十四、時化
左慈の予感したとおり、翌早朝の波はやけに高くて漁のできる状態ではなかった。網子たちは舟を浜から引き上げ、集落の家々もまた、屋根に小岩を積んで雨戸を締め切り、来る暴風雨に備えた。
昼下がりにもなれば大時化となった。こうした日は、左慈たちは何もすることがなく、家の中で嵐の音を聞くばかりで退屈だ。
左慈が囲炉裏の傍らで横になって目を閉じていると、
「まったく、慈郎ったらよくやるねえ」
自分の小袖を見繕いながら、まづがそうぼやいた。
「嵐だってのに、まあ元気に遊びに行けること」
「風邪ひかないといいけれど」
花乃が心配そうに、風で軋む天井を見上げた。するとまづはふんと鼻で笑った。
「遠くに行きやしないよ。どうせいつもの仲間の家でつるんでるだけさね」
それに対して、左介が「いいじゃねえか」と欠伸混じりに口を挟む。
「家ん中じゃあ、俺たち男はやることがねえんだから、肩身が狭いんだよ。なあ左慈」
「……そうだな」
狸寝入りをしていたのだが、左介にはばれていたらしい。左慈は観念して小さく返事をした。一方の兄はというと、花乃の膝に頭を載せて居心地がよさそうだ。やることがないのなら、奥の二人の部屋でくつろいでいたらいいのにと、そう思わなくもない左慈である。が、だからといって兄夫婦を居間から追い出す理由もない。本当に肩身が狭いのは、この場に己一人だけらしい。左慈は再び寝たふりをしようと寝返りを打った。
「そういや昨日破れた網、あれは修復できそうか?」
しかし左介が話を続けるので、左慈は結局、横になるのを諦めて半身を起こした。
「あと一度、もって二度ってところだな」
「そうか。町に麻を求めに行ったんだが、仕入れに少し日がかかるらしくてよ。新しい網ができるまでは、どうにかして耐えるしかねえなあ」
花乃の膝に頭を預けたまま、左介は呑気な調子でぼそりと呟いた。
「あら、そうなのかい? 最近は漁が振るわないみたいだし、全くついてないよ」
まづは顔をしかめ、花乃もあらまあとそれに同調して相槌を打った。
「ついこの間も高潮で出られなかったものね」
「やだやだ、うちは畑もそれほど借りてないし、不漁が続くんじゃあ今年の年越しは辛気臭くなりそうだねえ」
女二人が困ったようにため息をつく傍ら、左介は呑気にあくびをした。
「そういう年だってあるさ。漁師っつうのはどうしたって天の恵にあやかるしかねえんだから。あっ、そうだ左慈」
「…………なんだ」
左介が思い出したように呼んだ。左慈は嫌な予感がする。兄がこうやって脈絡なく話しかけてくる時は、大抵、左慈にとって都合の悪い話が出てくるのだ。
「今、一路んとこに来てる波間の娘っ子、お前あの子と知り合いなのか?」
案の定、あまり話したくはないことである。左慈はたっぷり間を取って、「清潮祭の舟を取りに行った時に」とだけ答えた。
それを照れ隠しだとでも思ったのか、左介はにやりと笑い、まづと花乃は感嘆の声を漏らす。どうしてこうも自分の心内が伝わらないのだろうと、左慈はこれまで幾度となく思った疑問が湧き、そしてそれは直様、諦めに変わった。
兄は左慈の心境などお構いなしで、少し嬉しそうにさえしている。
「なかなか気のいい娘だと聞いたぜ。向こうの庄屋の姪っ子なんだって?」
「らしいな」
そっけなく返すが、左慈の口下手などいつものことだとでも言うように、左介やまづ、花乃までも気にせず会話を弾ませた。
「あれまあ、素敵なご縁だこと」
「おかあ、俺はなにもそういう風に……」
「そうだよ、あんまり急かすなったら。なあ」
「いや、だから……」
勝手に盛り上がる左介とまづに、左慈は弁解する気も失せてしまった。何もしていないのに疲れてしまった身体を引きずり土間に下りる。
「おおい、どこ行くんだ」
「浜小屋だよ。作りかけの縄があったから、中で作業してくる」
「波が近かったら、無理すんじゃねえぞ」
止めはしない左介に、左慈は少しほっとして小さく首肯した。一方のまづは、「なんだいなんだい」と囃し立てるのを止めない。
「照れちまって。母親に隠すこたないじゃないか」
「おかあ、止せったら。——左慈、ついでに俺んとこの小屋の道具も片しておいてくれたら助かる」
「——分かった」
後ろ手に閉めた戸の中から、「あいつは内気なんだから、余計なこと言うなって」と左介がまづを窘める声が聞こえ、左慈は唇を少し噛んだ。有難いはずなのに、なんてことのないように飄々と助け舟を出す兄の頼もしさへの嫉みと、その舟に乗るしかない不甲斐なさとを奥歯で噛み締めた。左慈は苛立ちを掌に爪を立てて押し込め、暴風に殴られながら海岸へ向かった。
浜は、激しく満ち引きを繰り返す波の、生臭い潮の香りに満たされていた。遠く離れた沖合では、雲のような白波が高く荒ぶっているのが見える。影海岩もまた、そんな高潮に乱暴に覆われては、ぽっかりあいた穴からざぶざぶと泡立った波が吹き出ていて、どこか痛々しい有様だ。
当然だが、浜辺には人っ子ひとりいない。集落と海岸を隔てる松林には、船底を上にした舟が並び、縄で縛られて杭で地面に固定されている。波は高いが、小屋まで届くほどではない。左慈は左介の網組の浜小屋から手を付けることにした。
小屋の中は、屋根の所々から滴が滲み出ていて、土と塩水、こけのにおいが鼻をつく。左慈は短く鼻をすすって、乱雑に放られた漁具を簡単に片付けた。
ひと段落して、自分の網組の浜小屋に移り、作りかけた縄はどこであったかと小屋の中をうろうろ探す。しばらくもしないうちに、こんこん、と気味よく戸が叩かれた。左慈は急いで表へ出る。誰の姿も見当たらない。
周りを見渡して、左慈はすぐに気がついた。浜辺の端の、潮に当てられて草木の剥げた崖の裾、そこから崩れ削り落とされた岩の群れに紛れて、彼女はこっちを見ていた。一面灰色の荒れた世界に、赤茶けた布だけが浮き上がって見えた。驚きよりも、やはり、という嬉しさが、いつのまにか力んでいた眉間をほぐした。左慈は片付けを放って藁の筵を抱え、風雨も構わず彼女の元へ走った。
彼女は、荒れ狂う波の手の届かない岩肌の上に立っている。唇を引き結び、時化の海岸沿いを一心に見つめている。
「ウシオ」
呼ぶと、ウシオはこちらを見遣り口の端を上げた。そして、裸足であることを感じさせぬほどの軽やかさで、左慈の元までたどり着いて、
「ここは波が煩いね」
呟き、左慈の手を引いた。
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