二十一、情焦

「アタシね、今日あや姉に差し入れしに来たのもあるんだけどね。……その、左慈さんに、会いたくてしょうがなかったの」

 嫌な拍動に喉が詰まって左慈が何も言えないでいると、実千はぎゅっと唇を噛んで、それからまた続けた。

「ほんとは、こんな理由つけなくったって潮見に……左慈さんに会いに来たい」

「…………どう、して」

 反射的にはぐらかすように尋ねてしまい、左慈は訊かなければよかったと後悔する。実千は夕陽に向かって顔を逸らし、拗ねた表情で頬を膨らませた。

「んもう、分かってるでしょ」

「ごめ」

「アタシ、左慈さんと一緒になりたいの」

 咄嗟に、言われてしまったと、そう思った。二人の間に海から運ばれた冷たい疾風が吹いた。茫然としていた左慈は、それでようやく、早く断らなければと口を開いた。

「悪いけど、俺は——」


「待って!」

 左慈の掠れた声は、実千の懇願に遮られた。

「待ってちょうだい、そんなにすぐに断らないで」

「や、けど、そうは言っても」

「アタシだって、こんな格好つかない野暮な言い方したくなかったわ。でもだって、うかうかしてたら、左慈さん誰かに取られちゃいそうなんだもん」

 若い娘の涙というのは、狡くて手強い。今にも光の粒がこぼれ落ちそうに潤んだ目で訴えられると、左慈は言いたかったことが喉につっかえる上に、頭は真っ白になってしまう。

「だ、だ、だけど、俺はあんたのこと」

「ちょっとだけでも考えて」

 すると実千は俯いたかと思うと、小岩に乗り上げて膝立ちになった。左慈は娘の顔を見上げる形になった。


「————お願いよ、左慈さん」

 娘はゆっくり、おもむろに手を自らの腰に添えた。前で結んだ半帯が乱暴に解かれ、合わせがはらりとあっけなく垂れ落ちる。

「おいっ」

 左慈が止めようとすると、涙に濡れた目がきっと左慈を睨んだ。その一瞬の眼光に左慈が怯むうちに、実千は衿をそっと左右に広げた。骨張って華奢な上半身の控えめだがふっくらとした乳房や、寒々しい腿の隙間は、斜陽に晒されて影が落ちている。

「アタシ本気なの。分かってよ……」

「な、にやって」

「本当に、本当に真剣なの」

 そう言って徐に左慈の手を掴んだ実千は、乾燥した大きな手を、自身の小ぶりな膨らみに押し付けた。少しでも動いてこれ以上柔らかさを感じてはいけないと、左慈は知らぬ間に息まで潜めて硬直した。


「今だけでもいいから、ね、アタシを見てよ」

「実千……」

 この場を切り抜ける返しが全く思いつかず名前だけ呼ぶと、娘の心臓が飛び上がったのを感じた。

「こういう、ことからでもいいからっ」

 左慈の手をつかむ指先はかわいそうなほど震えているが、離すまいと力が入りわずかに爪が食い込んでいた。左慈の手が娘の薄い肌を滑るように誘導され、臍の小さな窪みを越えた。実千の手が、彼女の最も深い底の方へと、左慈の手を引いて導く。


「やめろ!」

 熱っぽい両腿の谷間に指先が触れるか触れないかのところで、左慈は我に返り手を振り解いた。

 立ち上がって一歩引く。実千は、突然の大声に驚いて、肩を揺らし首を竦めていた。罪悪感が胸を焼くがそれで躊躇してはいけないと、左慈は口を開いた。

「……俺は、あんたと一緒にはなれない」

「どうしてよ。今じゃなくたってアタシ——」

「慕ってる女がいるんだ」

 掠れた声で告げると、実千はほんの一瞬絶望したように目を見開いたが、すぐに目元を拭って真っ直ぐに左慈を見据えた。

「そんな人、いないの知ってる」

「いる。誰にも言っていないけど」

「誰にも、言えない人なの」

「…………」

 左慈は返事の代わりに拳の中に爪を立てた。実千は前を合わせ帯を締めがら立ち上がると、左慈に一歩近づいた。


「村の人にも、家族にだって言えないんじゃ、一緒になんかなれないじゃない」

「……知っているさ」

 左慈は実千を見ないで、己の黒々とした長い影にじっと目を落とした。

「そんなんじゃ、左慈さん独りぼっちになっちゃうわ。今よりも」

 実千の言葉は、細い針のように皮膚の間を突き抜けて左慈の胸に刺さる。

「アタシじゃ、だめ? アタシ左慈さんに好きになってもらえるように頑張るわ。左慈さんが人付き合い好きじゃないなら、アタシがみんなにいい顔する。左慈さんを独りぼっちにさせない、アタシが左慈さんの安心できる人になる」

 実千はきっと、その言葉通りにするだろう。若い情に染まって浮き足立った熱を孕みつつも、娘の声は芯が通って、彼女の強かな心根がよく知れた。


 ほんの刹那の間に、左慈の脳裏に実千と所帯を持った己の姿が思い描かれる。潮見に嫁いでも、きっと彼女なら皆とうまくやれる。一路の妻だっているし、そうでなくとも粗野な男たちを軽くいなして笑える強さも、ほかの女たちに可愛がられる愛嬌もある。彼女を妻にもらえば、やや遠縁だが庄屋の身内にだってなれる。

「俺は……」その恩恵に見合うだけの何かを持っていない。左慈はきっと、実千が己に何を期待しているのかもわからないまま、妻が日の当たる場所で皆と笑い合うのを間近で眺めていくのだろう。

 唯一人、海の底に沈みゆく己に気付いてくれたあの女の慈悲を棄てて。彼女との蜜月の記憶を慰めにして。

 なんと穏やかで眩しい地獄か。


「……あんたの居場所は、俺じゃないよ」

 左慈の答えは決まりきっていた。断ることを詫びるのも烏滸がましく、左慈はいっそ恨んでくれと思った。

「俺の居場所も、あんたじゃあ————」

 ぱしっと、頬に衝撃が走るとともに視界がぶれた。

 実千に引っ叩かれたのだと気づくとともに、今度は娘の体が左慈の腰に巻きついた。ありったけの力を込めるように抱きつかれて、左慈は実千の先ほどの誘惑を思い出して焦る。

「おい————」

「なんにも受け取ってくれないくせに、気遣うようなことばっかり言わないでっ」

 左慈が引き剥がすまでもなく、実千は自ら身を離した。

「そうやって、ずっと独りで淋しくしてればいいんだわっ」

 唇を震わせそう言い放つと、実千は呆気にとられる左慈を置いて、集落の方へと走り去ってしまった。

 残された左慈は、少しの間娘の去った道を眺める。そしてやがて、糸のぷつんと切れるように小岩の一つに座り込んで項垂れた。

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