六、波間
新月の晩の奇異な体験から数日。
あの夜から、左慈はふいに目が醒めてしまうことはあれど、一晩中寝付けないということはなくなった。それだけのことで、凡庸な毎日の何かが大きく変わるわけではない。が、いつか漁の最中に気を失ってしまうのではないかとか、眠りこけて恥をかくのではないかとか、そう案じることは僅かだが減っている。それだけでも幾分か気が楽になった左慈であった。
今日は波が荒れて海に出られないこともあり、左慈たち潮見の漁夫は、清潮祭に向けた準備を進めることとなった。左慈は一路の父和一に連れられ、一路含めた数人の若衆たちとともに岡方集落の波間へと祭具を引き取りに向かっていた。
「——左慈、お前聞いてないな?」
「えっ、あ……悪い。なんだったか」
潮見の香取社から借りた大八車を曳き、ぼんやり考え込んでいた左慈は、一路から背を軽く叩かれて我に返った。隣の一路だけでなく、左慈の前を進む者たちもまた、きょとんとした顔でこちらを見ている。いたたまれなくなって、左慈はせかせか歩む自分の足元に目を落とした。
「祭の道具ってのは庄屋の蔵に置いてあるんだけどよ。お前、あそこ行くの久しぶりじゃないか?」
左慈はちろりと視線を上向けてぼんやりと記憶をたぐった。
「ガキの頃に何度か、左介と親父と行ったらしいけど。覚えてないな」
答えると、一路は何故か講説垂れるかのような得意げな口調になる。
「向こうじゃな、娘組は庄屋に集まって針仕事をやってんだけどな、四年前、今日みてえに祭具を取りに出向いた時に、俺ぁかみさんに声かけたんだ」
「へえ、そうだったのか」
「そうだったのさ」
「………初めて聞いたな」
幼なじみがどんな返しを求めているのか分からず、左慈は困惑した。前を歩く三人のうちの誰かが、ふ、と笑うように息を漏らした気がしてひどく居心地が悪い。何か言わねばと思うほど喉が詰まって言葉が出ないでいると、一路に先ほどよりも一層強く背を叩かれた。衝撃と驚きで顔を上げると、からっとした笑みを浮かべる一路と目が合う。左慈は知らず知らず強張っていた肩の力を抜いた。
「まあ、行けばお前もひょっとするんじゃねえか」
「なにが……」
「お前だって、左介と同じで背格好は親父さん譲りなんだから。もっとしゃきっと背を伸ばして、堂々としてりゃあいいんだよ」
取り留めのないやりとりをしているうちに、和一から、そろそろ着く頃だと声がかかった。
波間は藩領の区分でいえば潮見や沖江、巳浦とまとめて同じ村というくくりだが、潮見から約半刻、一里ほど内陸に位置する。昔から、影海岩信仰が根付いていることもあって、潮見とも縁が深い集落だ。故に、一路の家族のように、集落を跨いで家同士が結びつくことも珍しくなかった。とはいえ、付き合いの悪い左慈は、波間にはたまたま言葉を交わしたことのある者が僅かにいるだけで、敢えて訪れる場所でもなく、村の様相もおぼろげであった。
収穫を終えた田畑を耕す者、用水路に詰まった泥を掻き出す者など、牧歌的な農村の風景を横目に畦道を行く左慈たちは、和一に連れられるまま庄屋の屋敷を訪れた。屋敷を囲むウコギの生垣の向こうから、鳥の囀るような娘たちの談笑が漏れ聞こえる。波間の娘たちが数人、縁側でぼろの野良着を繕っていた。和一が庄屋に用があることを伝えると、うち一人の娘が屋敷の奥に駆けて行った。残った娘たちは、左慈を含む潮見の若い男たちに目を向け、示し合わせたかのように一斉にまなじりを下げた。
「こんにちはぁ」
「潮見の漁師ね」
声を弾ませる娘たち。左慈はぎくりとして、猫背をさらに丸めて視線を斜めに逸らした。一方で、共に来た潮見の若者たちは、口の端をにやりと引き上げてみせた。
「おう、よく分かったなあ」
「だって……ふふ、ねえ?」
「漁師とうちのじゃ全然違うもの」
「へえ。どう違うってかい」
やだあ、だとか、どうかしらねえ、だとか。
娘たちは男たちと話しているようで、その実仲間同士で真意を確かめるように目配せをして笑い合うばかりだ。男たちは、笑うたびに柔らかくしなる彼女たちの身体を、上から下まで観察するようにちらちらと、あるいは不躾に眺めて笑う。しかし、決して近づいてちょっかいをかけるようなことはしない。他集落のひょろっこい百姓男が怖い、というわけではない。他の集落と揉めれば、潮見の内でも厄介者として邪険に扱われてしまう。共に海で命をかける仲間たちに白い目で見られることを、潮見の男たちは何よりも気にするということを、左慈は知っていた。
いずれにしても、左慈は、透明な柵を隔てて互いに品定めするかのようなこの雰囲気がひどく苦手であった。縦にばかり大きい身体を、自分より頭半分小さな一路の背に隠すようにして、眼前に繰り広げられる若い男女の見本市から距離を置く。
「和一あにぃ、久しぶり」
しばらくもしないうちに、庄屋が来るより早く生垣のそとから声がかかった。和一の知り合いが、こちらの来訪に気付いて追ってきたのだろう。中年の男と若い男三人が、嬉しそうに和一の傍らに並んだ。
「漁の調子はどうだい」
「まあまあだわな。そっちはどうだ」
「一路、あやは最近どうしてる」
和一や一路だけでなく、一緒に来た若者たちもまた、集った波間の百姓と面識があるようだ。左慈はそっと一路の後ろとも隣とも言えない位置に立って、挨拶の様子を見守り、時折投げかけられる言葉に頬を引きつらせながら相槌を打つなどした。
そうしてようやく、屋敷裏の土蔵の方から、左慈も顔くらいは知っている庄屋の甚蔵が現れた。左慈たちが軽く会釈をすると、甚蔵は四角い顔にくしゃっと皺を刻んで破顔した。
「和一、来たのか! 待っててくれ、表まで祭具を持ってくらあ」
「いいや、俺たちでやりまさあ」
「なんの、これくらいさせてくれ。実を言うと、装束のいくつかが虫に喰われちまってな。こっちで繕っている最中だから、今日は舟と道具だけ持ってってくれ」
「へえ、わかりやした」
「いや、悪いな」
「気にしねえでください」
「昼飯まだだろう。少しでよければ、食ってくか」
「いいんですかい」
「縁側に座っときな。用意させる。————ほら、お前たちは客じゃねえんだ。さっさと畑に戻りやがれ。おめえたちも、針仕事を続けんなら奥でやんな」
甚蔵は波間の男たちに畑へ戻るよう指図すると、せかせか家の中に戻っていった。娘たちは口々に返事をして、にやっとこちらを一瞥してから団子になって屋敷の奥へと去った。左慈たちはそれを見届け、静かになった縁側に並んで腰を下ろした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます