第21話

 思いの外順調にすべてが進み、憂いは殆どゼロに近くなっていた。


 最大の懸念事項であった二つの事柄は、望まぬ形ではあったけれど、それぞれ消滅した。


 もちろん、この先どうしていくかもそろそろ考え出さなければいけないのだけれど、それも急を要するわけでもなく、目下、眼前のことだけを処理して生きていこうと、仕事に精を出していると、オーナーの奥さんが、実に言い辛そうに問う。


「咲苗ちゃん、辞めないよね?」

「? 辞めませんけど……」


 あぁ良かったとあからさまに嘆息し、「お金に困ってるなら言ってね。全力で協力するから」と私の背中を叩いた。


 ……そういえば、いつまでここで働くのだろう。私はいつまで花屋のアルバイトで暮らしていくつもりなのだろう。


 ごたごた続きで、すっかり失念していたが、生きていくための必要資金を稼ぐ為に転職を考えていたのだったっけ。


 とはいえ、改めて考えてみると、この仕事は楽しくもあって、それなりに充実しているし、メンバーは癖の強い子もいたり、意見の合わない上司もいるにはいるけれど、彼女たちは皆性格が歪んでいるわけでもなく、多分単純に考え方が相違しているだけで、仕事以外の場所で会えば、愉快にお喋りができる人達なのだ。


 しかし。


 前述したように、私はこの先のことも考えなくてはならない。


 四十になって、五十になって、このまま今のペースで働けるのかも怪しいし、体力含め、様々な面で衰えた私を引き続き雇ってくれるのかも怪しいし、何よりこの店が五年後十年後に存在しているかも怪しいので、転職できる機会があるのなら、身を移す準備は今の内からでもしておいたほうがいいのかもしれない。


 辞めないと断言してしまったけれど、好条件な転職先さえ見つかってしまえば、一も二もなく飛びついてしまいたい程度に焦りはある。


「ま、当分は現状維持さえできればいいや」


 楽天家オプティミストを気取る気はないけれど、たまには下げ続けていた顎の角度を少しだけ広げてみたっていいじゃないか。


 多少無理矢理感があろうとも、前を向いていこうと思ったっていいじゃないか。


 祖父の分まで――だなんて気は毛頭ないけれど、でも、私も三十五歳。

 そろそろ自分の為に生きてもいい頃だろう。


 遅きに失したことも山程あるだろうけれど、それでもまだ間に合うことだってたくさんあって、せめて興味を惹かれる仕事や趣味に時間をかけながら、歳を重ねて死んでいきたいというのが、今の私の些細な願いだ。


 神様。幸せな人生を送らせてくださいとは言いません。

 でも、これ以上不幸を感じさせないでください。

 私は、余生を笑って過ごしたいのです。


 無宗教の私が都合の良い時だけこうして神頼みすることを、きっと神様なら笑って聞き入れてくれるだろう。だって、信じる者は救われるらしいのだから。


 一生分の不幸とは言わないまでも、それなりに嫌な思いをして生きてきたのだから、せめて、せめてここからは、身を裂くようなショックな出来事に遭遇するようなことだけは避けさせてもらいたいと切に願った私の思いや願いは無残にも叶わず、笑って聞き入れてくれるどころか、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら私の望みと正反対の対応をしてどん底に突き落とそうとしている神を私は呪うことになる。

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