【朧月】
十七、勘繰
嵐が過ぎ去り三夜明けてなお、潮見の近海は鈍色に濁り、波の機嫌は悪かった。魚たちは、どこかへ押し流されてしまったのかと思うほど姿が見えない。村の年寄りの言うところによれば、また天が荒れることが重ならなければ、日毎に海の調子も元に戻るはずであるという。しかし、こうまで時化を引きずることはそうない土地であるためか、左慈と同年代の若い漁夫の中には、稼ぎの少なさに焦る者も少なくない。一路もまた、不漁に焦りを覚える一人であり、今は左慈の隣で情けない唸り声混じりのため息をつくばかりであった。
「なあ、左慈よう。親父が言うには、俺たちがガキん頃にも、半月近く不漁が続いたことがあったらしいんだが」
「へえ、それで」
「そん時ゃ、俺たちをどうやって食わしていたんだろうな」
「俺に訊かないでくれないか」
舟を陸に上げつつ、ぼんやりと浜辺の端の岩場を眺めて気の無い返事を返した。すると強引に肩を組まれ、左慈は危うく船首に
「つれねえ返事だ。お前が幽霊みてえに生気がなかった時は、俺ぁ気にかけてやってたじゃねえか」
「幽霊って」
「俺のことも気にかけてやってくれよ」
そう言いながら一路が視線を移した先には、松の間で追いかけっこをしている幼子たちの姿があった。確か、一路の娘はまだ二つにもなっていない。一路が心配なのはきっと彼自身の飢えではないと、左慈はすぐに悟った。
「助けになれることがあれば、なんでもしてやりたいよ。……思いつかなくて悪いが」
すると、一路は左慈を見上げてからっと笑った。彼の顔に笑顔が戻り、左慈は胸を撫で下ろした。
「おいおい、いつからそんなに気の利くことが言えるようになったんだ、色男」
「なんだよ、その言い方」
「とぼけんじゃないやい」
一路の筋張った太い肘が、左慈の肋を少し乱暴にどついた。
「いて、何すんだ」
「今じゃすっかり調子が戻って、どころか男を上げたんじゃねえか、ん?」
「……何の話だよ」
目を合わせると表情でぼろが出てしまう気がして、左慈は舟が波に攫われぬよう杭に結びつけながら敢えて適当に返した。しかし、生まれた時からの付き合いであるこの男には、そんなごまかしは効かなかった。
「こう、なんつうの。猫背と隈さえどうにかすりゃあ、左介や平さんにも負けねえんじゃねえのって」
「猫背も隈も、どうしようもないんだよ」
「いやいや、そうはいってもこう……ちょいと前よりも精気があるってえか……」
慎ましさなど知らないあけすけな男が、珍しく言い淀んだ。かと思えば、うまい言い回しが思いつかなかったのか面倒になったのか、諦めたように手を叩く。
「ええい! つまりだな、お前最近」
「言わなくていい」
どうにも気まずくて、ぴしゃりと一路の次の言葉を遮る左慈。するとこれが良くなかったか、一路が声を弾ませた。
「いいじゃねえか、初心な生息子だったわけじゃあるまい」
「こういう話は苦手なんだ。知ってるくせに茶化すなよ」
たちまち首から上がかっと熱くなり、一路からひたすら顔を逸らす左慈であった。一方の幼なじみはというと、「おっと悪いことをした」と言いながらも揚々とした調子は変わらない。左慈は大仰に嘆息して見せて、歩幅を広くしてその場を離れた。軽い足取りで一路が後から追いついてきた。
「しっかしまあ、これでお前も所帯を持つのかあ」
「それは……」
思いつきすらしなかった末々の彼女との日々が、刹那のうちに左慈の脳裏に思い描かれる。願えば叶うだろうかと、ぼんやり夢想してしまう。
「お、おいおいおい」
何を思ったか、急に焦り始めた一路の呼びかけで左慈は我に返った。
「ちょいと遊んでやっただけ、とか言わねえよな。お前に限って」
「まさか。俺はそんな器用なやつじゃあない」
「ならいいけどよう……。ほんと、勘弁してくれよな。おミッちゃんは俺のかみさんの妹みたいなもんなんだから」
「なっちょ、ちょっと待ってくれ!」
あらぬ誤解を生んでいることに気付いて、左慈はつい声を張った。慌てて辺りを見回す。裾を大きく絡げた中年の女たちが幾人、岩海苔や貝を入れた籠を持って通り過ぎるだけで、こちらを気にする素振りはない。左慈はついでに影海岩と浜辺の端の岩場をうかがうが、人影は見当たらなかった。
一路を手近な松の影に隠して、左慈は顔を顰め少し声を低くして、
「あの娘には何もしてない」
「だってお前、大時化の前の日におミッちゃんと逢引きしてたんじゃ」
「呼ばれて少し話しただけだよ」
「本当かあ? おミッちゃん、あの日やけに機嫌よかったから、俺ぁてっきり……」
意外そうに目を丸くする一路を、左慈は恨めしく思って眉間の皺を深くした。
「俺はそんなに——」
手は早くないと言いかけたところで、その翌日の記憶が頭の中にちらつき、左慈は言葉に詰まった。
「……とにかく一路、それは勘違いなんだ」
言い聞かせるように諭すと、一路は納得いかなさそうに口をへの字に曲げつつも、何度か頷いた。
「ま、お前がそう言うんならそうだろうよ。でも、そしたら相手は誰なんだい。潮見か、それとも他の集落か? まさか、街に出て女を作る機会はなかっただろうに」
「…………」
左慈は頑是ない子供のように口をつぐんだ。一路が仕方なげに嘆息する。
「言えない相手ならなおのこと、おミッちゃんを考えてあげらんねえかな。余計な世話だと思うけどよ」
一路の言葉は真っ当だ。先のことを願ったとて、叶う相手なのかもわからない。
それでも、左慈は一路の言葉に聞く耳を持つことができそうになかった。一路にはわかるまい。そもそも、一路や左介のようにできない左慈には、誰と一緒になったとしても、相手の思いにも周りの期待にも応えられる自信などないのだ。後ろ手にこっそりと拳を作り、卑屈で恨みがましい思いを握り潰す。
「——俺はこれでいいんだ。それに俺は、あの娘が期待するようなことは何も与えられない。一緒になったって、いつか愛想をつかされるよ」
ふと脳裏にちらついたのは、父や兄の眩しくて凛々しい背中、そして誰かの代わりにすらなれなかった記憶の
「なあ左慈、何かあったら言ってくれよ。助けになるぜ」
一路の言葉に応じるでもなく、かといって実千を突き放すわけでもない曖昧な態度の左慈を咎めもせず、一路はそう言って左慈の肩に触れた。
「ああ」
左慈は嘆息混じりに首肯しつつ、一路のおおらかさに安堵する。一方で、彼との間に透明で、破ることの出来ない硬い壁を感じた。今の左慈には、真夜九つの息のしやすいひと時があればいい。それが永く続けばいい。そう思って、左慈は一路に力なく微笑してみせた。
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