七、閑話

「こんにちは、潮見のみなさん」

 廊下の奥から足音と共に、花が風にそよぐような控えめな娘の声がした。振り返ると、先ほど和一に言われて甚蔵を呼びに行った娘が立っていた。彼女は片手に握り飯の入ったたらい、もう片手で急須と人数分の湯飲みを載せた盆をふらふらさせて運んできた。潮見の男たちはちらと娘に目を配って適当な挨拶を返すと、すぐに仲間内で談笑することに戻り、その娘の危なっかしい様子には構わない。

「お茶とおむすび、ありますから……おっとと」

 手元がおぼつかずに湯飲みが盆の上を滑りかけたところで、いちばん手前に座っていた左慈は見ていられずに立ち上がった。娘の掌の上で不安定にしている盆とたらいに手を添える。


「俺たち、自分でやるから。ありがとう」

 無愛想に告げると、娘は驚いた表情で左慈を見て口をぽかんと開けた。かと思えば、恥ずかしそうに愛想笑いを浮かべる。

「ごめんなさい、そそっかしくて見てらんないわね」

「いやあの、用意してくれたから、これくらいはと……」

 図星を突かれ、しかし肯定するのも不適当な気がして、左慈は口籠った。娘は愛想笑いをふわりと柔らかくして「んじゃあ、お願いするわ」と、握り飯を入れたらいをこちらに差し出した。

「あたし、実千みちっていうの。——旦那さん、ずいぶん背が大きいのね」

「あ、うん。父も兄も……」

 縁側に立つ実千は、それでも、沓脱石に降りている左慈を少し見上げていた。左慈にとっては、気にするまでもない日常の光景であったが、実千からしてみれば珍しいのかもしれない。娘はきらきらした切れ長の目を丸くして、首を僅かばかり後ろに傾け左慈の頭頂あたりをじっと眺めていた。遠慮のない目を向けられて落ち着かなくなり、左慈は後ろ頭を掻いて娘から視線を外した。


「おミッちゃん! 久しぶりだなあ」

 左慈がたらいを受け取ったところで、座っていた一路が声を弾ませた。

「あっ、一路兄さんじゃない。あや姉は元気にしてるかしら」

「相変わらずさ」

 実千は、先ほどまで左慈が座っていたところ、一路の隣に腰掛けた。そしてたらいに入った人数分の握り飯を配って、立ち尽くしている左慈にも「お座りくださいな」と自分の隣をぽんと叩いた。左慈はほんの一瞬ためらったが、どうするわけにもいかず、少し距離を開けて座って一路と実千の会話を耳に茶の用意をした。すると、遅れてやってきた甚蔵が冗談めかして「客人に茶ぁを用意させるたあ、とんだ娘だ」と声をかけた。それから甚蔵は、左慈へと目を向け、

「お前、平介の次男坊だろう。こいつは俺の姪なんだ。このとおりちゃっかりしたとこのある娘だが、気を悪くせず仲良くしてやってくれ」

「あの、俺は別に」

 左慈が何かを答える前に、彼は一番奥に座っている和一の隣へ行ってしまった。


「実千はさ、おれのかみさんと仲がいいのさ」

 麦茶を啜りながら、一路は実千との縁をそう説明した。

「あや姉には、妹みたいに可愛がってもらってたの。あたしあや姉が波間を出るとき、小さい子でもないのにわんわん泣いちゃって」

「半日かからず、来れる距離じゃねえか」

「今思えばね。その時は、今生の別れって気持ちだったんだもの」

 ぽんぽんと弾む会話を耳に、左慈は庭に運び出される祭具の一つ一つを観察して、この交流の機会が過ぎ去るのを待っていた。話題の転がる速さについていけない左慈は、こういった時間が苦手であった。

「今度、うちのに会いに来なよ、な」

「本当に!?」

「もちろんだよ。なあ、左慈」

「えっ!? ああ、うん。いいんじゃないか」

 なぜこちらに相槌を求めてきたのか分からず、左慈は狼狽えながら適当に頷いた。すると、実千が勢いよくこっちを向いて、嬉しそうに目を輝かせた。しかし、すぐに左慈から顔を逸らすと、口を尖らせて目を伏せた。

「でも…アタシ潮見には、あや姉と一路さん以外に頼りがなくて心細いわよ」

 ちらりと上目遣いの、こちらの出方を伺うような視線。左慈は急に、緊張で掌に嫌な汗がにじむ。若い娘が納得するような、気の利く返事なんて知らない。


「大丈夫だって、な、左慈」

 左慈が困っているのを知ってか知らずか、一路が軽い調子でそう言った。左慈は彼の言葉に何度も頷き、それからようやく実千に声をかける。

「俺に弟がいるから、仲良くしてやってくれ」

「ふうん」

「慈郎は俺なんかよりずっと気安い奴だし、あんたと歳も近そうだし、だから気が合いそうだと……」

 言葉数の減った実千の返しに、左慈は失敗したと直感した。途端、言い訳のように、ぱっとしない言葉が口をついて出てきてしまった。

「……ううん、そうね! 近いうちに、遊びに行くわね、一路さん」

 こちらの狼狽を拭いとるように、実千はぱっと表情を明るくした。完全に気を使わせてしまった。己にげんなりしているうちに、会話は左慈を置いていく。

「おう。おミッちゃんならいつでも待ってるよ」

「その時はみなさん、仲良くしてください。左慈さんも、ね」

 実千は皆の顔を見回して、最後に左慈に向かって微笑みを向けると、片付けをして土間に引き揚げて行った。左慈は、先ほどのやりとりに気を悪くしていないだろうかと悶々としつつ、彼女が去ったことで強張っていた肩の力が抜けた。


 その後、左慈たち潮見の男たちは、甚蔵から祭で使う大縄や他の祭具の修繕の状態などの説明を受け、これらを大八車に積んで波間を後にした。

 帰り際、ちらりと庄屋の屋敷を振り返ると、戸口から甚蔵と実千が見送っているのが見えた。実千がこちらに会釈をするので、左慈も思わず頭を下げ返した。すると一路がにやりと口元を釣り上げながら、揶揄するように拳で左慈の腕を軽く小突いてきた。

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