十一、不意
清潮祭まであと半月となり、いつしか夏の盛りは過ぎて、日差しも柔らかくなりつつあった。
「おうい、こっちの鉤も錆びて折れてら」
「先に言っとけよ。左介はもう他の網元と出ちまったじゃねえか」
「仕方ねえだろ、今見つけたんだよ」
左介の網子たちの乱暴なやりとりが、少し離れたところから届いた。
夜明け前から雲ひとつない秋晴れであったが、一艘の舟が仕掛けた網が大きく裂けてしまい、あまり漁が振るわなかった。修繕してももう長くは使えないほど痛んでおり、左介や和一といった網元たちは、早々に漁を切り上げて町まで麻を買い求めに出ていた。だが網が破けたといっても、明日も稼ぎは必要だ。
左慈は数人の若い衆とやっつけの修理に取り掛かっていた。ひとまず、浜小屋に放り込んであった作りかけの藁縄を黙々と編んでいる。一路含む他の組の網子たちも、網を編んだり他に破損した漁具はないかと確認したりしている。細かく億劫な仕事であったが、周りの男たちはそう感じさせないほど明るい。
そのわけは、左慈から少し離れたところ、一路とともに裂けた漁網を広げながら大袈裟に声を上げた娘にある。
「——まあ、そんなに大きな岩、気づかないものなのかしら」
「いやあ、引っ掛けるなんてこたぁ滅多にないんだけどな。この網も古くなっていたし、破れ易かったのかもしれねえ」
「それにしても、すごい裂け方」
昨日から、一路の嫁のあやに会いに同郷の実千が潮見を訪れていたのであった。それなのに、彼女はあやではなく一路についてきて、地味な作業に勤しむ男たちに混じり無邪気に漁網と戯れていた。何故ここにいるのか気にならないことはないが、わざわざ尋ねる気もない左慈は、手元の縄を拵えることに没頭する。
「ねっ、それって結構難しいかしら?」
「わあっ」
いつの間にやら傍に寄って来ていたのか、実千がひょこっとこちらの顔を覗き込んでくる。左慈は驚いて肩を跳ねさせた。
「ごめんなさいっ。びっくりさせるつもりはなかったの」
「あ、ああ、いや大丈夫。俺も大きな声を出して……」
眉を下げて慌てて謝った実千は、それでもその場から離れない。彼女は屈み込んだまま、じっと左慈の手元を見つめた。
「左慈さん、手先が器用なのかしら」
「ど、どうだろうな。あまり言われたことはないけど」
「でも、その縄とっても綺麗じゃない」
「これは……そんなに難しいものじゃないよ。俺は修理で慣れているし」
「へえ、じゃあ一路さんでもできそうね」
悪戯っぽく笑って、実千が一路に視線を向ける。
「おいおい、どういう意味だよ」
名を呼ばれた男は、すかさず野次を飛ばした。その場がわっと和やかになって、左慈も思わず口元を緩めた。会話に混ざることはしないが、こうした他愛のない穏やかな談笑を眺めているのは、左慈はむしろ好きであった。
実千は左慈の様子に気づくと、そばかすの散る薄い頬をほんのり染めて微笑んだ。
「これ、アタシにもできる?」
「え、あの」
「教えてちょうだいな」
そしてその場に座り直すと、左慈の手から作りかけの縄を引き取った。間合いの近さに戸惑い、声を弾ませる娘を上手くあしらうことができずに、左慈は行き場を失った手を空に浮かせたままおろおろした。
「俺は、ちょっと……」
助けを求めて一路を見るが、彼は微笑ましげに見守るばかりか、実千の相手は任せたと言わんばかりに作業に戻ってしまった。他の仲間もまた、こちらを見遣って穏やかな笑顔を浮かべるだけで、彼女の相手を引き受けようとする者はいない。彼らの気遣いやその裏の思惑はなんとなく透けて見えるが、左慈からすれば決して喜ばしいものではなく、むしろ居心地の悪さが増してゆく。
「ほら、こんな感じかしら。……ね、左慈さん?」
「あ、うん。まあ……」
