十二、含意
先ほどの実千の話を無視するわけにもいかず、左慈は作業がひと段落すると影海神社へ向かった。
巳浦へと続く
陽が傾きはじめたとはいえ、木々に囲まれた境内は外界よりも一際暗く、湿った冷気が漂っている。左慈は少しためらって、久方ぶりに境内に足を踏み入れた。実千の姿を探して社殿の周囲をうろうろしていると、ぎい、と戸の軋むような音がして振り返る。
「————あっ……と」
実千かと思っていたので、左慈は言葉に詰まった。黄ばんだ白い長着に褪せた朱袴の老婆が、両手を腰に遣ってこちらを見ていた。影海神社の世話人、巳浦の巫女婆と呼ばれる女だ。
じい、と濁った眼に見つめられた左慈は、自分がここにいることをどう言い訳しようか、そもそも言い訳する必要があるのかとまごついて何も言えないでいた。巫女婆は、冷めた表情でふん、と鼻を鳴らす。
「逢引かあ」
「っ……う」
咄嗟にちがう、と言いかけて、そうとも言い切れずに口籠る。巫女婆は口をへの字に曲げ、些か面倒臭そうに社殿へと足を向けた。
「怒ってんじゃあねえよ」
老婆が己の体を引きずるように歩くたび、腰の後ろの手に握られた鍵束が、しゃらんと鳴った。彼女は社殿の引き戸に錠をかけると、ちら、と首だけでこちらを振り返り不機嫌な目を向けてきた。
「おめ、飢えた顔してっから。立てなくなるまで入れ込みすぎんじゃねえぞ」
「————なっ、ちが、勝手なこと言うな」
間を空けて、下世話なことを言われていると理解し、左慈はむっと老婆を睨めつけて言い返した。それを歯牙にもかけず、老婆は「だあら、怒ってんじゃあねえって言ってんべ?」とぶつぶつ言いながら戻ってきた。彼女は左慈の横を通り過ぎる間際、こちらの頭から爪先まで視線を走らせ、ますます機嫌悪そうに口を歪める。
「おめは、兄貴より親父の血が濃いな。海に落ちねえよう気ぃつけろよ」
急に父の話題を出されて左慈が困惑しているうちに、老婆は境内を出てしまった。
「あら、おばあちゃん!」
何故父のことをと考える間もなく、老婆が去ってすぐに鎮守の杜の外から元気な声が届いた。
「なんだあ、おめえかい」
先ほどとは一転して機嫌を持ち直したような、老婆の一段高い声も聞こえた。
「なあにそれ。来ちゃまずかった?」
「いんやあ、まずかねえ。お社にゃ鍵かけたからよ。壊して入んじゃねえて、おめの男に言っとけ」
「そんな乱暴なことする人じゃないわよ」
男云々は否定せずに、娘は笑って老婆に別れを告げた。そして鳥居を背にして現れた彼女は、参道に一人たたずむ左慈を認めてぱっと顔を輝かせた。
「左慈さん! 来てくれたのね!」
来ないわけにはいかなかったんだ。という捻くれた気持ちと、素直に喜んでいる実千の憎めなさとの間で板挟みになる。左慈は枝葉を抜けて参道に落ちる、赤く斑な斜陽に視線を外した。それでも、実千は声を明るく弾ませたまま言った。
「さっきはありがとう、急に手を握られて少し驚いたけれど」
「それはすまな——」
「ううん。驚いたけれど嬉しかったの。だから謝ったりしないで、ね?」
一歩、実千が左慈に近寄った。改めて見ると、首をいっぱい傾けてこちらを見上げる実千は、結構小柄だ。鼻の頭のそばかすやつり目がちに跳ね上がった睫毛は、どことなく三毛猫を連想させる。
実千は左慈の顔を見上げたまま、目の奥を覗きこむようにしていた。左慈はそれに困惑しつつも、娘一人の目力に押し負けるのは流石に男として踏み止まった。
「左慈さんの目」
「な、何」
たじろいでいるのを悟られないよう短く返すと、実千はふっと穏やかに目を細めた。
「前に会った時は、隈がもっと深かった気がする」
「実は俺は」
「眠れないんでしょう。一路さんが心配してたわ」
