第十三章(中編) 元凶
少し進むと、眼下に巨大な水溜りが広がっていた。
視力の低いオレには鮮明に見えないが、それは湖というやつだった。
周りは木々に囲まれている。
その場の匂いや風を感じていると、懐かしい感覚に包まれた。
「あの湖にはたくさん魚がいて、釣ってもいいことになってるみたいよ。釣った魚をバーベキューの時に焼いて食べるのがここでは流行ってるみたい」
美咲が魚を釣るポーズをしながら言った。
「ワイルドだねえ」
と、育美が返す。
「せっかくだから、釣りしてみない? 釣り竿代とボート代考えたら、ここで食材買うより安く済むよ」
「釣れれば、の話でしょ」
「人数分くらいは釣れるでしょ。まあ、万が一不作だったら、それは仕方ないってことで。とりあえず、先に釣りをしようよ」
「いいよ。じゃんじゃん釣りましょう。――幸丸、釣った魚が食べられるかどうか調べて、安全だってわかったらあげるからね」
「ニャア」
「幸丸、育美には期待しない方がいいわよ。この子、運動全般苦手だから、一匹も釣れないと思う。その代わり私が釣ってきてあげるから、楽しみにしてなさい」
「釣りに運動神経関係ないでしょ。私の方が多く釣れるわよ」
「へえ、じゃあ勝負しようよ。どっちが多く釣れるか」
「いいわよ」
「二人とも、勝負するのはいいけど、そんなに魚釣って捌けるの? 私できないわよ」
「私もできない。育美は?」
「私もあんまり自信ない」
「女三人もいて一人も魚捌けないとか、悲しいわね」
「あんたが言うな」
「あ、山口さんなら捌けるんじゃない。料理得意だし」
「ああ、そうね。山口さんならできそう」
育美たちがそんな会話をしている最中、一台の車がやってきて美咲の車の隣に停まった。
中から三人が降りてくる。
いや、二人と一体という言い方の方が適切だろうか。
「おー、きたきた。こっちこっち」
美咲が二人と一体を手招きする。
晴天の下、人型の闇が揺れながら近づいてくる。
太陽の下で見る山口は、部屋の中で見るよりもどす黒く見えた。この世界に存在するどの黒色よりも、深い闇の色。
今日も、山口のツノは膨張と縮小を繰り返していた。
先日は自重して触らなかったが、このツノが弱点ということも有り得るのだろうか。
心臓の役割を果たしているから、脈打っているように見えるとか?
もしこいつに攻撃する時がきたら、真っ先に狙った方がいい箇所なのかもしれない。
合流した五人と一体は、駐車場を出てコテージのある方へと歩き始めた。
森の中を進んでいると、ほんの短い時間ではあったが、癒されるような感覚に包まれた。自由な気分になるというか、開放感があった。
だが、そんな穏やかな時間も束の間にすぎない。視界にちらつく黒い塊のせいで、全て台無しだった。
森を抜けると、育美たちがコテージと呼んでいる、家が何棟も建っている場所へ出た。コテージの外にはたくさんの人間がいた。育美と同い年くらいの男女、中年の集団、子供連れの家族と様々。
その中には、犬を連れた人間も数組いた。
何匹かの犬は、こちらに向かって吠えたり威嚇したりするような声を出していた。
育美はそんな犬たちを眺めて、「幸丸を見て興奮しているみたいね」と言ったが、たぶん違う。
きっと犬たちにも、黒い塊が見えているのだ。
犬たちと話してみたかったが、育美たちは更に奥へと進んでいく。
一番奥まったところに建っていた二階建ての建物が、育美たちの寝泊まりするコテージだった。中に入ると、育美はオレをキャリーバッグから出した。
山口は、このキャンプ場で育美に何かを仕掛けてくるかもしれない。コテージの中も、どこに何があるのか見ておく必要があるだろう。
育美たちは、これからのことを話し合っていた。
食材はキャンプ場の中で買えるらしく、先に釣りをして釣れた魚の数を見てから、購入する肉や野菜の量を決めようという話をしている。
その話し合いの中で山口は、夕食でみんなに出すハンバーグの下ごしらえをするので、釣りには行かないと答えていた。
オレは見回りをするために、話し合いをしている育美たちのあいだを抜けて先へ進んだ。
一階にあるのはリビングと台所とトイレ、脱衣所に浴室と、普通の家といった感じ。出入りできるドアは一つで、窓は複数あった。
どの窓の鍵も、時間を掛ければ猫の手でも開けられるタイプのものだった。窓も横に引けば開くタイプ。
ただし玄関のドアに関しては、鍵は開錠できてもドアを開けられるかは難しいところだった。外に出る必要がある時は、窓の方からということになるだろう。
オレは二階に上がるために、階段のある方へ進む。
一段ずつ上がっていると、そういえば自分の脚で階段を上るのは初体験かもしれないなと思った。
二階にはトイレと部屋が二つあり、合計で八台のベッドが置いてあった。二階の窓も、一階と同じタイプのもの。一階と二階の間取りを記憶したオレは、一階へと下りた。すぐに育美が近づいてくる。
「幸丸、探検してたの?」
「ニャア」
「私は今から美咲たちと魚釣りに行ってくるわね。幸丸は外に連れて行けないから、ここでお留守番してて。でもひとりじゃないからね。山口さんが残って料理の準備をするから、寂しくないでしょ」
オレの耳がピンと張った状態になる。
ここで山口とふたりきり?
初めて山口を見た状況だったなら、脱走を試みたかもしれない。
だが今は好都合だと思った。周りに人間がいない時の山口を見てみたかった。
育美を陥れるために、何かするのではないか。
いったいどうやって育美を襲っているのか、推測しかできない日々が続いているが、そのやり方が見られるのではないか。そんな予感がオレを包んでいた。
「山口さん、幸丸のことよろしくね。幸丸は山口さんのことを気に入ってるみたいだから、お利口さんにしてると思うわ」
「え、ほんとに? 私、犬にも猫にもあまり懐かれないから、本当なら嬉しいわ」
「それじゃ、幸丸行ってくるね。すぐ戻ってくるから、お魚楽しみに待ってて」
育美はオレの頭を撫でると、他の四人と一緒にコテージを出て行く。バタンと、ドアが閉まった。
オレは、ゆっくりと、振り返った。
巨大な黒い塊が立っている。どっくんどっくんと、鼓動のようにツノが動いている。
顔がないので、どこを向いているのかもわからない。
ただ、一週間前に見た時と違って、僅かに見られている感覚は伝わってきた。
山口は、足元に置いていたバッグを持った。そのまま階段の方に歩いて行く。
二、三秒考えて、オレは山口のあとを付いて行くことにした。
もう少しで階段を上り切るというところで、山口は立ち止った。
それを見て、オレも脚を止めた。
右の前脚が宙に浮いたままの格好で、オレは山口を警戒する。
不意にツノの角度が変わった。その動きを、オレは振り返っていると判断した。こいつは今、オレを見ている。何か言ってくるかなと思ったが、山口は無言のまま歩き出した。オレも付かず離れずの距離であとに続く。
山口はベッドのある部屋に入り、バッグを置いた。
そう認識した次の瞬間だった。
突然山口は素早い動きで部屋の入口にいたオレに向かってきた。
もしオレが人間だったら悲鳴を上げていただろう。
予期していない動きで焦ったが、間一髪、触れられる前にオレは後方へジャンプした。
山口はピタリと前進を止めた。
何だ? オレを攻撃するつもりか?
自分で抑えられないほど、心臓の鼓動が高鳴っている。
再び、山口が歩き始めた。
オレはいつでも逃げられる態勢を取って、黒い塊の動きを注視する。
しかし山口は襲ってくることはなく、オレの前を横切って一階へと下りていった。
オレは苛立ちを表すように、前脚で床を二度叩いた。
攻撃は受けなかったが、それはオレが上手く躱したからだ。あの動きは、単に撫でようとして近づいてきたものではない。猫のオレにはわかる。
やはりあいつは危険な存在だ。
早く本性を見せろと心の中で呟きながら、オレも一階に下りた。
黒い塊は台所に立っていた。オレの位置からは見えないが、何かを切っているようだ。闇に包まれた包丁が、上下に動いている。
その様子をオレはじっと見つめ続ける。
育美に手を出すなと念じながら、黒い塊を凝視する。
どこからか、変な音が聞こえてきた。オレはその音に集中する。聞いたことがあるようなないような、そんな音が断続的に耳に届いている。
それは「チッ」という音だった。包丁が俎板を叩く音に混じって、チッという音が聞こえてきている。
トントントン、チッ、トントン、チッ、トントン、チッ、トン、チッ――。
その音の出所が、黒い塊の中からだと気づいた時、音の正体も判明した。
このチッというのは、舌打ちの音だ。山口は舌打ちしながら包丁を動かしているのだ。
まるでオレが舌打ちの音に気づくのを待っていたかのように、山口の言葉が聞こえてきた。
「おい、クソ猫」
今まで聞いていた声と違って、低い声音だった。
クソ猫と言われた瞬間、オレは身震いした。
恐怖を感じたからではない。嬉しかったからだ。
山口の本性がついに判明したその嬉しさで、オレは震えていた。
ほら、やっぱり、オレの推測は正しかった。
こいつが全ての元凶だったのだ。
オレは鳴かず動かず、闇の奥に視線を向け続けた。
「チッ。さっきからじっと見やがって。飼い主に似て汚らしい顔してるな、おい。何だお前、震えてるのか。はっ、ビビッてやがる。ダサい猫だな。お前、人間の言葉がわかるらしいな。だったら、私が今から言うことを飼い主に伝えてこい。何でお前はまだ生きてるんだよってな。お前はとっくに死んでないとおかしいんだよ。斎藤もまだ死んでないけど、水原に至っては怪我一つしてない。何であいつには私の呪いが効かないんだよ、クソが」
呪いという言葉が、オレの頭に強く響いた。
呪い。聞いたことのある言葉だ。今の話し方からして、それが育美を襲っているものと思っていいだろう。オレが呪いの意味を思い出そうとしている最中も、山口は捲し立てる。
「呪いをかけた御守りを二個も渡したのに、無傷だなんてあり得ない。今までこんなことはなかった。このあいだなんて、あいつが毎日乗る電車に殺人鬼が乗り込んできたのに、肝心のあいつは電車に乗ってなかった。ふざけるなよ。何で今ものうのうと生きてるんだよ。おかしいだろクソが。もう時間がないんだよ。必ず呪い殺してやるからな」
呪い殺すと聞いて、オレは呪いという言葉の意味を思い出した。
道具を使って、あるいは霊的なものの力を借りて、誰かを不幸にしたり災いを起こしたりすること。そんな呪いを題材にした映画を観た記憶が微かにある。
呪いの意味は理解できたが、オレは戸惑った。
オレが知りたいと思っていたこいつの力は、人を呪うことなのか?
