十、黎明

 悪天は続けど、ちょっとやそっとの荒波で漁を休んでいては生活にならない。加えて、翌日は和一や左介をはじめとする清潮祭の中心を担う者たちが、一月後に控えた祭の段取りやら準備やらに時間を割くようになっていたため漁はできない。そうした事情もあり、潮見の漁夫たちはその日のうちはどうにか漁を決行したのであった。

 その夜の左慈は、いつもより長く寝ていた。すっかり素直に女の膝で仰臥するようになってしまった左慈は、呻きながら目を醒す。ウシオがこれに気づき、視線をこちらに落とした。

「今夜は、ゆっくり眠っていたね」

「明日は漁がないんだ」

「そう」

「……あの、だから夜明けまで誰も来ない」

「みな、日が昇るまで眠っているのね。海に棲む者もそうよ」

「あ、うん……だからその」

 少し前の時季より幾分肌寒く、寝起きの体は気怠さを引きずっていた。左慈を見下ろすウシオは、月の沈みきった薄紺、未明と暁のあわいを背にして柔らかく微笑むばかりである。思惑が伝わらなかったことを察し、左慈は言い淀んだ。


 明日は祭りの準備でどこの網組も漁ができない。つまり、いつもであれば空が白み始める頃には家まで戻らなければならないのだが、今日はその必要もないのだ。

 そこまではウシオにも伝わっているようだが、左慈が本当に言いたいことはうまく伝わっていない。そうであっても、左慈の愚鈍な口からは、小粋な誘い文句どころか心内を素直に表す言葉さえ出てこない。

「夜明けでも、あんたは消えないのか」

「あなたがここにいるのなら、私もここにいよう。あなたは、朝の海が見たいの」

「俺はただ……宵闇以外のあんたを見てみたいと……」

 ようやく出てきた本音に近い何か。間近で見下ろされていることが今更恥ずかしく、左慈はゆっくり起き上がった。


「何時であっても、私はウシオだよ」

「そうじゃなくて、俺はもっと……。その、もっと色々なあんたを知れたらと」

 左慈はウシオから背を向けて口を尖らせた。言葉にしなければ伝わらない煩わしさに、ほんの小さな不満が湧いた。しかしそんな葛藤も二人の間に無言が続けば、すぐに気まずさと申し訳なさに押し流されていく。

「すまない、会えるのが夜だけといのなら、俺は別にそれでも————ウシオ?」

 困らせたかと思い慌てて振り返ったものの、彼女は日の出が近い暁闇の水平線を見つめていた。

「どうした————」

「こっちに来て」

 ふいに手を引かれ、左慈はウシオに導かれるままに立ち上がって歩き出した。声をかけられた途端に、彼女の視線や言葉への疑問が濃霧に紛れたように左慈の心から姿を晦ました。

 背後でふと小灯が絶え消えたことにも気づかず、己の手を引く女の髪が夜風に靡くのに見惚れる。


 そうしていつの間にか、ウシオに誘われるまま左慈の身体は胸まで海に浸かっていた。

「なんだっ!?」

 浜から見るより大きく見える影海岩。振り返って見える岸の遠さから、もう数歩も歩けば左慈の背でも顔を出せないほど深くなることを察した。

 艶のある長髪が水面に広がり、左慈の肩に纏わりついている。こちらの腕を掴んだまま少し前を歩むウシオの姿に、左慈は背筋をぞくりとさせた。

「待ってくれ、一度浜に——あっ」

 急に深さが増して足を踏み外した。咄嗟に大きく息を吸って目を閉じる左慈。束の間、胸が苦しくなる。幸いなことに海とともに育った左慈は、水の中にいることにさほど抵抗はなく、むしろ反射的に体から緊張が抜けていくのを感じた。しばらくは息も保つだろう。体が真っ直ぐに落ちていくのを感じながら、水面の奥へと引き込んだ当の女の手首を強く掴み返した。彼女の手先にも力が込もる。


「目を開けて」

 水中だというのに、ウシオの声は浜辺で聴くよりも澄んで聞こえた。彼女の意図は分からなかったが、浜で手を弾かれた時と同じく、何故か抵抗する気にならなかった。左慈はゆっくり目を開ける。

「………っ!」

 視界は、水の中と思えないほどはっきりとしていた。辺りを浮遊する白い塵、海藻や岩場の黒い影、そして目の前の女輪郭が、薄闇に柔らかく浮かび上がる。

 じっと左慈を見つめるウシオの姿が、さっと差し込んだ銀の光に照らされた。白魚の肌と浅瀬色の瞳が煌めく。日の出だ。

 徐々に温もりを帯びゆく水の流れを纏い、揺蕩う黒髪に、左慈は思わず手を伸ばす。ウシオの目が不思議そうにそれを追い、やがて真似るように左慈の短い髪に触れた。

「ふ——、ぐっ」

 つい笑みをもらしかけたところで、左慈は息をつまらせて急激に苦しさが増した。それを察したウシオが、もがき始めた左慈の手を引いて水面を目指して昇った。苦しさに目が眩む中でも、海の薄明かりに照り映え揺れる赤い衣が、左慈の目に美しく見えた。


「ぶはっ、は、はあっ、ウシ、オ」

 ありったけの空気を吸い込み、喉に海水をつまらせた左慈は大きくむせかえった。塩水で鼻の奥がつんと痛み、肺が空気を求めて大きく伸縮を繰り返す。

「大丈夫?」

「は——はあ、ちょっと」

 返事をする余裕もなく、左慈はしばらく、息を整えることに必死になった。その間、ウシオはずっと左慈の両手を握っていた。呼吸が落ち着いたところで、ようやく彼女の様子を確認する。

 ウシオは顔にべったりはりついた髪の隙間に覗く目を、水平線から放たれる陽光と、淡く染まる東雲に向けていた。左慈はようやく落ち着きを取り戻し、しかし未だ困惑していた。

「あんた、こんなことをして何を……」

「見せるために」

「へ?」

「あの光が、ここに棲まう者を照らして生かし、あなたたちの祈りを運ぶ。それが私の夜明け。……これが夜明けの私の姿」

 彼女の言葉は、やはり捉え所がない。それでも、日の光の下で見る彼女は、月のように真夜中に泛ぶ姿より、ずっと現実味を帯びていた。左慈は彼女の存在を、これまでで一番近く感じた。


「——は、ははっ」

 海に引きずり込まれてしまうのではと肝を冷やしていた、つい先ほどの自分を思い出して、左慈は思わず吹き出した。その拍子に、自分でもよくわからないままに可笑しさが込み上げて、久方ぶりに声を出して笑う。

「左慈……」

 多少戸惑いを滲ませたウシオに手を伸ばし、

「いや、そうだ。俺が見たいと言ったんだ」

 左慈は目尻に皺を作りながら、女の顔にかかったままのおどろ髪を払ってやった。滑らかな額を見せたウシオは、きょとんとした顔で笑う左慈を見ている。

「いや、あんたを笑ったわけじゃ……自分が可笑しくて。————ありがとう、綺麗だな」

 実際、日の出の瞬間の海をこんなに美しいと感じたのは初めてであった。ウシオは一瞬、目を丸くしたかと思えば、すぐにその鮮やかな目を潤ませて微笑んだ。


 そろそろ戻らねばと思い、ウシオを促して岸まで戻る。その途中で、彼女はぼそりと呟いた。

「あなたの気持ちが分かる」

「え?」

 左慈は彼女を振り返る。ウシオは屈託なく頬を綻ばせていた。

「私もあなたが知りたい。どんなことでも」

 朝陽に濡れたその顔に、左慈はもう一度触れたいと思った。

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