脳が疲れていた証でもある。
オレに残された手段は一つ。
育美に直接、自転車で大学に行くように伝える。育美なら、オレの考えを汲み取ってくれると信じた。
複数ある鍵の中で、どれが自転車の鍵か育美に教えてもらったあと、オレはその鍵を咥えたり脚でゴロゴロさせたりしてアピールし続けた。
なぜそんなことをしているのか、育美は必ず理由を訊いてくるはず。その時の質問にうまく答えられれば、オレの考えを伝えられると思った。
以心伝心。
自転車で大学に行って欲しいというオレの思いは伝わった。あとは、自転車で行かせるための動機付けだけ。
育美とのやりとりで、その動機はダイエットに決まった。
オレからすると人間の体型なんてどうでもいいのだが、育美は自分の体重を気にしていたようで、それが功を奏した形になった。
ちなみに、その夜のニュースで、犯人の男は駅の構内で取り押さえられたと知った。結果的には、外出時間を遅らせるだけでも助けられたわけだが、育美が無事ならそれでいい。それが全てだ。
「幸丸、水飲む?」
育美が水の入った容器を差し出した。オレは返事をして水を舐める。
「もうすぐ着くからね」
育美は微笑み、オレの頭を優しく撫でた。
あの日、特別な力を持っているのかと育美に訊ねられた時、オレはどう答えようか迷った。
山口の見えない力に抗おうとするなら、育美と一緒に戦った方がいいのは確かだ。全ての思いを共有するのは無理でも、オレたちの以心伝心の力は強い。オレと育美の身に何が起きているのか伝えようかとも思った。
しかしある考えが浮かんできて、オレは躊躇した。
仮に、オレの思いの大部分が伝わったとしよう。育美の未来が見えることも、山口が悪魔の姿に見えることも、そして育美の身に起こっている災難は山口が関係していると、その全てが育美に伝わったとしよう。
そのあと、育美はどんな行動を取るだろう。オレを信じて、山口を疑うだろうか。少なくとも、山口の身辺調査はするだろう。
そのことに山口が気づいたらどうなる?
オレが危惧したのはそこだった。
オレは、自分の力だけでは家の中から出られない。予知夢だけで育美を守るのも、限界がある。山口の正体も、どうやって育美を襲っているのかも、情報はまだゼロに等しい。
こんな状況で真実を伝えるのは、危険だと思った。
だから育美の問いに対し、オレは首を傾げて誤魔化した。今はこれが最善だと判断してのことだったが、嘘を吐いているようで心が苦しかった。
そんなオレのことを、育美は守護神だと言ってくれた。
素直に嬉しかったし、改めて、必ず育美を守ってみせると誓った。
ただ、今回の出来事を経験して、もうじっくり考える時間はないかもしれないと思い始めていた。
過去の二回と違って、今回は人間が育美を殺そうとしていた。
山口は人間も操れるのだろうか。
逮捕された男は、警察の取り調べに対して、こう供述していた。
『一ヵ月くらい前から、あの駅の前を通る度に、人を殺せという声が頭に響いていた。次第に、そうしないといけないような気になってきた。やらないと、その声に俺が殺される気がした。だからあの日、俺は人を襲った。記憶があるのは電車の中に入るまでで、そのあとのことはよく覚えていない。気づいたら取り押さえられていた』
その供述を聞いた多くの人間は、頭のおかしい奴だとしか思わないだろう。
オレも、山口の存在を知らなければ、同じ意見を持ったと思う。
だが、今のオレの立場だと、男の供述は真実なのではないかと思えた。
悪魔なら、人間だって操れるのではないか。自由自在にとはいかなくとも、思考を奪って殺人鬼にさせることは可能かもしれない。それが真実なら、とても恐ろしいことだ。
だが、完璧ではない。
育美のいない車両に乗ってきたところを見ても、遠隔操作のようなことはできないと判断していいと思う。
完璧ではないのなら、付け入る隙は必ずあるはず。
たとえば、山口が張った罠を利用して、奴を倒せないだろうか。育美を落とすために掘った穴の中に、逆に山口を突き落とす。そんなやり方。
未来が見えるオレなら、それは可能な作戦のようにも思えるのだが……。
山口を倒す方法を思案しているところで、車が停まった。
「おー、着いた。幸丸、キャンプ場に着いたよー」
育美がオレの入っているキャリーバッグを抱えて車を降りた。
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