【満月】

九、逢瀬

「左慈、お前このところ、いっときよりも調子が戻ってきたんじゃあないか」

 高潮で漁に出られなかった日の午後、左慈の網組は干鰯を拵えるべく鰯を天日干しにしているところであった。塩水に浸されしなびた鰯を真水で洗いながら、一路がぼそりと尋ねた。

「夜中に出歩くのは、もう止めたのか?」

 左慈は「いや」と首を小さく横に振った。

「止めてないよ。けど、浜でぼんやりしていると、眠れるようになってきたからな。少し調子がいい」

「そうか? もうすぐ夏も終わるし、夜の浜辺は冷えるだろう」

「……実は、勝手に網組の浜小屋を借りてる」


 左慈は中身の取り払われた鰯の開きを干し網の上に並べながら、一路にばれないようにゆっくりと唾を飲み込んだ。嘘をついたことにちくりと胸が痛むが、本当のことは言えない。

「網元には言わないでもらえると——」

「言わねえ言わねえ。俺ぁお前が楽ならいいんだよ、別に」

「悪いな」

「まあ、お前なら、勝手に使ったところで小屋や道具が荒らすようなことはしねえだろうが、ばれないようにしろよな。女なんか連れ込むんじゃねえぞ。ここいらでイカなんか獲れねえんだからすぐ分かるぞ」

「す、するかよ、俺がそんなこと……」

 考えてもなかったことを言われて、左慈は声を上擦らせた。一路は全く悪びれた様子もなく、「悪い悪い」と朗らかに笑い、それから、

「あっ、女といえばさ。今日若衆で社務所で酒盛りしようって話になってんだが、お前調子が戻ってきたなら久々に顔出せよ。あやが言うには、娘たちも遅れて顔出したいって言ってたらしいぜ」

 左慈は一寸の間言い淀む。それから、「俺はいい」とかぶりを振った。一路が眉を上げて意外そうにした。

「なんでだ。お前、集まりは別に嫌いじゃなかったろ」

「そうだが……酒が入るとまた寝つきが悪くなる」

 口にした理由は事実だが、左慈の本音は別のところにあった。


 左慈は別に、皆が楽しそうにしている中に混じるのは嫌いではなかった。ただ、いつしか己だけがその明るい輪の外にいるように感じてならなくなったのだ。

 濃く匂い立つ鰯を干し網に並べつつ、左慈はそれきり黙る。そんな振る舞いには慣れている一路は、さして気にする様子もなく話を続けた。

「あやンとこにきてた娘っ子の何人かが、左慈は顔出さないのかって気にしてたぜ。お前に気がある娘の一人二人いるんじゃねえのか」

「……俺のは気があるとか、慕われてるとか、そんなんじゃないだろ。舐められてるだけだよ」

「おいおい、捻くれんなよ。血気盛んなやつより、お前みたいな穏やかな野郎がいいって女もいるんだって。それに、平さんの息子で左介の弟だぜ、お前。慕われない理由探す方が難しいだろ」

 皆に慕われているのは、その二人だろう。喉まで出かかった返しを唾ごと飲み込んで、

「悪いけど、社務所に顔出すのはやっぱりやめとくよ。眠れる時に寝ておきたい」

 左慈はやはり、首を横に振った。

 


〜●〜

 満月のあの日から、天気の悪い日を除けば、左慈はほとんど毎夜ウシオの元へ足を運んだ。今、彼女は左慈の目の前で、魚油を垂らした火皿の上で、枯れた松葉を焚いた小灯こともしを不思議そうに見つめている。ぞっとするほど美しい顔立ちに比して女の表情は無垢、初めて出会った時には感じられなかった人間味を帯びていた。

「あんたは」

「私はウシオ」

「いや、そうだが……そうじゃなくて」

 彼女は、瞬きや呼吸の一つ一つさえ心を惹きつけるような佇まいとは裏腹に、やりとりはどこか拙いものであった。

「あんた、つまり、影海様の化身ってことでいいのか」

「影海様……あなたたちがそう呼ぶ、あの岩のことね」

「あれは神聖なものだけど、影海様そのものでは……いや、似たようなものなのか」

 左慈は影海岩と、浜辺の端の崖と見遣った。今は暗くて見えないが、崖の上には磐座をおかに迎え入れるように建てられた、影海神社の鳥居がある。


 ウシオは小さな燈に目を落としたまま、

「私は岩ではないよ」

「あの岩でなく、あんたこそが影海様ってことか」

 すると今度は首肯して、

「あなたたちがそう呼ぶのなら、私は影海様なのだろう」

「…………」

 左慈が思っていた答えとは違う。

 とはいえ、これ以上の問答を続けるには、左慈はあまりにも寡黙でしゃべり慣れていない。少し喉が乾いてしまい、黙って胡座の上で組んだ指を見た。するとそこに、真白で冷たい手が添えられた。顔を上げようとすれば、ほの明かりを映した大きな瞳が間近に迫り、左慈はどきりとして半身を引いた。

「私はあなたたちの祈り。この海に生きるものたちの安寧を保つもの」

「————海の神わだつみ、とか、そういうものか」

 もしそうなら、神の膝を借りて寝るなど不敬も甚だしいところだが、左慈はそれについては思い至らない。

 ウシオは首を横に振った。左慈にも理解できる簡潔な否定の仕草だ。

「私は海のほんの一部……あなたたちもまた、同じ」

 が、すぐに理解の枠を越えた答えが加えられる。


「……つまり?」

 聞き返すと、ウシオは目を伏せて、握っていた左慈の手を徐に引いた。腕を伸ばすような形になった左慈が、彼女の挙動に困惑していると、

「たとえば」

 ひやりとした手が、しなやかな筋に覆われた腕を撫で上げる。羽の触れる様な感触に、左慈は総毛立った。

「な、にを」

「あなたたちの身体は海の恵みが与えたもの。海がなければあなたたちはいない。あなたたちがいなければ祈りは生まれず、私も必要とされない」

 皮膚の肌理のひとつひとつさえ確かめるように撫でていた手が、ぴたりと止まった。

「海があって、あなたがいて、私がいる、ということ」

 言葉は通じているはずであるのに、返事はまるで朝靄のようにつかみどころがない。その上左慈の意識は、腕を這うさらりとした冷たさと、ぐらぐらと頭を揺らしはじめた眠気で散漫としていた。


「俺には、よく分からないな。聞いといて、すまないけれど……」

 徐々に瞼が下がってゆくのに耐えていると、ウシオが左慈の額ををそっと撫でた。

「私の話はいずれまた。今はあなたに安らぎを」

 風がそよぐほどのささやかな力であるのに、そんなウシオの手に逆らうことはできず、左慈はぐらりと頭を傾けた。正直なところ、童でもないのに頭を撫でられただけでほっとして、眠気のままに横たわってしまうことは、気恥ずかしさを通り越し、いっそ毎夜毎夜の記憶を失くしてしまいたいくらいであった。一方で、近頃の左慈は、これは己の問題ではなく、触れる掌や見つめる浅瀬色の瞳に、抵抗する意思を奪うような不思議な魔性が宿っているのだろうと、そうであればその場で眠りに落ち彼女の膝の世話になることも仕方なかろうと、そう開き直りつつあった。

「ウシオが……」

「私が?」

「ウシオが、俺の前に現れたのは、何故……」

「……あなたが探していたから」

 やはり掴み所のない返事をするウシオであった。しかし左慈はすでに、潮騒に意識を拐われるように眠りの底に沈んで、彼女の言葉を聞き逃していた。

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海罪ノ木深版 ニル @HerSun

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