「あいつは口が軽いな」
彼のことなので、他意はなく只心配してぼやいていたのだろうと分かった。幼なじみが、年の離れたあどけない娘に左慈の不眠を相談している様子が易く想像できてしまい、左慈は思わず隈のできた目元に触れながら笑みを溢した。
すると実千はふいと目を伏せて、半歩だけ後ろに下がった。
「ねえ、アタシも左慈さんが心配よ」
それからまた、上目遣いでこちらを見上げて口を尖らせた。左慈は敢えて視線を合わせずに、「そりゃあどうも」と自分の足元を見た。
「けど今は、少しずつ眠れるようになってきたんだ」
「本当に? ひどい隈は残っているじゃない」
実千の目が、何もかもを明かすように左慈を捉えている。ウシオとの密かな逢瀬がまるで過ちに思えてくるのは、この娘の真っ直ぐな瞳が左慈に向ける、これもまた真っ直ぐで眩しい気持ちを感じ取ってしまったからだ。左慈は裁かれているような心持ちになり、無意識に唾を飲んだ。
「浜辺を散歩していると、少しだけ眠れるようになったんだ」
「ふうん……。夜になると、安心できないの?」
「そんなことは」
とは言うものの、左慈の胸はぎくりと大きく跳ねた。海風が参道に侵入し、柊木犀の白い小花を散らす。そのささやかな花吹雪に目を細めながら、実千は続けた。
「アタシもたまーに、そういうことがあるから分かるわ。やなことあったり、わけも解んないのに不安になっちゃって、どうしてこんなに辛いのかしらってウンウン考えちゃって、眠たくたって眠れない日」
「…………」
「あは、左慈さん今、意外だなって思ったでしょう?」
「や、あの」
「いいのいいの。アタシはそういう時、おかあや村の仲良しに話すとね、不安な気持ちはどっかいっちゃうから。でも左慈さんは、そういうことしなさそう」
実千の鋭い勘に感心しつつも、たった二度顔を合わせたの娘に見透かされている自分が情けなくなって、左慈は言葉が出てこなかった。
「だから左慈さんにはきっと……そばにいて、安らげるひとが必要なんじゃないかしら」
その一言で左慈の脳裏に思い浮かぶのは、月光を照り返す鮮烈な双眸。
「……そうかも、しれないな」
「でしょ。そんでね……左慈さんはさあ、そういう好い人、いるのかしら」
「いい、って……」
おもむろに問いを投げられ狼狽し、左慈はそのまま聞き返した。実千は目を伏せ、不満げに口を尖らせた。
「やだわ、独り身なのってことよ」
「…………残念なことにね」
すると実千は顔を上げ、あからさまにほっと肩から力を抜いて口元を綻ばせた。
「ふふふ、じゃアタシって、運がいいのね」
いくら人と関わることが苦手とはいえ、その言葉や表情の意味が分からないほど、左慈は幼くなかった。目を逸らしつつどう返そうかと考えあぐねていると、弱く人差し指を掴まれた。拍動は早まり背筋に汗まで滲むが、頭からは血の気が引いていく気がした。しかし拒絶するのも気が引けて、左慈はただ、ぎしりと身を固まらせた。
「アタシのこと、左慈さんに知ってもらいたいの。だめ?」
「だめ、なことは……」
「左慈さん、今困っているでしょう」
「そんな……」
図星である。実千は「ごめんなさい」と謝りつつも、真っ直ぐに左慈を見て微笑んだ。
「でも、少しずつでいいから。だからまた、アタシと会ってね」
左慈が何かを言う前に、実千は一路の家に戻ると告げて、潮見の方へと戻ってしまった。
取り残された左慈の耳に、遠いはずの波の音が微かに聞こえた気がした。今更、実千の問いにはっきり答えられなかったことを後悔して、左慈は額に手を当てた。
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