八、顕現

 それからまた、数日が過ぎた。

 左慈はその日を指折り数える思いで待っていた。新月の一件以来、寝ずの夜はほとんどない。それでも今夜は、緊張と高揚、少しの恐ろしさで、左慈は夜通し起きていられる気がしていた。

 左慈は急ぎたい気持ちを抑えて、慎重に音を殺して家を出た。空は晴れ、月は満ちて真珠のように白く光っていた。月の明るい夜。それが満月のことをいうのであれば。

 早足に通りをゆく左慈の背に、わっと幾人もの男女の華やいだ笑声が届いた。どきりと胸を跳ねさせ、思わず隘路に身をねじ込む。そっと通りを伺えば、十間ほど先に固まった人影たちが小さく見えた。左介が家にいたので気づかなかったが、今日も今日とて若衆で社務所に集って酒盛りをしていたらしい。大方、酔った勢いで一路の家で夜なべしていた娘たちを誘い出したというところか。月明かりを浴び、千鳥足で嬉々と集落の奥へと去っていく同年代たち。左慈は隘路の濁った影の中から彼らを見届け、それからまた一人浜辺へと向かった。


 漆黒の海とほの明るい藍を帯びた空は、水平線でくっきりと分たれている。半月ぶりの夜の海に、左慈はほうっとため息をついた。

 乾いた唇を舐めてごくりと息を飲み、波打ち際に近づく。水面は月光を反射して、星が落ちてきたかのようにまばらに煌いていた。

 しかし。

「————ふ、は」

 左慈は嗤った。影海岩の穴はぽっかり丸く空虚。人影など現れない。

 全て不眠に侵された己の心が魅せた幻、否、妄想でしかなかったのか。そう思うと、目の奥が鈍く痛み息もできないほど喉が詰まるのに、左慈の口からは震え掠れた笑声が断続した。脚は石のように重く、左慈はその場に立ち尽くしたまま顔を両手で覆う。


 帰らなければいけない。明日も漁があるのだから。父や兄と同じように、せめて人並みに、皆と同じように、皆と同じ場所で息をしていかねばならないのだから。いつまでもこんなことをしていては駄目だ。こんなことをしている自分では、駄目だ。

 華やいだ若者たちの声が、耳の中まで蔓延って剥がれない。足元がぐらつき蹈鞴たたらを踏むと、細波が脛に激しくぶつかって砕けた。その音をもっと近くで聞いたなら、頭の中の煩い蠅は消えてくれるだろうか。

 項垂れたまま、左慈は一歩踏み出した。足が波の抵抗を掻き分けていく。

 朝日など、明日などいらない。ただ今すぐに眠りに落ちてしまいたい。静かなところで、誰の声も届かぬところで、波の音だけを聞いて、ここではないどこかで。

 冷たい水面が腿まで達する。


 ——————誰か、俺を。

 その先の念慮を、視界に差し伸べられた細腕が阻んだ。浅い呼吸を止めて、左慈は弾かれたように顔を上げた。


「いけないよ」

 そう静かに告げ、華奢な手が力の抜けた左慈の両手に触れる。その手は、言葉に詰まって唇を震わせる左慈をゆっくり、ゆっくり波打ち際まで押し戻した。


 女だった。

 彼女の腰まであるおどろ髪は、以前見たよりいくぶんしっとりして、凪いだ波のようにうねっている。黒く波打つ長髪の奥、ちらちらと月光を反射する目は、やっぱり浅瀬のような青い光を宿していた。

 女は、爪先が触れ合いそうなほど左慈に近づき、こちらを見上げた。その目に射られ、左慈は指先を震わせながら、女の顔にかかった髪を払う。月に照らされた面差しを見てようやく気がついたが、女の顔も、腕も、闇を抜いたように白かった。


「いけないよ」

 女はまた口を開いた。左慈は恐怖や驚きよりもまず、この得体のしれない女を前にどうしようもなく安堵していた。ゆっくりと息を吐き出せば、身体が弛緩してほっと温かくなった。

「あ、あんたは……」

「この姿に名はない。あなたは私を何と呼ぶ」

「俺……は、って。どういう」

 咄嗟のことに狼狽して、女の真っ直ぐなまなざしから顔を逸らす。すると、小波が一際大きくざわめいて、左慈の足先に絡まった。まるで、答えるまで逃さないと言われているような気がして、焦って波から離れると、ふらつき体勢を崩した拍子に尻餅をついた。