左慈は娘の視線を躱して言い淀んだ。どうしたものかと考えていると、
「……ふふ。あたしって結構筋がいいのかも」
娘の目が少しだけ寂しそうに伏せられ、左慈は自分が大人気ないことをしていると気づく。さっと血の気が引き、胸の奥に虫が這い回るような申し訳なさを感じた。
「……そこは、右の縄を左の縄に重ねるように」
「——ねえ、こうかしら!」
「う、うん。うまいよ」
「うふ。結構楽しいわね」
実千が眩しいほどに破顔して、ひとまず胸を撫で下ろす左慈であった。仕事を教えるくらいなら、話題を探す必要がない分息苦しさを感じなくて済む——と、思うことにする。
「もう少し力を入れて撚ってもいいよ」
「ん、こう——いった」
実千は、ぐっと力をこめて引っ張った途端、顔をしかめて縄から手を離した。ぱっと開かれた小さな掌は、荒縄で擦れて赤くなっていた。
「大丈夫か」
「なんか、右手がチクって」
「草の芯か、木屑か何かが混じってたんだろう」
珍しいことではない。しかし、慣れて手の皮の厚くなった左慈とは違い、娘の掌は薄く柔らかいのだろう。
「すまない、最初に言っておけば」
「気にしないで。特に何も刺さってないし……」
「小さくて見つけにくいんだ。押すと痛むところがあるんじゃないか」
左慈が言うと、実千は試すように右の掌をもう片方の手で押して、やがて「ほんと、この辺が痛いわ」と中指の付け根あたりを指した。
「でも、やっぱり何もないし。洗ったら落ちるわよ」
「直ぐ取らないと、深く刺さっちまうよ。見せてごらん」
「えっ、左慈さん……」
左慈は、徐に実千の右手を手にとって、彼女が痛いといった場所をよく見た。手が赤くなっていて判りづらいが、刺のようなものが丸くて瑞々しい掌に刺さっている。片手でぐっと押し出すようにしながら、もう片方の手の爪の先で取り払おうと試みる。弟の慈郎がよく無用心に何かを触ってきては、痛いどうにかしろと左慈にせがむことが多かったため、こうしたことには慣れていた。
「……っ」
強く爪を立てると、実千が小さく呻いた。彼女の指先がきゅっと縮こまって丸まり、小さく震える。
「ごめん、痛いだろうけどもう少し我慢してくれ」
左慈は自分の膝の上で、実千の掌に刺さったものを押し出してはつまんでみることを何度か続けた。するとやがて、枯れ草の芯とも木屑とも言えない刺がぽろりと出てきた。無意識に、弟にしてやったように、安心させるつもりで彼女の怪我を指の腹で撫でる。
「ほら、取れたよ。一応真水で洗って……おい、どうした」
左慈が顔を上げると、目の前の実千は目を赤く潤ませて彼女自身の掌を見て俯いていた。日に焼けた薄茶の髪の隙間から覗く耳の淵が、熱を持って赤くなっている。左慈がそのような細かな変化に気づけるはずもなく、実千から手を離すともう一度声をかけた。
「……大丈夫か?」
「あ……うん! ありがとう、左慈さん」
「具合が悪そうだが……もう帰った方が」
事実、怪我はさせたくないし、とはいえ何もせずにここにいるのは手持ち無沙汰だろう。そう思って促すと、実千は一瞬眉尻を下げて残念そうにしたが、直ぐににこっと笑った。
「そうね! これ以上お仕事のお邪魔しちゃ悪いし。——一路さん! アタシ、ちょっと潮見を見て回ってるわね」
「あいよー」
「左慈さん」
実千はその場を去ると思いきや、小声で左慈に囁いた。
「夕方に、少しお話してもいい?」
「えっ————どうして」
実千は左慈の問いには返さず、ちらと自分の背後、浜辺の終わりの崖の方を見た。
「影海神社でアタシ待ってるわ」
「ちょ……」
戸惑う左慈に微笑みを投げかけると、娘は軽い足取りでその場を去っていった。
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