これまでに育美を襲った出来事は、こいつが呪った結果だというのか?
自転車のブレーキが二つ同時に壊れたのも、育美がいつも通る時間帯の道に植木鉢が落ちたのも、そして殺人鬼が電車に乗り込んできたのも、こいつが呪ったから起こった?
俄かには受け入れ難い事実だった。
たとえば、科学ではその存在を証明できないような《何か》なら、人間に対して災厄をもたらすこともできるだろう。だからオレは、祟りに関しては、あり得ると思っている。人間の科学力が通用しない相手なら、その力は推して知るべしである。
だが、ただの人間が、そんな神秘的な術を使えるとは到底思えない。嫌いな相手に災厄をもたらすなんてことが可能なら、世の中はもっとめちゃくちゃになっているはずだ。
それとも、山口は本物の悪魔なのだろうか……。
山口が喋らなくなった。料理に没頭しているようだ。
もっと呪いに関する話を聞きたい。結局お前は人間なのかということを知りたい。
そんな思いを込めて、オレは鳴いてみた。
「ニャアァァ」
「うるせえクソ猫! 黙ってろ!」
そうやって毒を吐いているあいだも、山口は肉を揉んだり包丁で切ったりを繰り返している。
「S社で働くのは、私なんだよ。私こそ、S社に相応しい人間なんだ。そう言えるだけの努力をしてきた。私より努力した人間なんていない。
私の邪魔になりそうな奴らの多くは、早い段階で
それなのに、水原と斎藤は最終面接まで残りやがった。クソが。このあいだやっと斎藤に呪いの効果が表れたけど、全治一ヵ月じゃ意味ねえんだよ。何で死なねえんだよクソが。まあ斎藤は入院中で弱ってるから、もう一度呪いをかけたらすぐに効果が表れるだろうね。
問題は水原だよ。お前の飼い主だよクソが。何であいつは私の呪いを何度も回避できるんだよ。ふざけやがって。絶対にあいつには最終面接を受けさせない。あいつは必ずここで殺してやる。私のとびっきりの呪いをかけてやるよ。ひひひひひ」
憎悪の籠もった声で、山口は一気に捲し立てた。
それが、育美を、いや、育美たちを呪っている理由?
自分がS社に入社したいから、競争相手を呪い殺す?
何を言ってるんだこいつは?
就職試験に関することは、オレにはよくはわからない。
ただ、競争相手の能力に関係なく、その人間自身が会社に必要だと思われなければ、採用されないのではないか?
他の人間の点数は関係ないはず。
要は、自分がどう評価されるか、というのが大事なのだから。
いずれにしても、呪われるような非は、育美たちには全くない。
しかしこいつは育美たちを邪魔者だと思い込み、命を奪おうとしている。
やっている行為は悪魔そのものだ。
そのものなのだが……。
たった今、ずっと疑問に思っていたことの一つに答えが出た。
結論。
山口はただの人間である。オレの目には悪魔のように見えているが、こいつを触った感触、匂い、そして今の発言。それらを総合すると、山口は正真正銘の人間という答えが出る。
答えが出た一方、オレはますます戸惑ってしまう。
なぜ、ただの人間が呪いをかけられるんだ。オレが知らないだけで、確実に相手を呪える方法があるのだろうか。
仮にそんな方法があったとして、誰もが手に入れられるはずはない。先ほど考えたとおり、それだと世の中はめちゃくちゃになるから。
ただの人間でも、呪いを簡単にかけられる。
山口は奇跡的にその方法を見つけたということなのだろうか……。
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