十九、怪訝

 翌日も左慈たち漁夫は海に出たものの、ほとんど漁獲がふるわなかった。日が高く昇る頃には、天候は薄青く晴々としていたにもかかわらず、沖の波はやけに高く海泥に濁り、鏡面のように銀の陽光を強く照り返すほどであった。男たちは一月前までの覇気はどこへやら、皆消沈した面持ちで浜に上がることとなった。

 せめて腹の足しになるものを集めようと、手の空いている男たちは、潮の引いている間に時折邪魔をする荒波の中で貝を漁ったり打ち上げられた海藻を摘んだりしていた。

「昨日、親父から聞いたんだけどよ。どうやら、不漁はうちだけじゃあないらしい」

 左慈が砂塗れの海藻をざるに入れて海水で濯いでいると、一路が隣に並んできた。釣竿を担ぐ彼の肩はがっくり落ちている。


「何か釣れたか」

 返事は一目瞭然であるが、左慈はひとまず尋ねた。一路は、海藻を揉む左慈の手元を見つめながらかぶりを振った。

「いや、潮の流れが妙に大きくてよ、いくら投げてもすぐ岩に引っかかっちまうんだ。しまいにゃこのざまだ」

 ぴょんと動いた釣竿の先に目を向ける。釣竿の先に垂れた糸が、中程でこんがらがっていた。

「どうも近海の様子が変だ。巳浦の漁も潮見と同じような調子なのは分かる。しっかし、どうやらおかしいのは海辺だけじゃあねえらしい」

 漁をしない波間や沖江では、大時化の後から用水路まで海水が昇ってくる始末で、これが続けば作物が軒並み枯死しかねない。一路は彼の父和一から、そんな風に伝え聞いたのだという。

「そろそろ冬支度のことも考えにゃならんし、どうなっちまうんだろうなあ」

「用意している干鰯だけじゃあ、足りなさそうなのか」

「このまま不漁不作が続けばな。潮見にだって畑もあるっちゃあるが、水が潮でやられちまってんじゃあどうしようもねえ。収穫できた分はお上に全部巻き上げられちまうだろうし、子供に食わせる分なんて米粒ひとつだって残るか分かんねえよ」

 事は、左慈が思っていたよりも深刻さを増しているらしい。海藻の臭いが、二人の間に漂う重苦しい雰囲気を一層不快なものにさせた。


 左慈は洗い終えた海藻を海水を貯めた桶に入れると、洗い終えていない分をまたざるに移して手を動かした。ちらりと一路の様子を覗き見れば、彼はぼんやりと沖の方をじっと見ていた。

「俺はさ、正直、影海様なんて本気で頼りにゃしたことない。清潮祭だって、正月や盆と同じようなもんだと思ってたんだけどよ」

 左慈は海藻を濯ぐ手を止める。秋晴れの光を映さない一路の瞳は今日の海と同じく不安になるような濁りを宿し、左慈は不安になって彼の横顔を見つめた。

「本当に影海様がいるんなら、願えば救ってくれるのかねえ」

「それは……」

 ——私はあなたたちの祈り。

 ウシオは、彼女自身のことをそう話していた。左慈はウシオと過ごす中で垣間見た、彼女の不可思議な力のことを思い出す。近海の異変は、ひょっとするとウシオと何か関係があるのだろうかと、そうであれば、ウシオならこの事態をどうにか切り開くことができるのではないかと、そんな考えが過ぎる。


「……もしそうなら、今年の祭は一大事だな」

 ただ、そのことを一路に話すのはさすがに躊躇われた。ウシオのことを話しては、毎夜の左慈の安寧が失われかねない。そもそも、彼女のことを信じてもらえるかも分からないし、下手すれば不眠が祟って気が狂ったとでも思われかねないだろう。左慈が当たり障りのない返事を呟くと、一路は一寸の沈黙の後、勢いをつけて立ち上がった。

「んだなあ。——よっし、俺もそれ洗うの手伝おうかな。ざる持ってくるわ」

「ああ。小屋に余ってたはずだよ」

「おう」

 一路が遠ざかっていくのを背後に感じながら、左慈は彼が先ほどまで眺めていた先を見る。決して荒れているわけではないが、影海岩より手前の海は、時折白い手がこまねくように波立っている。沖の方もまた、水面が高く膨れて不気味に揺れているように見えた。鼻から深く息を吸い込むと、潮風に乗って海藻とはまた別の、生き物と海泥の臭いが入り混じったような生臭さが鼻をついた。左慈の胸がぞわっと嫌な跳ね方をしたが、一路が戻ってきたところで左慈は愛想を浮かべてその胸騒ぎを誤魔化した。


 しばらくの間、左慈は一路と他愛ないやりとりをしつつ海藻を洗った。日が傾き、そろそろ西方から世間が静かに焼けるように緋に染まる時頃には、左慈が摘んだ海藻は桶の半分ほどになった。あとは、まづか花乃に食えるよう下ごしらえを頼む必要がある。

「ありがとう。あとでそっちにも分けに行くよ」

 桶を抱えながらそう伝えると、一路は頬を掻いて笑った。

「分けてほしくて手伝ったんじゃねえよ……と言いてえとこだが、実はちょっと期待してた。悪いな」

「お互い様さ」

「ざる、俺が小屋に戻しとくよ」

 一路に片付けを頼み、集落に戻ろうとした左慈へ「おうい」と声がかかった。見ると、浜と集落を分ける松の木立の合間で手を上げている人影があった。


「左慈兄!」

 慈郎が外で左慈を呼ぶことなど、彼が十二、三の頃から久しくなかった。何事だろうかと、左慈は海藻を積んだ桶を抱えて弟の元へと急いだ。

「どうした」

 左慈は慈郎を見下ろした。左慈や左介がこの年の頃は、もっと背丈が竹のように伸び続けたものだが、慈郎のつむじは今も左慈の首の下にある。こちらを見上げる顔立ちは兄二人と同様に父親譲り、しかし不機嫌そうにむっとひき結んだ表情は、母親のまづが家族に小言を洩らす時のものとよく似ている。

「珍しいな。おかあとけんかでもしたのか」

 弟は幼い頃から、父母に叱られると左慈を味方につけようとよく泣きついた。思い当たる要件といえばそれくらいなので、なるべく声を柔らかくして慈郎にわけを尋ねる。しかし弟は、「もうガキじゃねえんだから……」と、言葉では呆れたように、一方で幼少の面影の残るいじけたような目つきで左慈を見上げた。


「実千って娘が、左慈兄探してたよ」

「えっ……」

 左慈は、弟の機嫌取りの笑みを引きつらせた。咄嗟に背後の海を見遣る。「どうしたの」と疑わしげな慈郎の問いに何でもないと取り繕って、再び彼と向き合った。

「それで、その、あのは来てるのか」

「海が荒れてるから女は近づいちゃいけないって、巳浦の巫女婆が庄屋のとこまで来て騒いでんだって。だから、俺から左慈兄に伝えてきてくれってさ。この前の場所で待ってるから、だってよ」

「そ、そうか。分かったよ」

「今から会いに行くの」

 左慈は、慈郎のつっけんどんな問いに戸惑いつつも、「まあな」と首肯した。

「待ってるというなら、行かなきゃまずいだろう」

 気が進まないあまり胃がじくじくと痛み始めたが、弟と同じ年の頃の娘を、秋の肌寒い夕暮れの中放っておく分けにもいくまい。左慈は慈郎の手前、深く溜め息をつきたいのを堪えた。


「左慈兄、その実千って娘気に入ってるの」

「な、んだ、急に……」

 まさか慈郎からそんなことを尋ねられるとは思っていなかった左慈は、狼狽て声が裏返ってしまった。一方の慈郎はあくまでも淡々と、いっそ気怠げに松に背を預けた。

「急じゃないよ。むしろ左慈兄の方が急に変だ」

「変って、どういう」

「左慈兄、若い女嫌いだったじゃんか」

「いやだから……嫌いじゃなくて苦手なんだよ」

 現に、実千のことは気のいい娘だと知りつつも苦手であった。すると慈郎は、ふいとそっぽを向いて目を伏せた。腕組みをしている姿は精一杯大人ぶっているようで、かえって彼に残っている幼さを際立たせていた。

「おんなじさ。ていうか、苦手なのに逢引してるのも左慈兄らしくないよ」

「俺は別に、誘ってないけど」

「おかあに縁談縁談って急かされて、無理してんじゃないの」

「ど、どうしたんだお前……」

 普段から、左慈の内気さや不器用さを面白おかしく揶揄おうとする慈郎である。しかし、今日はそうした戯れあいとは一線を画した不満げな物言いだ。左慈は弟の言動に腹が立つよりも、いつもとは違う態度に只々困惑した。


「べっつに」

「別に、ってこたあないだろう。——あっ」

 どうしたものかと頭の後ろを掻いたところで、左慈ははたと思いついた。

「慈郎お前、もしかして」

「なんだよ」

「実千が気になるのか」

 全てが繋がった気がしてずばり尋ねる左慈。慈郎は一瞬呆気にとられ、それから大袈裟にため息をついた。

「やっぱ俺の気のせいかな。左慈兄いつもどおりかも」

 その表情は、微かな憂いを残しながらも、いくらかほっとしたようにも見えた。

「さっき見かけただけなのにさ、そんな訳ないじゃんか。的外れもいいとこだ」

「違うなら、どうしてお前が……」

「だからさあ、別になんでもないよ。気になっただけだって」

 そんなはずはないと感じつつも、慈郎がいつもの調子に戻りつつあることに安堵して、左慈はそれ以上聞き出せなかった。


 慈郎は少しだけ勢いをつけて松から背を離すと、数歩歩いた先で左慈を振り返った。冷たく湿気た潮風が左慈の背後から慈郎に向けて吹き抜けていき、松の木々がざわざわと啼いた。慈郎は風に舞い上がった土と枯れ葉に疎惜しそうに目を細め、そのまま笑みを作った。

「じゃ、俺ちゃんと言伝したし、あと知らないっと」

 だが左慈には、慈郎の笑顔が、やはりいつもの自然な表情とは異なるもののように感じられた。

「慈郎、やっぱりもう少し話を——」

「生娘弄んでると、影海様に祟られるぜ」

「なっ……いや、俺は別に——あ、待てっ」

 突拍子もないことを言われて戸惑ううちに、身軽な弟は桶を抱えた左慈を置いて走り去ってしまった。

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