「うおっ」

「うお?」

 すると、女は左慈のとなりにしゃがみ、こちらの顔を覗き込んで視線を交わらせた。

「この姿の名は、うお————」

「いや、今のはそんなんじゃ……」


 表情を変えずに首を傾げるその姿は、人の形をしたそれ以外の何かであるということを物語っている。このままでは、この不可思議で美しい存在の名前が、左慈が咄嗟に発したくだらない驚嘆と同じになってしまう。幾分落ち着いてきた頭の片隅でそんなことを考え、左慈はぱっと思いついた名を呼ぶ。

「う、シオ」

「うしお」

「ウシオ。そう呼ぶのは……どうだ」

 彼女はウシオ、ウシオ、と何度か音を口に馴染ませるように繰り返して、それから目尻を少し下げた。

「では、私は〈ウシオ〉になろう」

 その笑みに、左慈は胸の奥がぎゅうっと締め付けられて苦しくなった。惚けていると、左慈の頬に女のひんやりとした掌が這う。


「私は、あなたを何と呼ぶ」

「……俺は、左慈」

「左慈——私を探す人。ここをあなたの死で穢してはいけないよ」

「ち、違う。俺はただ……眠れなくて」

 弁解しつつ、左慈はぎくりとした。しかし次の瞬間には、己は死を求めて海の涯を目指していたのかと、どこか他人事のように腑に落ちた。

 女は「そう」とだけ返して、それからゆるりと天を仰いだ。

「けれど、月のないあの夜は深く眠っていたよ」

「……いや、あの日も」

 言いかけたところで、左慈の頬に触れていた手が目の前を覆った。その瞬間、左慈はめまいに襲われる。視界がぐらりと揺れ、掌に押されるまま、抵抗すらできずに上半身を横たえた。だが左慈の頭に触れたのは、浜辺の小石ではない柔らかい温もりだった。

「なん……」

 女の膝から頭をあげようにも、どっと疲れが押し寄せて、身体中の力が入らなかった。そのまま、抵抗することもできずに瞼が重くなる。


「————ほら、こんな風に」

「………う、ん?」

「眠っていたよ」

 ゆっくり目を開けた左慈は、こちらを見下ろす浅瀬色の双眸を見つめ返した。しっとりした冷たい手が左慈の額を撫でたところで、ようよう頭が冴えて目を見開く。

「わっ! あ、いやすまない。こ、こ、こんなつもりは」

 跳ねるようにして起き上がると、左慈は背を丸めて片手で口を覆った。顔だけでなく、身体中から火が出そうだった。

「本当に、いや、おかしいな」

「私は、おかしいことをしたの」

「あっ!? ちがう、むしろよく眠れて楽になった気が——じゃない、何言ってんだか俺は……えっと、その」

 弁解に焦って、自分でも分からなかった本音が溢れ落ちて、左慈はまた口を手で覆った。女の顔を直視できずに俯くと、視界の端で黒髪が揺れた。首を傾げているのだろう。居た堪れなくなった左慈は勢いをつけて立ち上がり、彼女に背を向けた。おかしな男だと思われた。急に饒舌になったことを笑われる。胸がじたばた不愉快に跳ね、左慈はゆっくりとため息をついた。


「情けないとこを……。あ、あの俺、そろそろ戻」

「眠れないと」

「へ?」

 肩越しに背後を確認すると、女は表情一つ変えずに左慈を見ていた。その目には、怪しむ様子も揶揄する様子も映っていない。

「眠れないと、辛いのか」

「まあ……」

「あなたは、眠れないのか」

「ああ……まあ、ほとんど毎晩」

「眠れるようになったら、あなたは楽になる」

「そりゃあ、そうだな……」

「私の膝の上は、よく眠れたのね」

「………………まあ」

 ずいぶんと拙い会話だと、左慈は戸惑いと恥ずかしさの中、自分の口下手を棚に上げてそう思った。


「眠れないなら、また会いにきて」

 また目尻を下げて微笑する女。

 会いにきたつもりはなかった。膝は貸してもらわなくてもいい。

「会えるのは、満月の夜だけか」

 その浅瀬色をした瞳に囚われて、左慈はただそれだけ尋ねた。

 女は——ウシオは少し低くなった月を仰ぎ、それから海原に佇む影海岩を見遣った。

「私は、ここにいるよ」

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