四、心労

「岩影を見間違えたんじゃないか? それか、鳥でも留まっていたとか」

 翌日、漁から帰る間際に、左慈は浜小屋の立ち並ぶ一帯から少し離れた松林へと一路を呼びつけ、昨晩の出来事を打ち明けた。

 すると一路は、水平線を歪に切り取る影海岩の穴を眺めながら、左慈の話をそうあしらったのであった。こちらの話を軽く捉えている幼なじみに不満で、左慈は柄にもなく食い下がった。

「今更、あの岩の形を見間違えるはずない。あれはあの穴の淵に座った人影だった」

「おっかねえなあ。影海様の祟りだったらどうすんだよ」

「どうするって……祟られる覚えなんてないのに。そもそも、影海様の祟りなんて聞いたことないぞ。お前、何か知ってんのか」


 一路は左慈の弁を否定はしないが、やはり本気にはしていないみたいで、「冗談だよ」と左慈の肩に手を添えた。

「几帳面に考えすぎるなって……そんなことより、夜中の徘徊をやめたらどうだ。そしたら変なもの見なくて済むし、お前は寝れるし、話が早いだろう」

「散歩と言ってくれよ」

 痛いところを突かれた左慈は、口籠もりながら腕を組んで一路から顔を背けた。視界の外で、彼が呆れているのを感じる。


「でもよう、その人影だって、とうとう寝不足で幻が見え始めたんじゃあないか?」

 からかうような調子で言われ、左慈は無意識に唇をひき結んで一路に向き直った。しかし一路はその口調に比して、眉尻を下げて労わるような表情をしていた。ばつが悪くなり、左慈は視線を下げた。

「なあ、左慈」

 一路の声は、こちらが気負いすぎないようにという軽さと優しさを孕んでいる。その厚意が左慈の肩を重くした。応える自信がないのだ。

「お前本当に、最近化けて出たのかってくらい、顔色が悪いぞ。昨日の話じゃあないが、そろそろ本当に落っこちて死ぬんじゃないかと、俺は冷や冷やしてるんだ」

「————いいんだよ。俺はお前みたいに、妻子がいるわけでもないし。落っこちて路頭に迷う家族もいないから、いいんだ」

「おいおい、やさぐれるなよ」

 たしなめられても、今の左慈には笑みを返してみせるくらいしかできなかった。



〜●〜

 日が暮れる前に、漁夫たちは帰路について明日の漁に備え身体を休める。しかし天の気まぐれに振り回されながら日々肉体を酷使する彼らの疲労は、寝て起きるだけで癒えるはずもない。

 小さな海辺の集落でできる憂さ晴らしといえば、女か酒ぐらい。そして潮見の男たちは総じて酒好きだ。たびたび集落の外れにある香取社の社務所に酒を持ち寄り、夜通し飲むことも珍しくない。ただ、左慈はこれに当てはまらないが。


 一路と別れて家路についた左慈は、家の手前で水桶を両手に下げた花乃と出会した。おかえりなさい、ただいまと簡単に声を掛け合って、女の細腕から黙って水桶を取る。花乃もまた、何も言わずに左慈に任せた。

「まづさんは、沖江と波間に干鰯ほしかを売りに出かけたのよ。戻るまでもう少しかかるんじゃないかしら」

 瓶に水を移し替えていると、花乃が沈黙を埋めるように言った。干鰯は肥料になるので、町に行けば下野しもつけの方から麻を売りに来た商人が買い求めてくれるし、沖江や波間など農耕を生業とする百姓からの需要も高い。

「慈郎は中でふて寝してるわ。左介さんと社務所に行きたがったけど、連れて行ってくれなかったみたい。ほら、あの子左介さんやあなたと違って、上背もなけりゃ細っこいじゃない。荒っぽい場所に連れて行きたくないのね」

 聞いてもいないことをつらつら話す女は、他に何か言いたいことがあるように、草鞋を脱ぐ左慈の傍に突っ立ってそわそわしていた。それに気づかぬふりをして、左慈が板間に上がった途端、

「あんたは行かないの、左慈」

 花乃のそういう口調は、もう何年も前から聞いていなかった。左慈はぎくりとして女を振り返った。花乃はいつもどおり、凪いだ微笑を泛べている。左介の妻としての顔だ。少し細めた双眸の奥に、昔見た寂しげで、しかしどこか狡猾そうな娘の影がちらついた。


「気になる娘でもいないの。酒でもなんでも頼って遊んだら良いじゃない」

「花に関係ないだろう」

 花乃の雰囲気に呑まれ、左慈もまた、いつも意識しているように「花姉」とは呼ばなかった。

「関係ならあるわ。昔を思い出して気まずいのよ、分かるでしょ」

「……俺は慈郎と似たり寄ったりのガキだったし、あんたも都合良かっただけだろう。直接言わないだけで、左介もあんたをもらう前から気付いてる。俺につっかからないでくれよ」

 左慈は苛立ちで震える吐息を溢した。奥の部屋に向かおうとすると、花乃が左慈の筒袖をぐいと引いて振り向かせた。女の汗と土の匂い、自分に染み付いた磯の匂いが混ざり合ってなまぐさかった。左慈の顎の下には、短い眉をぎゅっと眉間に寄せたまなざしが迫っている。花乃はその目を、外の様子を気にするように戸口へと向けた。

「はっきり言わないでちょうだい。左介さんにもまづさんにも後ろめたく思ってんだから」

「左介は気にしてなんかないさ。それに、あの時勝手に誘って勝手によそよそしくしていたのは、あんただろう」


 当時を思い出して拍動が早まり気分が悪くなってきた。左慈は袖を掴んだままの花乃の手を振り解く。花乃はさして驚くことも恐れることもなく、胸の前で腕を組んだ。緩い合わせから覗く、白い谷が深くなった。

「でもねえ、左慈。正直、やや子にもなかなか恵まれないし、あたし、どうかしたらまたあんたに弱いとこを見せたくなっちゃいそうで————」

「やめてくれ、またあいつの代わりか」

 思わず、声を大きくして花乃を遮ると、彼女は「冗談よ」と片眉を上げて見せた。

 左慈は小馬鹿にしたようなその表情から視線を外した。

「俺は……あんたのことはどうとも思っちゃない」

「んならなおさら、さっさと所帯持ってくれてもいいじゃない。ねえ、そしたら互いに取り繕って暮らさなくて済むわ」

 左慈はその言葉には何も返さず、奥の畳間に入り音を立てて襖を閉めた。

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