五、邂逅
左介は帰ってこなかった。社務所で酔い潰れて、なじみの者たちと寝てしまったのだろう。左慈は酔った男たちに遭遇して絡まれないよう、一段と人目を気にしながら通りを歩いた。
昨晩、あんなに得体の知れない恐ろしさに背筋を凍らせたというのに、今宵もまた左慈はあの混沌とした黒い海を求めていた。眠れない、というだけではない。むしろ今日に限っては、あまりに疲れが溜まって少し眠れそうな気さえしていた。が、夕方の花乃との会話が頭にこびりついて、意識が落ちるのを妨げるのだ。忘れてしまおうと関係のないことをぐるぐる考えているうちに、昨日の影海岩の不審な様子を思い出し、ふらりと海へ足を運んでしまっていた。少しだけ、影海岩の様子を見てみて、それからすぐに帰ろう。夕方から引きずっている悶々とした気持ちも少しは鎮まるだろうし、寝る時間も取れる。明日は人並みの働きができるようになる。左慈は誰にともなく、心の中でそう言い訳した。
月はなく、星が家々の影と遠くの丘陵の稜線を浮かび上がらせる。松の木立を過ぎると、波すら見えない海原が、ひそひそとさざめくのが聞こえてくる。
海はいつもにまして闇深い。影海岩の輪郭はさらに漆黒に紛れて曖昧で、左慈が見たあの奇妙な人影がそこに在るかどうかも判らなかった。あの孤独な影は、やはり見間違いだったのだろうか。左慈は落胆と安堵の入り混じったため息をついて、目を伏せた。
今日はもう引き返そうか。だがまた眠れなかったらどうするのか。家族の穏やかな寝息を耳に、自分だけが取り残されたような感覚を思い出し、左慈は胸の奥がぎゅっと苦しくなった。船の上にいるかのように、足元がふにゃりと歪む。左慈は咄嗟に、迫る地面に手を伸ばしながら目を瞑った。
「————」
目を開けると、伸ばした手は虚空に触れ、左慈は仰向けになって星を見ていた。体に重くのしかかる気怠さに顔をしかめる。
いつの間にか眠ってしまっていたのか、どこから夢であったのか。新月、月が出ていないこともあり、自分がどれくらいそうしていたのかはっきりとしない。夜の闇がいまだ濃いことから、さほど時間は経っていないようにも思われた。左慈は大きく呼吸をして、鈍く痛む眉間を抑え目を閉じた。眠気のあまり気を失ってしまっていたのだろう。そう思うことにして、家に戻ろうと身を起こした左慈であったが、
「うおっ……」
驚きのあまり、小さく驚嘆が喉から洩れた。
三間ほど離れた先、汀の方から何かがこちらに近寄ってくる。左慈は昨日見たあの人影だと直感した。頼りない星明かりに、おぼろげに浮かび上がる輪郭は、人どころかこの世のものとすら思えないほど儚げだ。左慈はその場に座り込んだまま、影がこちらに近づく様に釘付けになる。黒い影は、やがて左慈の目の前にまで迫った。
それは、海藻みたいにごわごわした長い髪を持っていた。
それは、岩肌のようにしわくちゃでざらついた布を体に巻いていた。
それは、細い脚を折り曲げて、左慈の目の前に蹲み込んだ。
「………お、お前は、誰だ」
左慈は、鼓動が跳ねて苦しい中、それだけ問うた。
何もかもが新月の夜の闇に溶けて曖昧な中、それは、異様なまでに鮮烈で青い瞳を輝かせていた。
晴れた日の浅瀬のようなその煌めきが、真っ黒な影の中から左慈を捉えて言った。
「あなたが教えて。月の明るい頃に」
「どういう—————」
瞬きをする間に、左慈はまたいつのまにか仰向けになっていた。目の前に映るのは、見慣れた天井の梁。左慈は自分の床に入って眠っていたようだ。半身を起こして、寝起きで鈍く痛む額を抑えた。あれは、夢だったのだろうか。
「おう左慈、今起きたのか」
「……左介、帰ってたのか」
廊下に面した破れ穴の目立つ障子戸が開き、左介が顔を覗かせた。
「ちょっと前に、支度しに戻ったんだよ」
そういう左介の肌からは、酒臭と、左慈が夕方に触れた女の匂いがした。しかし兄は何に酔っている様子もなく、淡々として「急がねえと、みんな海に出ちまうぞ」と左慈を促した。
「そう、だな。……悪い、急ぐから先に出ててくれ」
「一段とひでえ隈ができてんな。気分が悪いなら今日は休んだらどうだ。お前んとこの網元には俺が話しとく」
左介が左慈の顔を心配そうに覗き込んだ。左慈は顔を逸らして、布団から腰を上げた。
「いや、そんな大袈裟なものじゃあない。船出には間に合うようにするよ」
「そうか、無理はするなよ」
左介が一言告げて出ていくと、左慈は眠気の引かない目を少しの間だけ閉じた。
——月の明るい頃に。
透き通った声音が、耳の奥でこだました。
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