十八、兄弟
「お前、調子が良くなってきたな」
夕飯時にも、左介から一路とほとんど同じことを言われた。そんなに分かりやすく変わったのだろうかと、左慈は気恥ずかしさを通り越して座りが悪くなってくる。
「いっときと比べて、マシになっただけだよ」
左慈は碗に盛られた粟飯を飲み込むと、低く呟いた。するとまづがしげしげと顔を観察しだしたので、左慈は「なんだよ」と顰蹙して母の無遠慮な視線から顔を逸らした。
「確かにねえ。眠そうなのは相変わらずだけど」
「だろ? なんかこう、顔色が良くなったよな」
「何か良いことでもあったんじゃないのかい」
まづの嬉しそうな問いかけにぱっと言葉が出てこず、左慈は口に含んだ味噌汁が喉につっかえて咽せた。
「あらら、大丈夫かしら」
「だ、大丈夫」
背を摩ろうとする花乃の手を断りながら、左慈は水を一口飲んだ。まづの怪訝な視線が痛い。
「特に何も……。少しずつ眠れるようになったから、そう見えるだけさ」
「そうかねえ」
「ま、なんにしても良いことだ。時化が明けたら死に物狂いで稼がにゃあならんし」
「でも、もしこのまま漁が奮わなければ、今年の〈こもり〉は厳しくなりそうね」
花乃が心配そうに呟く。すると今まで黙っていた慈郎が、「あれ俺嫌い」とこぼした。
「暇つぶしに磯釣りもだめなの」
「なあに言ってんだこの子は。当たり前さね。こもりの間、殺生は御法度だよ」
まづに一蹴されて、慈郎は拗ねた顔で味噌汁を音を立てて啜った。左慈はすっかり、この〈こもり〉のことを忘れていた。
こもり。清潮祭の前儀式のような風習だ。影海岩を祀る四集落〈波間〉、〈巳浦〉、〈沖江〉、そして〈潮見〉の人々は、影海様のみあれに備え、祭の前の三日三晩殺生せずに魂を清める——すなわち漁せず、肉や魚を口にしないこととなっていた。集落の祭事にさほど関心を持ってこなかった左慈であるが、漁に出ず、普段は手伝うことの少ない畑仕事に手をつけたりなどして、どことなくのんびりとした時間を過ごせるこの風習のことは嫌いではなかった。
「おかあの言う通り、今年のこもりは特に大人しくしきたりに従うしかねえだろうよ」
話半分でまづの注意を聞き流している様子の慈郎を、左介が難しい顔をして咎めた。
「巳浦の巫女婆、いただろう。あれが凶兆を判じたとかで、庄屋や集落の年寄りがびくびくしてんだ」
占いについては半信半疑だが、しきたりに背けば庄屋や他集落の有力者からも白い目で見られる。余計な揉め事を増やしたくない、というのが左介の話であった。
「うちは親父が死んで、庄屋や他の網元にも良くしてもらってるからやっていけてんだ。隠れて釣りなんて行くんじゃねえぞ」
「分かった、分かったよったら。左介兄こそ、大縄担ぎなんだから緊張感持てよな」
「はっ、どの口が……」
兄弟の軽口を耳に、己には関係ないことと無言を決め込む左慈である。すると左介は唐突に、「祭といやあ」と声の調子を少し高くした。
「左慈、お前大船の舟漕ぎやんねえか」
「急になんだ」
飯をたいらげた左介は、一息ついたように立て膝をついてそんなことを曰う。
「急なんかじゃないさ。ちょっと前なら、顔色は悪いわ、海に出ても胡乱な調子で危なっかしいわで、頼むのはよそうって和さんと話してたけどよ。ここ最近のお前なら、たぶん大丈夫なんじゃねえかって」
「そんなの、一言だって聞いてないぞ……」
「あん? そうだったか」
左介はさも前々から考えていたように話すが、左慈には寝耳に水であった。しかも、大舟——祭事の大役である大縄担ぎを乗せた舟の漕ぎ手である。左慈は無意識に身を引いて肩を縮こまらせた。
