十六、空器

 なんもかも、海に預けちまえればいいのに。

 父がそう零した日のことを、時折、記憶にも残らないほどの浅い夢に見る。左介が十五になり、父の網組で漁に出はじめた頃だから、左慈は十二の年。夏盛りの、世間を洗ったように光の澄んだ日のことだ。影海神社の鳥居の足元、膝を抱えて海を睨む左慈を、父——平介が迎えにきたのであった。


 左慈は前の日の朝に、まづの言いつけで波間まで干鰯を売りに行った。勝手についてきた妹の奈緒の相手をして、そして泣きながら奈緒を追いかけてきた挙句疲れ寝た慈郎をおぶって、一刻かけて波間の集落へ辿り着く。起きた慈郎を奈緒に預け、小作人の百姓相手に商売をしていると、ふと弟妹の姿が見えなくなっていた。しばらく探して庄屋の屋敷近くの畦道でようやく見つけた妹は、左慈と同じか、少し年上くらいの図体の大きい肥えた童子と揉めていた。慈郎はというと、虫でも見つけたのか路傍にしゃがみ込んで、烈しさの増してゆく言い合いなど耳に届いていないようにしていた。

 見かけたことのないその童子と奈緒に駆け寄れば、二人同時にやいのやいのと互いの言い分を左慈にまくし立てた。慈郎が童の気に食わないことをして、手をあげられそうになったのに奈緒が割って入った、といったところだ。


 左介がいれば、口車でこの場をうまく宥めるか、妙な親分肌を発揮して有無を言わさずけんかを諫めるかしてくれるはずでる。しかし、兄はこの場にいないし、頼ってばかりもいられない。

 どうすればいいか解らず、左慈はその場で立ち往生をした。すると、こちらが何もしてこないと踏んだのか、童子はにやりとして奈緒のひっつめた髪を乱暴に引っ張った。半身を引きずるように揺さぶられ、ぎゃあっと妹が悲鳴を上げる。左慈が動く前に、振り回された奈緒は乱暴に投げられ慈郎の方へとふらついた。左慈は慌てて奈緒を抱きとめ、慈郎を背に庇いながら振り返る。その頃にはもう、みっしりと脂肪のついた大きな拳が左慈の目前に迫ってきていた。


 左慈は日暮に潮見へと帰り着いた。干鰯を売り尽くして空になった籠と、ぐずって一歩も動かなくなった慈郎を抱え、空いた手で悔し涙を堪え歯を食いしばる妹の手を引いて家に辿り着くと、出迎えたまづが悲鳴混じりに駆け寄る。まづは、遣いに勝手について行った奈緒と慈郎をしこたま叱った。一方で、手足にいくつも痣や擦り傷をつけて唇の切れた皮を触りながら、何でもないと返すばかりの左慈のことは、殊更心配そうに手当てをしてくれた。

「全く、お前ったらどうしてそんな馬鹿なことをしちまったのさ」

 だが翌日、左慈が取っ組み合いをした童子が、庄屋が一時的に預かっている遠縁の子だということを知った母は、不安で顔を白くしながら左慈をそう咎めたのであった。

「……違う」

 俺が先にやったんじゃない。たっぷり間を置いて、ようやくそう言おうとした矢先、まづが「馬鹿っ」と左慈の頭頂を軽く叩いた。

旦那様庄屋ゆかりのある子を殴っちまったんだろう、何が違うんだい。目に痣ができてたんだってよ?」

「けど、あいつ奈緒に手を」

 慈郎だって、怪我をするところだったのだ。


 ぶすくれて小声で言い返すと、まづは開けっ放しの戸の外を見た。奈緒がこちらに背を向けて、慈郎をあやしている。まづが左慈に向き直って大仰に嘆息した。

「何言ってんの、あの子がけがしたわけじゃなし。怪我させたのはお前だろ。旦那様の懐が広くなきゃ、大事にされていたかもしれないんだから」

 そしてふいに、左慈の頬の高いところの擦り剥けに、母の冷たい指が触れた。

「……お前だってこんなに怪我して。いいかい左慈、お前に喧嘩なんて向かないんだから、腹が立っても我慢しなくちゃ。もっと上手くやっておくれ」

 お前のためなんだ。母の心境が身体に痛く染みて、左慈は唇を噛み締めた。言いたいことの色々は、まづの切実な目の色を前にすると、喉の奥に引っ込んでしまう。分かってくれないことが歯痒いが、困らせたいわけではないのだ。言葉が出ないかわりに、悔しさが鼻の奥でつんと詰まって目頭が熱くなって、もういいと叫んでまづの手を振り解き、家を飛び出した。


「えらい目にあったんだってなあ、左慈」

 普段は人の来ない影海神社の鳥居の前で、潮風と波のうねる音を己の心内と重ねていたところに、そう茶化した物言いで平介がやってきた。常より大人しい次男が、らしくなく家を飛び出していった。それでまづが怒ったり心配したりで気の昂っていたところ、平介が偶然に所用で浜から引き上げてきたのだ。混乱する妻を、ひとまず自分が探してくるからと宥めて迎えにきたという。左慈は、一部始終を見ていた奈緒から後にそう聞いた。


