二十二、縋絡
たとえ一晩中起きることになろうとも、今宵、ウシオに会いに行くのは憚られた。実千とあのようなことがあってすぐ、どんな顔をして、あの心の何もかもを引きずり出してしまう浅瀬色の瞳を見ればいいのか、左慈には分からなかった。しかし、何度も寝返りを打ったり深く息を吸ったりしてみても意識は手放せない。
——そんなんじゃ左慈さん独りぼっちになっちゃうわ。今よりも。
——言えない相手ならなおのこと、おミッちゃんを考えてあげらんねえかな。
——お前だって親父のせがれで、俺の兄弟なんだから。
頭の中にまた、嫌な記憶の蝿がたかる。眼窩の奥が鈍く痛み眠りを欲している。眠れ、眠れと心内で唱え、指先が冷たく硬い布団を引っ掻く。そこに温みは存在しない。
耐えられなくなった左慈は小さく呻き、身を起こした。頭痛に苛まれながらふらふらと立ち上がり、土間に向かう。
「左慈兄、うるさいよ」
「……すまない」
起こしてしまったことを慈郎に詫びて、左慈は家を出た。
眠れないことだけが、辛いのではない。どこにも寄る辺ない身体に這う不安を、柔らかなてのひらで取り払ってほしい。頭の中で喚く余計な声を、一刻も早く、あの泡沫のように儚い声で消し去ってほしかった。そう気づいてしまえば、日中の後ろめたさなどどうでもよくなった。
いつものように、ウシオは夜更けの浜辺に独りぽつんと佇んで、波打つ黒い海原を真っ直ぐに眺めていた。こちらに気づくと、夜の闇にも鮮やかな双眸が三日月を象り微笑する。
「——左慈」
潮騒に混じって名前を呼ばれると、左慈は体中の力が緩むのを感じた。返事をするよりも先に、気がつけば彼女を腕に閉じ込めてうねる黒髪ごと掻き抱いていた。
「左——」
「ごめん、少しだけ」
そう囁くと、ウシオは何も言わずに左慈の腹と自分の胸に挟まれた腕を出して、左慈の背中をぎこちなく撫でた。眉間がじんわり痛んで熱いが、もう眼窩の奥の鈍痛は気にならなかった。
どれだけそうしていたか分からない。離れた岩場で波が強く打ち付けられる音がした時、ウシオの肩がびくりと揺れる。左慈はやっと気持ちが落ち着き、彼女から身を離した。
「すまない……途端に、何も言わずに」
「私は、左慈が良いなら良いよ」
ウシオは、肩に置かれた左慈の右手を取って自身の頬に触れさせた。ひやりと冷たい肌は、触れているうちに温かさが染み出していく。左慈はその熱に惹かれてウシオに口を重ね、戯れるように啄んだ。
は、と女は幽かな吐息を洩らし、左慈の腰に手を回して自ら身体を寄せた。
「また、あの岩窟に行きたいの」
「岩窟……あっ！？ いやっ」
ウシオの言わんとすることを察して、左慈は慌てて彼女から顔を離し、明後日の方を向いた。
「そういうことじゃない！」
「そうなの」
「いや、そういうことじゃないわけじゃないが……やましい気持ちは」
無いはずであったが、今言えばそれは嘘になる。
左慈は空いた手で頭を掻きながら、口の中でしりすぼみに言い訳をする。ウシオは握った左慈の手に口づけを落とし、深く息を吸った。温かく湿って少々こそばゆい呼気が、ふいにぴたりと止まった。そして、
「あの若い娘と、会っていたのね」
長い睫毛の影から、鮮烈な瞳が左慈を射抜いた。この世のものとは思えないぞっとする煌めきに魅了されて、左慈は焦りを忘れた。その眼は伏せられ、かと思えば、彼女は左慈の掌を口吻に当てたまま続けた。
「左慈は、あの娘とつがいになるの」
「つが……違う」
「あの娘も、こうして触れることがあるの」
「お、おいあんた——」
「あの娘は、左慈の掌の大きさを知っているの。左慈の口の中の熱さを、私の名を呼ぶ凪いだ声を————」
「ウシオ！」
やや強引に彼女の顎を上げさせて視線を合わせる。目を見開いたウシオは、ようやくその口を止めた。
「確かに、実千とは今日会ったよ。それで、一緒になれないと……その、あんたの言う『つがい』にはならないと伝えた」
