十五、潜熱

 ウシオに連れられたのは、ちょうど影海神社の鳥居の下辺りに位置する、潮見でも知れた岩窟であった。長い年月をかけて波と潮風が崖を穿ったそのうろは、晴れた日であれば童たちが度胸試しに遊びに来る場所である。入り口の上には、鎮守の杜から逸れてしまった、痩せた柊木犀が健気に白い花を咲かせていた。

 こんなに海が荒れる日は、穴ぐらに波が押し寄せたっておかしくない。だが、不思議なことに岩窟の周りの潮は引いている。そういえばと、左慈はウシオの全身をまじまじと盗み見る。彼女は左慈ほど雨風に濡れている様子はない。全てウシオの力だろうか。左慈は袖から腕を抜き取り半端に脱いで、雨を吸った袂を絞りながら思い巡らした。


 左慈は幾分水の絞れた服を着直すと、ウシオのもとに戻った。岩窟の奥で左慈が持ってきた筵に座るウシオと、人半分ほど距離を置いて胡坐をかく。そこから先、どう口火を切ろうか考えているうちに、沈黙が破りづらくなってゆく。

 それを知ってか知らずか、ウシオが口を開いた。

「まだ夜ではないけれど、眠りたいの」

「そういうわけでは……」

 眠れない時を除いては会いに来てはいけないのかと、捻くれた返しが心内を過り、左慈は言葉を唾と一緒に飲み込んだ。

「そう」

 何も言わない左慈に、ウシオが低く相槌を打った。時折そうするように「教えて」、「こっちを向いて」とも唱えず、それっきりだった。


 ——私もあなたが知りたい。どんなことでも。

 夜明けの海で、彼女が吐露していたことを思い出す。

「家にいると、どうにも息が苦しくて」

 嵐の音に紛れるように、左慈は訥々と打ち明けた。

「あんたといると、ここに居てもいいんだと気が楽になるから。居ても立ってもいられなくて……それだけだよ」

「そう」

 胸を撫で下ろすように穏やかな相槌が、左慈の耳の奥をくすぐった。ちらりと彼女の方に視線を下げたが、左慈の目には艶髪の中心に覗く蕾のようなつむじと、髪の奥で睫毛がわずかに揺れる様子しか見えなかった。そっと覗き込もうとしたところで、左慈は鼻の奥がつんとしてくしゃみが飛び出る。ついでに髪の毛から滴り落ちた滴が背を伝い、小さく身震いする。ウシオはというと、初めてくしゃみを見るように、驚きに肩を竦ませたまま固まってしまった。実際、初めて見るのかもしれない。左慈は、宝玉のように丸い目を瞬かせるウシオが可笑しく——愛らしく、口元を綻ばせた。


「濡れたからかな、少し寒いよ」

「寒い?」

「冷たい雨に打たれたから、俺の体も冷えたんだ」

「左慈はいつも、温かいよ」

 ウシオは、血の気のない彼女自身の掌を見つめながら続けた。

「眠るあなたの額や頬は、いつも私に温もりを与うの」

 自分が眠りに落ちている最中の彼女のことなんて、想像もしなかった。左慈はその有様を思い浮かべてしまい、やや座りが悪くなる。


「……ウシオの手は、いつも冷たいよな」

 気恥ずかしさをごまかしつつ、左慈は頬を掻いた。するとウシオはゆっくりと左慈を見上げた。鮮やかに澄みわたる目が、三日月を象って微笑んだ。

「海に棲む者はみな、触れると冷たいよ。……今は、あなたも」

 前触れなく、冷たい指先が左慈の冷え切った耳の淵をなぞり、温度を確かめながら頬や鼻先に触れた。あまりに唐突なことにどうしてよいやら考えが追いつかず、左慈は女の奇行を止めるのを忘れて、無邪気に顔をなぞられるがままになった。指が唇に降りた時、つい漏らしてしまった吐息に、彼女はぴたりと手を止めた。

「ここは温かいまま」

「ぐっ」

 瞳に好奇を孕んだまま、ウシオは人差し指と中指を左慈の口の中に差し入れた。くちゃり、と粘った音が、岩窟の外の暴風よりもよっぽど大きく鼓膜に響く。左慈は狼狽えながらも、緊張に身を固まらせて腹の底から湧いてくる衝動と攻防する。一方のウシオは、いつの間にか左慈の胡座に乗り上げんばかりに近づき、夢中になって自分の指の差し込まれる様を見ていた。


「熱いのね」

 浮かれたように吐かれた一言。

 爪がぬめった口内を掻く。左慈の舌の熱が、冷たい指先に伝播して混ざる。

 胸を掻き毟りたくなる衝動が溢れる。そのむず痒さを持て余して、左慈はウシオの指に歯を立てた。ぴくと跳ねたウシオの丸い肩を片手で掴む。もう片手で彼女の指を口から抜き取ると、じゃれるように互いの鼻先を触れ合わせた。

「ん」

 何かを言おうとしたウシオの声は、左慈の口に飲み込まれて呻き声だけが洩れ出た。唾液で滑る細い指に左慈のそれを絡め握り込むと、ウシオが握り返した。その仕草にほっとして、たまらなく嬉しくて、左慈は一層深く口を重ねた。冷たい肌を持つ女の口内は、左慈と同じ熱と柔らかさで満ちている。もっと、もっとと前のめりに迫るうちに、息荒く唇を離す頃には、左慈はウシオに覆いかぶさり彼女を見下ろしていた。


「左慈」

 吐息まじりに名を呼ぶ彼女の頬は、肌の下から滲むような淡紅を帯びている。

「あんたにも、血が通っているんだな」

「……あなたが私に与えた。あなたの熱は、陽の光よりも温かく烈しい。……心地良い」

 身体中の血潮が熱くく巡る。えづきそうなほど胸が苦しい。左慈はウシオの首元に頭を垂れ、喉に唇を這わせながら深く息を吸った。白いうなじからは、柊木犀の花と同じほの甘い香りがする。頭がくらくらして、この温もりと香りに早く溺れてしまいたかった。

「いいか」

 組み敷き応えを強請るように、或いは平伏し赦しを乞うようにして、左慈は声を震わせた。

「聞かなくて、いいよ」

 熱を帯びた指先が左慈の背をなぞり、二人の影が重なった。

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