海罪ノ木深版

ニル

【新月】

一、夜凪

 夜の海は、あらゆる境をぼかしてゆく。

 ふいに近寄ってはまた遠ざかる波の音。大きく唸ってはぴたりと止む気まぐれな風。天と海原。仇波と砂礫。此岸と彼岸。夢と現。すべて闇に呑まれ混ざり合う。


 真夜九つを過ぎる頃。

 左慈さじ潮見しおみの集落と海岸とを隔てる松の木立を抜け、深く息をした。夏の潮風は生温く肌にまとわりつくが、夜露に湿った砂や小石の感触は裸足に心地よい。春先までは、地面が氷のように冷たくて足が悴んでしまうため、草履が地面を擦る音に注意を払わなければ人知れず散歩なんてできやしなかった。それを気にしなくて済むので、左慈は夏の夜が嫌いではない。


 長い年月をかけて角の削れた小石たちの上を、左慈はゆったり歩く。凪いだ黒い海原は月光をわずかに反射している。ざばん、と波の砕ける音に顔を向ければ、波打ち際に置き去りにされた舟の船首へ潮がぶつかり、真珠の飛び散るように波が白く飛び散っていた。左慈は少し迷って、それから仕方なげに肩を落とすと、その舟を波の届かぬところまで引き揚げた。その船体を引きずり周りの船の並びに加えてやると、左慈は汗ばんだ胸や額を寝巻きで拭い、ふいに海へと目を遣った。

 沿岸には、真中にぽっかりと穴の開いた黒い岩、〈影海岩かげみいわ〉が佇んでいる。月を背にした堂々たる黒い御神体は、夜な夜な浜を徘徊するばかりで漁に身の入らない左慈を咎めているような気がした。誰にともなく居た堪れない気持ちになって、左慈は影海岩から目を逸らした。舟から離れ、自分の所属する網組の浜小屋から藁筵を拝借した左慈は、小屋のすぐそばの松の根元に敷いた。その上に腰を下ろしてほうっと息をつくと、薄暗い月光を浴びながら細波に耳をそばだて瞼を閉じる。


 ようよう意識がぼんやりしてきたが、眠りに落ちるにはもう少し時間がかかりそうだ。明日もまた、疲労感と半端な眠気を引きずりながら海に出ることになると予感して、左慈は目をとじたまま長く重たいため息をついた。せめて形だけでも寝たようにしてみようと体の力を抜く。どうせ、そのうち転た寝くらいはできるだろう。そうして、いつも月が低くなる頃に家に戻るのだ。それまでのひと時の安息を貪ろうと、左慈は重くなってきた頭を松に凭せた。


 夜の海がすべてを暈し、呑み込み、抱擁する。

 疲れを背負う己の身体すら、寄せては返す潮騒に揺さぶられて心地良く泡沫に消えてしまえる気がした。

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