祭りの当日は、集落ごとの囃舟と、大縄担ぎを乗せた大舟が中心となって祭を執り行う。確か一路は、潮見の囃舟に乗ると言っていたはずであった。それすらも、よく請負ったなと感心こそすれ羨ましい気持ちなど微塵もなかったのに、ましてや飾り立てられた大舟の舟漕ぎなんて目立つこと、左慈の性に合わないにもほどがあった。
「まあいいじゃねえか。兄弟で祭りを盛り上げようぜ」
少し浮き足だった物言いから、左介が今年の大縄担ぎに選ばれたことを少なからず誇らしく思っていることが分かる。そして、その嬉しさを左慈と分かち合いたいと思ってくれているのだろうということにも、左慈はなんとなく感づいた。
「俺はいいよ」
しかし、左介の意を汲むよりも、衆目を集めることへのためらいの方が勝る。左慈はみそっかすの溜まったぬるい汁を飲み干すと、手持ち無沙汰になって指を組んだ。
「俺が出たって、村のみんなは拍子抜けしちまうさ」
まづと花乃が片付けをしようと土間に降りたところで、左慈はぼそりとぼやいた。
「んなこたねえよ。和さんや庄屋の旦那だって、お前を見る目が変わるに違いない。お前だって親父のせがれで、俺の兄弟なんだから」
「それでも、俺は左介や親父とは違うよ……」
左介や父親と同じになれない不甲斐なさの中に、同じじゃなくて悪かったな、という卑屈な気持ちが一滴混ざるが、左慈は自覚なくただ悶々とした。兄はというと、弟のこうした内気な態度には慣れ切っており、さほど気にする様子はない。
「それにだ」
「もういいって……」
いい加減にうんざりしてきた左慈を差し置いて、左介はにやりと意味深に口の端を上げた。
「ほら、さ。良い格好を見せてやれよ」
「誰にだよ……」
左慈が呆れて、茶化すような口調の左介を適当にあしらおうとすると、
「左慈兄はそういうの嫌いだろ」
今までずっと黙っていた慈郎が口を挟んだ。また生意気な茶々を入れようとしているのかと、左慈は慈郎にしらけた視線を向ける。しかし、弟の表情はいつものように左慈に揶揄を入れる時のものではなく、それどころか、浮かない表情で空になった茶碗を見下ろし、口を尖らせていた。左慈はその理由が分からず呆気にとられた。
「どうした慈郎、お前が代わりにやりたいってか」
左介もまた、どうやら慈郎の虫の居所が悪いということに気付いたらしい。彼は左慈と同じくきょとんと目を丸くした。慈郎はというと、「違うよ」とぶっきらぼうに言い捨てた。
「左慈兄が嫌いなら、やらなくたっていいんじゃないって話」
「何だ何だ、やけに突っかかるじゃねえか」
「別に……突っかかってないや。嫌々舟漕いでるの見てたって、俺は楽しくないもん」
「いや、その、嫌っていうか苦手なんだよ、そういう目立つのは……」
弟の機嫌の悪さに困惑して、左慈は口籠もりながら付け加えた。慈郎は何故だか疑わしげな目で「ふうん」とだけ相槌を打った。かと思えば、すっくと立ち上がってまづや花乃の間をすりぬけて表に出る。
「慈郎、どこ行くんだい」
まづに呼び止められて、慈郎は立ち止まった。しかし振り返りもせずに、
「ちょっと遊んでくるだけ」
と、そっけない返事をして、日没の薄暗闇へと駆けて行ってしまった。
「左慈、俺あいつに何かまずいこと言ってないよな」
「まあ……慈郎には、何も」
弟の去った戸口の外を茫然と眺め、左慈と左介は揃って首を捻った。
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