十三、悋気

 その夜も、左慈はいつものとおり浜辺を訪れた。月影は夜雲に暗く暈され、肌に触れる空気はじっとりしている。夜闇で判然としないが、手元の燈さえぼやけているから、海霧が出ているのだろうと分かった。少し冷えるからと木綿を重ねて良かったと、左慈は隙間から入る風を防ごうと合わせを直して胸の前で腕を組む。

 ウシオの姿が見当たらなかった。汀の手前まで降りてあたりを見回してみたり、目を凝らして影海岩の様子を確認しようとしたりするが、悪天のせいでいつも以上に有象無象の境がはきとしない。ざらついた波の音が左慈の焦燥を掻き立てる中、強く手繰り寄せるような引き潮が膝にまとわりついて、左慈はふらりとよろけた。いつのまにか、波打ち際まで入ってしまっていたのだ。


「————私の知らない」

「うわっ!」

 背後の声に左慈は飛び上がる。足音はおろか、気配すらなくウシオが立っていた。

「い、いたのか」

 驚きつつも、彼女が姿を現したことに安堵する左慈であった。対して、小灯の明かりに照らされたウシオの瞳は、曇天の海のように陰って冴えない。

「何か、あったのか」

 首を低く傾け、波打つ髪に囲まれた白い顔を覗き込むと、それを待っていたかのようにウシオが左慈を真っ直ぐに見据えた。

「昼の浜辺。見かけない娘がいたね」


 波の音が、やけに間近に聞こえる。

「ああ……実千のことか」

「若い娘は海に出ないわ。どうして実千は、ここにいたの」

 ウシオは問う。後ろめたいことなんてないはずなのに、左慈は彼女を覗き込むような姿勢のまま目を泳がせた。

「隣の……波間の娘で、知り合いの妻に会いに来ているんだよ」

「でも、左慈に会いに来ていたよ。あそこに、あなたを誘っていたね」

 ウシオは顔を上げてあさっての方を向いた。左慈もまた同じように彼女の視線を追う。霧のせいで周囲の地形の輪郭さえ判然としない。だが、暮れ前に左慈が実千に呼び出されたことを言っているのなら、ウシオの見る先にはおそらく影海神社の鳥居があるのだろう。

 ウシオは左慈の手を取った。そして昼間に左慈があの三毛猫のような娘にしたように、左慈の中指の付根あたりを何度か押した。

「私は深更のあなたしか知らない。けれど実千は……他のあなたも知っているのね」

 ウシオの冷たい指の腹が指の間をするりと撫でた。途端、左慈は首の後ろがぞわりと粟立った。血の巡りが逸るのを感じる。やがて細長い指が、左慈の掌の皺をなぞりながら手首へと下りてゆく。


「ウシオ!」

 これ以上は、と、咄嗟に指の動きを封じようと彼女の手を握り込む。ぎょっとして目を見開いた彼女は、少しだけ息を荒くする左慈を見上げた。

「……つまりあんたは、妬い……いや、その」

 左慈は口走りかけて、急に自分の見立てが思い上がったもののように思えてきた。途端に、言葉が喉で突っかかりうまく出てこなくなる。

「俺が……あの娘といるのは、嫌か」

 絞ったように訥々と問えば、ウシオはゆるりとかぶりを振った。

「私はあなたたちの生の安寧を保つもの。あなたが良いと思うことが、私の良いこと。だからそれは、私が決めることではないよ」

 そう曰う女の声に、いつもの柔らかさはなくそっけない。表情は不機嫌にさえ見えた。一方の左慈は、不謹慎にも口角が上がりそうになった。握り込んだ手に少しだけ力を込める。

「左慈?」

 力の限り、加減など考えずに抱きしめてしまいたい。いっそ冷たい悋気ごと、もっと近くに。


 思いが指の先まで達する前に、暗闇で潮のぶつかり合う轟音が鼓膜を叩いた。左慈は我に返る。自分の予想がただの自惚れであったらどうするという懸念が湧いて出て、理性が衝動を散らしてしまった。

「実千といることが良いことかは、分からないが。あんたが嫌なことは、俺にとっての良いことじゃあないよ。あんたの気持ちを教えてくれ。……教えて、くれるならでいいんだが」

 左慈の掌の中で、ウシオの指がぎゅっと握りしめられた。彼女の視線が左慈から逸れて、小灯の燈に濡れたような睫毛が震えた。

「分からない。あの娘もまた私に希う者。私が慈しむべき、この海に生かされる者。それでも、けれど……いいえ、分からない。私の心は、私に、心は————」

 ウシオの言葉が尻すぼみになり、彼女の膝ががくりと折れた。左慈は慌てて細い腕を引き上げる。

「どっどうした!?」

「分からない。私の希いは……いや。私が何かを希うことは…………」

「ひ、ひとまず、波打ち際から離れよう」


 左慈はウシオに肩を貸しながら、浜小屋の前に場所を移した。裏返したたらいの上に彼女を座らせて、自分は地べたに胡座をかく。ようやくいつものように座って話ができることにほっとしつつ、左慈は背を丸めて隣で俯く女の顔を覗き込んだ。

「動揺させたな。すまない」

「動揺……私はなぜ、動揺したのかしら」

 ウシオが再び深く思案し始める気配がして、左慈は慌てて話題を変える。

「そ、そうだ。俺に何か、してほしいことはあるか」

「私が、左慈に」

「あ、ああ。いつも付き合ってもらってばかりだから」

 正直、ウシオと出会ってからの左慈は調子が幾分よくなっていた。少しでも眠れるようになったこともそうだが、何よりも、彼女に会うことが心の支えになりつつある。それなのに、左慈はウシオに何も返せていない。


 ウシオは力なく左慈を見遣った。それから夜霧の向こう、影海岩のある方を見つめ、ぼそりと呟いた。

「あなたが、ここにいる理由が知りたい」

「それは、家だと眠れないからと……」

「私に会いにきてくれるのは、どうして」

 尋ねられて初めて、左慈は自覚した。

 寝ずの夜を埋めるために、ここに通っていたはずであった。しかしいつしか、眠れないことよりも彼女に会えないことの方に焦りを覚えるようになっていたのだ。

 ウシオが影海様と祀られる「何か」であれば、ここで起きる出来事の全てを知っていて当然である。無論、先ほど左慈がウシオを探して彷徨っていたことも。そんなことが、すっかり左慈の頭からすっぽ抜けていた。ばつが悪いやら恥ずかしいやらで沈黙していると、

「こっちを向いて」

 そう言われて、彼女の言葉に応じた。暗い霧の中でなお明るい双眸に見つめられると、左慈はどうにも抗えない。


「あなたが私を探すのは、どうして」

 泡沫のように儚い声が、例によって左慈を揺さぶり、白状せざるをえない気持ちにさせる。

 ——左慈さんにはきっと、そばにいて、安らげるひとが必要なんじゃないかしら。

 夕方の実千とのやりとりが左慈の脳裏を掠める。

「あんたは……その」

「私は?」

「……うまく言えない。ただ、今日あんたを探している間、すごく焦った。だから、あんたが現れてくれて俺はほっとしたよ」

 霧の奥、潮の音がやけに騒々しい。左慈は意を決したように息を吐き、潮騒に希いを忍ばせた。

「これからも居てくれると、いいんだが」

「うん」

 それでも、ぽつりと落とされた掻き消されそうな願いを、ウシオは掬い取った。

「あなたが探さないよう、ちゃんと居るよ」

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