 膝に顔を埋め、充血した目で海を睨み続ける左慈の隣に、平介はどかっと座り、

「さっき、奈緒がようやっと色々話してくれたわ。ったく、先に言えっての」

 力強く、乱暴に左慈の頭を掻き撫でた。遠慮のない無骨な掌の感触とその温かさにほっとして、また涙が出そうになる。居た堪れなくて、左慈は父の腕を弱く押し除けた。平介はふと穏やかに息を溢し、炎天にぎらつく銀の水平線を左慈と共に遠見した。

「お前も奈緒も、肝心なことを言い出せないとこは俺と似ちまってさ」

「————おとうは、違うだろ」

 あからさまに、慰めで適当なことを言われている。そう感じた左慈は、膝に顔を半分埋めたまま、恨めしげに平介を横目で見遣った。すると平介は、がははと豪快に声を上げた。

「なんでも知ってるような口聞いてんじゃねえよ。ここまでやって来るのに、俺だって色々苦労したんだぜ。そうでなきゃ網元なんて務まるかよ」

「……そうなの」

「そう見えねえってかこの野郎。この身体も魂も、なんもかも海に預けちまえればいいのにってな。若え時はそう思うこともあったよ。……ま、今はこの通り、頼れる平さん、やってるがな」

 そしてまた、平介は気持ちよく笑った。左慈は、今目の前で快笑する父しか知らない。潮見の男らしく明るく粗野なところもあり、怒ったら恐ろしい。しかし意外と気性は穏やか。皆から好かれる男だ。平介の言わんとすることが解らず、左慈はきょとんとして自分とよく似た顔を見つめた。それに気づいた平介がこちらを見遣り、はにかむようにしてまた海へと目を逸らした。

「まあ、なんだ。お前も、今のままで居ていいってわけじゃあねえぞ。悔しくたって腹が立ったって、全部わかってくれる他人なんていねえんだから。もっと周りと上手くやんねえと生き苦しいだけだ」


 やはり、父も母も同じことを言う。左慈は二人の言葉が両肩にどっと重くのしかかるような心持ちになった。兄、左介はありのまま皆に受け入れられ、周りと上手くやっている。それなのになぜ己は、誰にも、親にすら分かってもらえないことが多いのだろう。このままでは駄目だというのは、自分でもよく分かっている。だが、そもそもこういう性分に生まれ落ちた時から、左慈の歩む先には緩やかで薄暗い下り坂が伸びていたのだとしか思えない。その坂を人生の果てまでゆっくり転がり落ちていくのは、自分でも止められないのではないか。左慈は、そうした卑屈でいじましい考えにくるまって現状をどうにか肯定することで、自分を慰める癖がつきはじめていた。


「でもなあ、左慈」

 暗澹あんたんとした奔流が心を支配する間際、平介の穏やかな呼び掛けが、颯々とした光と海風の中に左慈を呼び戻した。

 平介は優しげで、しかし遣瀬ない、もう手に入らないものを羨ましげに眺めるような目をしていた。その目に左慈を映して微笑し、

「俺は、お前がそのままで生きるってんなら、それを見てえとも思っちまう。お前がお前のまま生きて、誰かを好いて、誰かに好かれてくれたらって————少し期待してんだよ」

 崖にぶつかる波の音へ託すように、父は声を潜めた。

「お前は、お前のままで居ていいところを見つけてみろ、左慈」



〜●〜

「……左慈、辛いの」

 問われて正気に返る。左慈はいつの間にか、ほとぼりに色づくウシオの体に覆いかぶさって、しがみつくようにしてうずくまっていた。

「それは、あんただろう。あの……その、大丈夫か」

 どの口が言うかと、左慈は心内で自分を罵った。一度冷静になって仕舞えば、衝動のまま獣に返り、何もかもを曝け出してしまった気がしてばつが悪くなる。左慈はウシオの顔をまともに直視することができなかった。しかしそれでも、身体を離すことは惜しい。せめてもの詫びのつもりで、掻き抱いていた小さな後ろ頭を撫でた。すると、ウシオはそれを真似てみたのか、左慈の頭をそっと撫でて、汗で陶器のようにひかる頬を摺り寄せた。


「私は、この温みを教えてくれたのが、他の誰でもなく、あなたで良かった」

「…………」

「私を探していたのが、あなたで良かった」

 その言葉に、誰も満たしてはくれなかった空の器に水が注がれ、温かく潤った気がした。目頭が熱く締め付けられる。


 ふっと口の端から洩れた吐息が笑みか嗚咽か、左慈は自分でも判らない。鼻を啜りたいのを堪えたくて、ウシオの胸に顔を押し付けた。女の柔らかな胸は空夜を秘めたように静謐で、やけに広く深く思えた。

「これだけで良い……」

 幽かで恍惚とした囁きとともに、しなやかな四肢が左慈を取り込んで絡みつく。

「俺もだよ」

 他の誰でもない彼女だけが受け入れてくれた。

 それだけでいいと、心底そう思えた。

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