二、潮見

 潮見は、集落に生きる百姓たちの多くが漁業を生業とする浜方集落だ。小さな集落に網組は五つ。うち一つの網元は、父平介の後を継いだ三つ上の兄だ。だが左慈は兄ではなく、別の網元の下についている。


 空はまだ暗く、水平線の際ばかりが緋に燃える黎明の時頃、潮見の漁夫たちは浜に降りる。男たちは、尻端折りの小袖を片肌脱ぎにしていたり、いっそ両肩を抜いて腰帯で留めたりして、日頃の炎天に焼けて赤らんだ肌を早朝の冴えた外気に晒した。力自慢の若者の中には、褌一丁で率先して波を掻き分け、舟の入水を助ける者もいた。周りがてきぱきと漁の支度に取り掛かる中、左慈は欠伸を噛み殺して、他の網子とともに垣網を担いで自分たちの舟に向かった。

 そして今日もまた、左慈はぐっすり休んだ村の漁夫たちとともに舟を出し、波の音に引けを取らず声を張る船頭の指示を耳に動く。日が真上に登り、海面が日差しをぎらぎら照り返す時間に、漁夫たちは一度浜に上がって休憩を取る。


 浜に戻っても、左慈の頭は霞がかったように冴えなかった。真昼の日差しは、寝不足のまなこには眩しすぎるのだ。燦々とした輝きにくらくらしながら、左慈は漁網の手入れをする前に軽く昼食を取った。

「今日はまた、一段と曇った顔をしているな」

 日差しを背にして、握り飯を片手に声をかけてきたのは一路いちろであった。二つ上の幼なじみは、松の木のように浅黒い肌の隙間から白い歯をきらりと見せて笑うと、左慈の隣に座った。

「昨日も眠れなかったんだ。海に出ていた時の記憶が曖昧だ」

 咀嚼しながら呟くと、それを聞いた一路は笑顔を引っ込めた。

「この前、あんまり眠そうに覇気がないんで、お前んとこの網元にどやされてたろ。若者組の集会だって、ここ三月顔出さねえし。まだ寝不足が続いているのか」

 左慈は力なく微笑を返した。根っから朗らかであけすけだが、口下手な左慈を揶揄することなく接してくれるこの男は、潮見の中でさえ人付き合いが苦手な左慈にとって、肩の力を抜いて話せるほとんど唯一と言って良い相手だ。


「大丈夫だよ。……影海岩のそばを横切る時、危うく居眠りしてしまうところだったけど」

「……親友がぼけっとして海に落ちるなんて間抜け、俺は見たくないぞ」

「俺だって、そんな間抜けはしたくないよ」

 ため息混じりに軽口を返すと、一路が「そうだ」とこちらを指差した。

「次の〈清潮祭しんちょうさい〉で、祈願してみたらどうだい。よく眠れますようにと」

 その言葉に、左慈はきょとんとして、それからふっと小さく鼻を鳴らした。ちらと海岸の端、高い崖のうえに小さく見える、影海神社の鳥居に目を遣った。


 清潮祭。左慈たちの暮らす潮見の他、近接する沖江おきえ巳浦みほ波間はまの四集落が長月の十五夜に共同で執り行う、影海岩にまつわる古い祭りだ。

「豊漁祈願の祭りだろう。俺の寝不足なんて、〈影海様かげみさま〉にゃどうだっていいに決まっている」

 左慈が呆れた顔をしても、一路は握り飯を咀嚼しながら快活に笑うばかりだ。

「こういうのは心の持ちようなんだよ、左慈」

「そうか?」

「例えば、お前が寝不足で海に落ちておっ死んで、近海が穢れるとする。それはきっと、影海様も望んじゃいない」

 ほら、祈願の甲斐も出てきただろう。一路の眼差しが左慈に訴えている。


 左慈は手に持った握り飯をちびちび噛みながら、「そうかもな」と気の無い返事をした。一路は嘆息して握り飯を頬張ると、左慈の背をぱしっと叩いて「先に行くぞ」と言葉を残し、漁獲の仕分けをしている衆に合流して行った。

 左慈は影海岩をぼんやり眺め、まだ半分も残っている粟ばかりの握り飯を口に運ぶ。眠れなかった翌日は、腹が減っていても食事が喉を通らないことが苦しい。一路の言っていたことを間に受けるわけではないが、今度の祭りでは、寝不足をなんとかしてもらうよりは、いっそ海に落ちたら魚にでも生まれ変わりたいと願ってしまおうか。

 詮無いことに思い巡らしている己を自覚し、左慈は口元に己への自嘲を刻んだ。



〜●〜

 一日の漁を終えると、左慈は一路と別れて家に戻った。父が遺した鉤形の民家が、左慈の生まれ育った家だ。沖江や波間の地主や庄屋ほどではないが、祖父の代から網元ということもあり、潮見の家の中ではは大きい方であるといえよう。

 表は開けっぱなしで、母のまづと兄嫁の花乃はなのが夕飯の支度をしていた。決して広いとは言えない土間で入れ替わり立ち替わり、時折言葉を交わしながらせっせと夕餉の支度をしている。彼女たちは、左慈が帰宅したことに少しの間気がつかなかった。


「あ、左慈兄のが早く帰ってきてる」

 夕飯の支度が整うまでその辺を出歩いていようかと踵を返しかけたところで、背後から弟の慈郎じろうが現れた。そこでまづと花乃も左慈の帰宅に気づいた。

「あら、二人ともおかえり。疲れてんだろ、夕飯まで休んでな」

「うん。左慈兄、早く入ってよ。俺家に入れないじゃん」

「あ、ああ、いや、俺は外に……悪いな、どくよ」

 左慈がもたつきながら体をよけると、慈郎は去り際に礼を口にしながらさっさと居間に上がっていった。


左介さすけさんは、まだ帰っていないのよ。慈郎は何か聞いていないかしら」

 花乃は少し邪魔そうに左慈の体を避けつつ、板間に上がった慈郎へ呼び掛けた。慈郎は今年の春から、兄の左介の元で漁に出るようになったのだ。弟はちらと花乃を見遣って、すぐに囲炉裏でぐつぐつ煮え始めている鍋に注意を逸らしながら答えた。

「左介兄、今日は昼から和さんと一緒に庄屋に呼ばれてったよ」

 和さん、というのは一路の父親和一かずひとのことである。左慈たちの父と同世代の網元で、和一と父は庄屋とも親しい間柄であったらしい。と、左慈は父や和一の会話の断片からそう認識していた。


「そうだったのね」

「ありゃ、あの子は何かしでかしたのかい」

 まづがにわかに眉を顰めた。慈郎は首を横に振った。

「ほら、前も言ったじゃない。左介兄、おとうの後に網元になってからさ、庄屋からおとうの代わりみたいに気に入られてんだ」

 慈郎の言に、まづは肩をすくめつつ口元を緩ませた。花乃もまた、さも困ったように嘆息するが、どこか嬉しそうに声を高くした。

「夕飯できてしまうけど、遅くなるのかしらん」

「あの子のことだ、あんまり遅くなるなら、行く前に声をかけていくはずだよ。じき戻るさね」

 外に出ようとしていた左慈は、その機会を全く逸してしまっていた。会話を耳に敷居を跨いだまま、どこを見るでもなく立ち止まっていたが、やがて誰にも気づかれないように嘆息し、囲炉裏の前に腰を下ろす。


 しばらく家族の会話にひたすら耳を傾けたり、時折左慈に投げられる問いに、ああとか、そうだったよとか、何も答えていないのとさほど変わらない相槌を打った。そうして時間を埋めていると、やがて外から男たちの荒々しい談笑が聞こえてきた。この、粗野ながらも底抜けに明るい海の男たちの声を聞くと、何故だか肩に力が入ってしまう左慈であった。

 家の前で別れの挨拶がいくらか交わされ、開けっ放しの戸口から兄、左介が入ってきた。

「ただいま」

「おかえり左介」

「ご飯、もうすぐできますよ」

「おう、そりゃ丁度いい」

 まづと花乃が手を止め話しかけると、左介は二人に少し笑いかけ、それからさっさと部屋に上がってしまった。左慈は左介が座りやすいよう、座っていた場所から何も言わずに腰をずらす。


 女二人が、いそいそと飯の支度を終え、いつものように囲炉裏を囲む。左慈が黙々とあら汁をすすっていると、慈郎が口に飯を詰めたまま「左介兄」と呼んだ。

「土産もらってないの?」

「あほか、遊んで来たわけじゃねえんだぞ。次の清潮祭の〈大縄担ぎ〉は、潮見の持ち回りだろう。俺が大縄担ぎをすることになったんで、その引き継ぎやら準備やらについて話を聞いてきたんだ」

「じゃあ、前の持ち回りからもう三年経ったのか」

 左慈がぽつりと問いかけると、左介は穏やかに首肯した。

 清潮祭は、影海岩の見えるこの潮見村で催されるが、使われる大縄などの道具は庄屋の土蔵に保管してある。そして、祭りの花形ともいえる大縄担ぎや共に大船に乗る男たちは、今年は潮見から出す番であるようだ。とはいえ、毎年遠目に見物するばかりの左慈には、祭りの持ち回りなどあまり関係がないことであった。


奈緒なお姉、今年は清潮祭来るかな」

 ふと、慈郎が伏し目がちにぼそりと呟いた。まづがあら汁を啜ってほうっとため息をつき、

「そうねえ、帰ってきて欲しいけれど、向こうの家の都合もあるしねえ」

 父を亡くして以降、弟は十五という年に似合わず親離れ、きょうだい離れできないところがあった。ただし、それを指摘したところでそんなんじゃないと意地を張られるだけなので、左慈は黙っておく。

「左介さん、左慈さん、おかわりは?」

「頼むよ」

「あ、俺も……」

 弟と母の会話には入らず、花乃に椀を渡そうとすると、

「左慈、あんたもそろそろ考えなきゃね」

「………」

 まづの小言に無言を返して、左慈は碗に口をつけた。


「潮見の娘じゃなくてもさ、一路からでも紹介してもらえないかねえ。あいつは波間から嫁もらったじゃないか。良い伝手があるんじゃないかい」

「やめてくれよ、余計なことは」

 思わず、僅かに眉間に皺を寄せてまづを睨め付けると、慈郎が可笑しそうに声を弾ませた。

「左慈兄、若い女嫌いだもんな」

「苦手なだけだ」

 咄嗟に慈郎に返して、左慈ははっとして花乃の方をうかがい「ごめん」と小さく謝った。花乃は「大丈夫よ」となんでもないことのようにくすりと笑った。左慈はほっとする反面、もう少し気にしてくれてもいいのにと複雑な気持ちになる。

「左慈だって分かってるんだから、いちいち言ってやるな。なあ、左慈」

 左介が呆れたようにまづを諫めつつも、その目は左慈に向けた。左慈は一言、「ああ」とため息とも相槌ともつかない声を溢した。左介はそれを首肯と受け取った様子で話し続けた。


「所帯持つよりもまず、俺は最近のお前がちと心配だぞ。もう随分長い間、碌にぐっすり眠れていないんじゃないのか」

「ずっと起きてるわけじゃあないんだ。あんまり疲れた日は眠れることもある」

 正しくは、眠りにつけないあまり体が限界に達し、ぶつっと意識が切れる日がある、という程度であった。大ごとにされたくなくて、左慈はそのことは黙っておくこととした。隣の左介がじっとこちらをを見つめていたが、やがて諦めたようにまた食事に戻った。

「ぶったおれちまえば、嫁だ家だと悩むことすらできねえ。てめえの身体なんだから、気をつけとけよ」

「ああ、分かってるよ」

 悩まなくて済むならと、そう思ったことも、左慈は黙っておくことにした。

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