エピローグ
目覚まし時計の音で目が覚める。ほとんど無意識に手が伸びて、ベルを止める。
でも、すぐには起きない。
二度寝って、何でこんなに気持ちがいいんだろう……。
そんな夢見心地の私の頬に、猫パンチが飛んでくる。
一発、二発、三発……。
「だあぁぁぁ! 起きるから止めてぇ!」
私は勢いよく上体を起こした。
布団の上では、やれやれといった顔で幸丸が私を見上げている。
「おはよう、幸丸」
「ニャアァ」
七月の上旬。窓の外では早くも蝉が鳴いている。私は冷房を付けて幸丸と一緒に台所に向かった。
銀の食器に朝ご飯を入れると、幸丸は美味しそうに食べ始めた。
私の視線は、幸丸の右脚に向けられる。
一時期は大きく腫れていた脚も、すっかり完治した。後遺症もなく、以前と変わりなく生活している。
あの日、マムシに咬まれた幸丸を抱いて動物病院に駆け込んだ時、私はかなり焦っていた。一秒の遅れが、命の危険に繋がるかもしれないという思いがあったから。
獣医師に、マムシと見られる蛇に咬まれたことを告げると、適切な処置をすれば死ぬことはないと言われ、そこでやっと冷静になれたのだった。
ただ、適切な治療をしてもらってもすぐに完治とはいかず、マムシに咬まれた幸丸の右脚は、十日間も腫れ上がったままだった。
食欲もないようで、いつもの半分程度しか食べてくれない日々が続いた。
私はずっと幸丸に謝り続けていた。私がもっとしっかりしていれば、幸丸をこんな目に遭わさずに済んだのに。
あれから一ヵ月以上経った今も、その思いが薄れることはない。
ごめんね幸丸。
そしてありがとう。
朝食を食べ終えた私は、洗面所で化粧と髪をセットする。今日は肌も髪も調子が良くて、僅か十分で完了した。毎日こうだといいのに。
部屋に戻ると、今朝も熱心に幸丸が朝のニュース番組を観ていた。
政治、経済、スポーツ、芸能、一般人が投稿した面白動画コーナー。
それらを幸丸は興味深そうに眺めている。
私も腰を下ろし、幸丸と一緒にテレビを観る。
三十分ほど経った頃、美咲から通知が届いた。
《山口さんのお別れ会、今度の日曜日にしようと思うんだけどいいかな?》
その名前を見た時、私は久しぶりに彼女の顔を思い出した。
あの日、マムシに咬まれた山口は死んだ。正確には、翌日の昼に、運び込まれた病院で死亡が確認された。
遺体解剖した結果、マムシの毒によって死亡したことが判明。
後日、警察がキャンプ場一帯を捜索したらしいけれど、マムシは発見できなかったようだ。
キャンプ場のスタッフ曰く、これまで一度もキャンプ場付近でマムシを見た記憶はないらしい。たまたま誰も見たことがなかったのか、それとも山口がどこからか連れてきて森の中に放ったのか……。
あとで調べたり聞いたりしてわかったことだけれど、マムシの毒は猛毒というほどのものではなく、国内において、マムシに咬まれて死亡する人の割合は毎年一パーセント以下のようだった。その数字からすると、山口の死は運が悪かったと言えるかもしれない。
マムシについて、もう一つ。
本来マムシは大人しい性格らしく、ただ人間が近づいたくらいでは、いきなり攻撃してくることはほとんどないようだった。
そんな情報が嘘だと思えるくらい、私を襲ったあのマムシは凶暴だった。
向こうから、私に近づいてきた。何もしていないのに、牙を剥き出しにして襲い掛かってきた。
それは、山口が私にかけていた呪いの効果によるものだろうか。
それとも、たまたまあのマムシが攻撃的だっただけだろうか。
山口が死んだ今、真実は誰にもわからない。
世間では、山口は悲劇の女子大生として扱われていた。
S社の最終面接を控えていた女子大生の非業の死。
世間的には、そういう見方をされている。
悲劇的な死は週刊誌でも取り上げられ、彼女の生い立ち等も詳しく書かれていた。
私も読んだけれど、特に変わったことは書かれていなかった。誰かとトラブルになっていたとか、部屋の中から邪術に関する本が大量に見つかったとか、そんな噂話も一切聞かなかった。
どこにでもいる、普通の二十代前半の女性。それが、他の人たちから見た彼女の人物像だ。
それでいいと思う。彼女が本当はどういう人間だったか、素顔を知るのは私だけでいい。
山口が死んだという連絡を受けたあと、私は彼女から貰った就活祈願の御守りを確認した。
中には、やはり呪いの言葉が書かれた紙片が入っていた。まず間違いなく、他の人たちが受け取った御守りの中にも同じ物が入っているはずだ。