「どうして」
「どうしてって……」
実千が左慈にそう言ったように、分かっているくせにと続けたくなったが、ウシオの表情を見る限り、本当に疑問に思っている様子であった。
「人は、もう一人の人とつがいになるのでしょう」
「だったら……俺にとってのそれは、あの子じゃあないよ」
俯きざまに乱れたウシオの髪を耳にかけてやると、彼女はくすぐったそうに目を瞑った。その仕草が、今し方の神秘的なまでの眼光の持ち主と同じには到底思えず、左慈はふっと表情を柔らかくした。知らず知らずのうちに口が軽くなる。
「俺が触れたいと思えたのは……あんただけだよ。もっと知りたいと思った人も、後にも先にも、きっとあんただけだ。だから……えっと」
そこまで話して、左慈は次の言葉を待っているウシオから顔を背けた。調子づいて話しすぎたという気まずさが、みるみるうちに左慈の口を元どおり重くしていく。
「言葉にするのは苦手なんだ。そろそろ分かってくれると……助かる」
「分かるよ」
ウシオが左慈の右手に彼女の左手を絡め合わせた。その重なりを見つめながら、彼女は頬をゆるりと綻ばせた。
「私も、あなたに触れたい。あなただけに————」
穏やかなしじまが漂わんとしたその時、再び荒波が、今度は遠くの影海岩のほうから聞こえた。ウシオが驚いて身を竦ませ、月明に浮き上がる岩影に目を走らせた。波はやがて、そのさざめきを穏やかなものへと変える。
左慈とウシオはしばし、凪いでゆく浦波の様子を眺めて沈黙した。そうしているうちに、左慈は欠伸が迫り上がってきて、これを噛み殺しながら口を開いた。
「勝手で悪いけれど、少し寝てもいいか」
不漁続きで波も不安定だが、明日も海に出るかもしれない。心につっかえていたものが和らぎ落ち着いた左慈は、未だ海から目を離そうとしないウシオの顔を、そっと自分へと向けた。
ウシオは一瞬頷くそぶりをしたが、はたと何かを思い出したように動きを止めて、きゅっと唇をひき結び、
「左慈」
「うん？」
「ひとつだけ」
白い手が、左慈のだらしなく纏った寝巻きの衿を掴んだ。少し動けば離れてしまいそうなほど、弱々しい力であった。
「あなたの熱が欲しい」
「熱、って」
「私をあなたに近づける熱。私を満たす熱」
寛げた合わせから入り込んだ冷たい指が肋骨をなぞり、左慈の肌を粟立てた。
「お願い」
懇願する声に宿っていたのは、色や情では言い表せないような痛切な何か。
「……小屋に入ろう」
漁の道具と、黴と、藁の筵の入り混じったすえた匂いの中でも、ウシオの香りは甘く左慈を惑わせた。
青白く浮かび上がる肌も、暗がりでなお艶めきうねる黒髪も、そしてこの浅瀬色の瞳も何もかも、こんな小屋に相応しく無いほど清らかで高尚で、それでいて凄絶なまでに艶かしい。なのにその
抱いている間、彼女は誘いの言葉通り、まるで熱を求めるように左慈に縋った。何故と疑問を抱くには、左慈は夢中になりすぎていた。歯のぶつかり合うのに構わず吐息も嬌声も貪り、艶髪を抱きすくめてはその奥から立ち上る色香を吸って胸の
それでも、彼女と繋がり肌をすり合わせているさなか、白く柔らかい足が左慈の腰に必死に絡みつき離れない様子に、興奮よりも心配が募る。
「————ウシオ」
事が終わり隙間風が汗を冷やし始め、左慈はウシオの隣に寝そべった。汗ばんでしっとりした左慈の額を、白い指がゆるりと撫でた。それだけで、左慈はあっと言う間に抗えないほどの眠気に侵されていく。重い瞼を持ち上げて見えた長い睫毛が、切なそうに震えている気がした。
「ありがとう、左慈」
「礼は、俺の方が……」
「あなたが呼ぶなら、他に何も——」
囁かれたウシオの言葉を聞く前に、左慈はふつりと眠りの底に落ちた。
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