二十、駆引

 左慈は一度家に戻って、まづに採ってきた海藻を預けた。慈郎は帰っておらず、左慈は彼の様子を気にしつつも、まずは実千が待っているであろう影海神社に足を運んだ。

 ——生娘弄んでると、影海様に祟られるぜ。

 去り際の慈郎の軽口を思い出して、左慈は歩きながら腕を組んで唸る。いつまでも幼気なままだと思っていた弟の口から、生娘だのなんだのぽんぽん飛び出してくると、やましいことが何も無くともぎくりとしてしまう。それに、影海様はそういった類の神仏ではないはずだ。などと、心中で弟に反論する左慈である。

 と、そこまで考えて、左慈は思い直す。ウシオが〈影海様〉とするなら、左慈が移り気になればたちまち祟りが降りかかることも否定はできない気がした。坂道を歩幅狭く登りながら、そんなことを考えてしまった自分自身が可笑しくて口元が緩んだ。


 野焼きの匂い、夏よりも乾いた風を感じながら陽の傾き始めた急勾配を登るうちに、やがて石造りの鳥居が姿を現した。左慈は思わず立ち止まって、まろやかな秋の空気を深く吸い込んだ。

 実千は、賽銭箱の手前の階段に腰掛けて、赤い木漏れ日に目を細めていた。左慈が境内に入るかどうかと言うところでこちらに気づき、立ち上がって満面の笑みを浮かべた。

「左慈さん!」

 袂が肩までずり下がるのも構わず、実千は元気に大きく手を振った。前で結んだ半帯が、その動きに合わせて優しく揺れる。左慈はつい小さく手を振り返してしまい、ちくりと胸が痛んだ。

 祟りだなんだはさておき、実千の心に気づいていながら彼女の意気に気圧されてばかりで、はっきりした態度を示すことができないでいるのはよろしくない。実千にも、そしてウシオにも。

 左慈は振り返した手を下ろして握り込んだ。実千の視線が、左慈の手元に落ちる。

「どうしたの、思い詰めたみたいにして」

「あ、ちょっと……ここ最近漁が振るわなくて」

 相変わらず妙に鋭いことを言う実千に、左慈は咄嗟に誤魔化しを返した。そしてふと、実千の左慈へのこの態度の理由が、思い違いであったらどうしようという気持ちが湧いた。思い違いでなかったとしても、けじめをつけるための言い訳はどうする。まさか、ウシオのことを話すわけにもいくまい。


 色々な懸念が次々と頭の中に思い浮かび、左慈は実千に対する次の言葉に詰まった。

「そうみたいよねえ」

 沈黙が気まずくなろうという前に、実千がさっと相槌を挟んだ。

「波間も大変よ。庄屋うちはまだ蓄えはあるけれど、それもいつまでも保つわけじゃないし。小作人たちはもっと困ってるわね」

「やっぱりか。潮見も似たようなもんさ」

 話を合わせると、実千は話題にそぐわぬ明るい笑顔となった。

「でしょお。そうだと思って、さっき、あや姉にうちの畑でとれたお芋を分けに行ったの。あや姉の子はアタシの妹みたいなものだから」

 だから今日、実千がわざわざ潮見を訪れたのかと合点がいった。左慈はさきほどの冴えない顔をした一路を思い出し、少しだけほっとした。


「そうか。一路もきっと感謝してるよ」

「んふふ。お芋持ってきちゃったこと、おとうにも甚蔵おじさんにも言ってないの、内緒よ」

 悪巧みが成功したように笑う実千。左慈は彼女の屈託のない善行に素直に感心して、知らぬうちに頬を緩めた。実千もまた嬉しそうな笑みを深くし、それから目を伏せた。


「ね、少し座って話せない?」

「……俺は」

「ここはちょっと薄暗いし、なんだか気が引けちゃうからさ。ほら来て。いいとこ見つけたの」

 そう言って、実千は左慈の人差し指を掴んで境内の外へと誘った。鳥居の脇を抜けて潮見を見下ろせる崖側。鎮守の杜の木々の影が濃く落ちるその露路は、雑木の奥で社殿の裏につながっている。

「ここよ、ここ」

 実千が示したそこは、かつて土砂でも崩れた名残か、いくつかの岩が地面から顔を出していた。実千は二、三人ほど座ることができそうな大きめのものにちょこんと腰を下ろすと、自分の隣をぺちんと叩いて見せた。気が乗らないなら止せばいいのに、断る口車も度胸も持たない左慈は、足取りを重くしながらも彼女の後に続いて岩の上に座った。


「さっきの話だけど」

 そう言って、実千は左慈が半人分空けた間に手をつきながら、ぐっとこちらに身を寄せた。

「左慈さんは、不作でもなんだかあんまり落ち込んでいないみたいね」

 左慈は実千の近さにたじろぎつつも、「そんなこたない」と苦笑して見せた。

「そうかしら」

「俺だけならまだいいんだけどな。皆不安そうにしているし、見ていて辛いよ。……それに、弟はなぜか気が立っているし」

「ああ、あの左慈さんに似てた男の子。ひと目で兄弟って分かったわよ」

 実千が得意げに手を打ち、左慈は曖昧に笑った。慈郎は実千と一つ二つしか変わらない。漁にも出るようになったというのに、彼女からしてみればまだまだ「男の子」と思うと、少し面白かった。

「あんたみたいに、もう少し大人びてくれてもいい年なんだけどな」

「左慈さん……アタシのこと、大人びてると思ってくれるのね」

 実千の声が急に色めいた。しまったと、左慈は彼女の横顔をうかがった。夕焼けではない朱色が、そばかすの浮いた娘の頬を染めている。


 他愛ない世間話のままでいられたらと思うが、もう遅い。黄昏時の世間はきりっと冷たいというのに、左慈の背中はじっとりした嫌な汗が滲んだ。それでいて口の中は乾いて、左慈 の発する言葉は粘ついた。

「深い、意味はないんだ」

「それでもいいの。……ねえ、左慈さん」

 ぐっと身を乗り出して左慈を見上げる実千。対する左慈は、娘の勢いに気圧され身を引きながらも、熱く潤んだ切れ長の眼から逃れられなかった。

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