山口は死んだ。
だからもう呪いは消え去ったのではないか。
一度はそう判断して、他の人たちの御守りはそのままにしておこうかと思ったのだけれども、あんな不吉な物をずっと持たせたままにするのは罰が悪かった。
だから私は、彼女が配った呪いの御守りを全て回収するつもりだった。卒業までにはまだ時間がある。何とかなるだろう。
呪いの力を信じるのであれば、最も大きな被害を受けたのは、全治一ヵ月の重傷を負った斎藤さんだったのかもしれない。
ただ、その斎藤さんも無事に退院していた。腕に傷跡は残るみたいだったけれど、幸い後遺症もなく、これからの人生に影響はないようだった。
その斎藤さんと私は、S社の最終面接に合格し、内定を貰っていた。
余談。
私は直接見ていないのだけれども、近所の一斉清掃の時、私の住むアパートの近辺から大量の紙片が見つかったと聞いていた。
自販機の下や取り出し口の中、電柱の裏や植え込みの中に、見たことのない文字が書かれた紙片がたくさんあったらしい。
それとなく、斎藤さんにも訊いてみたのだけれども、彼女の近所でも、変な文字の書かれた紙片が大量に見つかっていたようだった。
私を襲った数々の災難は呪いによるものだったのか、山口はいつから呪いに傾倒していたのか、二浪して大学に入ったのは呪いと関係があるのか……。
別の人が私の立場だったら、これから調査を開始するのかもしれない。
だけど私はもうそちらに足を踏み入れたくなかった。
私の身の周りで起きた現象は、本当は何だったのか、知らなくていい。
知る必要もない。
全て終わったのだ。あの日に。
私はお別れ会に参加する旨を書いて美咲に返信した。
隣に座る幸丸の身体を、優しく撫でる。すると幸丸は振り向き、私の手をペロペロっと舐めた。
あのキャンプ場での出来事を最後に、幸丸が私に危険を知らせるような行動を取ることはなくなっていた。
根拠と言えるほどのものはなく、推測に過ぎないけれど、幸丸が私の危険を察知することはもうないのではないかと思っていた。
その特別な能力は、元々幸丸に具わっていたものではなく、山口の呪いが発端となって生まれたものではないかと推測していた。
恐らく、始まりは自転車のブレーキが壊れた時。その数日前から、幸丸の様子はいつもと違っていた。私の推測が正しいなら、山口が死んだ今、幸丸の中に生まれた特別な能力も消えたはず。私はそう考えていた。
それは、幸丸にとっても良いことだと思った。
私の危険を察知する度に、幸丸は精神的にきつかったはず。
私を助けることに成功しても、また私が危険な目に遭うかもしれないと考えて日々を過ごしていたかもしれない。その可能性を思うと、心が痛んだ。
だけど、悪夢はもう終わったはずだ。これからは平穏な生活が続くはず。そう信じていた。
八時になった。私はテレビを消して玄関へと向かう。靴を履いたあと、見送りにきた幸丸の前にしゃがんだ。
「今日はバイトの給料日だから、幸丸の大好物の高級猫缶を買って帰ってくるからね。楽しみに待ってて」
私の言葉に、幸丸は目を見開いて舌を出した。
ふふふと笑って、私は幸丸の頭を撫でる。
「それじゃ、行ってくるね。お留守番、よろしく」
「ニャアァァ」
幸丸の高らかな鳴き声を背中に受けて、私は玄関を出た。
外階段を下り、アパートの敷地から通りに出る。
二階の自宅窓に視線を向けると、いつもどおり幸丸がこちらを見ていた。私は幸丸に向かって手を振り、駅に向かって歩き出そうとした。
その時だった。
突然、幸丸が二本の前脚を窓に引っ付けて、上下に激しく動かし出した。その動きと表情は、「行くな!」と言っているように見えた。
私の胸に、ざわめきが起こる。
まだ、終わっていなかった?
幸丸は、また私の危険を察知した?
私が数歩、窓に近づくと、幸丸はふっと姿を消した。
数秒後、再び幸丸が姿を見せた時、その口には銀の食器が咥えられていた。
「あっ!」
幸丸のお昼ご飯、食器に入れるのを忘れていた。
窓の向こうから、戻ってこいという幸丸の鳴き声が聞こえてくるようだった。
「ごめんごめん」
私は笑って手を挙げると、早足で自宅へ引き返した。
―了―
黒猫は予知夢を見る 世捨て人 @kumamoto777
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます