三、不眠

 夜更けに目が醒めるようになったのは、今から一年ほど前。隣集落の巳浦へ妹の奈緒が嫁いだ少し後に、父が海で発作を起こしてこの世を去った頃。いくら目を閉じてじっとしていても、落ち着かなくて眠れなくなったのは、年の瀬の近い頃——花乃が左介の嫁に来て間も無くであった。

 ひどく疲れが溜まっているので、今日こそは眠れると思っていた。しかし、夕餉時にまづから投げられた一言や、左介のこちらを擁護しながらも諭すような口調、慈郎の揶揄する視線、花乃の憐みと呆れを滲ませた優しい笑み。それらが左慈の頭の中を蝿のように鬱陶しくちらつき、眠りを妨げるのだ。


「……左慈、お前また」

「少し歩けば、眠くなるから」

 隣で寝ていたまづが心配そうに目を覚ましたが、左慈は何か言い返される前に部屋を出た。裸足のまま外に出てそっと戸を閉めると、はやる心持ちで浜辺へと向かう。

 松の木々の影を抜けると、潮騒が左慈を出迎えた。耳に慣れたそれは、左慈の足音、虫の声すらかき消して、昼間の喧騒や頭の中の蝿を追い払ってくれるのであった。

 左慈はいつものように松の下に筵を敷いて腰をおろす。深く息を吸い込んで、塩辛い夜風に目を細め、どこまでも続く黒い海を遠見した。天の黒肌に切り傷のように泛ぶ細い月。その膝下に影海岩がじっと鎮座している。真ん中にぽっかりと開いた穴からは、星屑で淡く光る空と星月を反射する波が明滅して、昼間に見るのとはまた違った姿を見せた。


「……うん?」

 左慈は自分が寝ぼけてきたのかと思った。が。目を凝らしてみるとやはり、間違いなく「それ」がいた。

 この村で生まれ育った左慈は、目を閉じていても影海岩の様相をはっきりと思い出せるほどよく知っていた。その穴の輪郭が、見たこともない形に歪んでいたのだ。というよりは、むしろ、穴の中に何かが佇んでいる影が見える。

 左慈は眉を顰めた。よくよく目を凝らせば、その影は時折身動ぎをするように蠢いた。正体を推し量ろうと注視を続けていると、影の形が僅かに変わる。まるで人が、振り向いたように見えた。左慈はぎょっと目を見張って息を呑んだ。


 こちらを見られた、と直感する。


 跳ねるように立ち上がり、左慈は脇目も降らず、小石だらけの海岸を裸足で駆け出した。すっかり目が覚めてしまったことも構わず家まで戻る。戸の前まで辿り着くと、軽く乱れた息を整えつつ浜辺に続く通りを振り返った。

 気のせいであったのだろうか。そうでなければ、疲労と眠気の見せた幻夢か。左慈は己の頬をつるりと撫でて首を捻った。ゆめまぼろしにしては、あの影はやけにくっきりとした輪郭をしていた。もしや自分と同じように、眠れない誰かが影海岩まで舟を出していたのだろうか。そこまで考え、左慈は自分の突飛な想像に呆れて片笑む。忘れかけていた疲労が戻ってきて、猫背をさらに丸め家に入った。

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