第11話

 きっと今頃、彼女は矢満田なにがしのストレス発散の餌食にされ、唾を飛ばされ、足蹴にされ、嫌な思いをしているのだろうと、パタパタと小走りで戻った私の目に飛び込んできたのは談笑する二人の女子だった。


 二十歳を過ぎた女性に対して女子はないかもしれないが、珍しく矢満田さんは高圧的な態度を顰め、「コンディショナー流すのめんどくさいんだよね」と、最近バッサリ切った自分のショートボブ気味の後ろ髪をクルクルと人差し指に巻き、「いーね、サラサラストレート」と、メラちゃんのポニーを触る。


「ストパーかけてるんですよ。私も癖っ毛なので」


 いつもと違う先輩に、どう接していいのか迷っている感じが見て取れるリアクションをしているメラちゃんだったけれど、褒められて悪い気はしていないようで、「でも、矢満田さんも伸ばしたら意外と気にならないかもですよ」と振り向くのだけれど、メラちゃんはやはりいつものメラちゃんで、手に持っていたディスプレイのひとつである花瓶を落としてしまう。


「あ」


 盛大な音を立てて砕け散った花瓶はオーナーのお気に入りで、黒を基調とした幾何学模様にいくつもの扇子が描かれたこの伊万里焼は、伝手を辿ってそこそこ有名な人にそこそこのお金を払って作ってもらったらしい。いわゆるオーダーメイドというやつなのだ。

「ご、ごめんなさい!」


 あ、まずいかな。矢満田さん、流石にそろそろキレるだろうな。

 私は店内に小走りで這入って行く。


「大丈夫? いいよいいよ、しょうがない。箒とチリトリ持ってくるから待ってて」と言ったのは私ではなくメラちゃんの天敵とも言える極悪女王の矢満田さんだった。


「ご、ごめんなさい!」

「ううん、えーと……はいこれ、箒。手で触っちゃ駄目だよ、怪我するから」

「あ、は、はい」


 言われるがままメラちゃんは箒を使って一ヶ所に破片を集め出す。その顔は割ってしまった罪悪感や反省心以上に、矢満田さんの優しさの発露みたいなものに対してどう受け取っていいのやらと、戸惑っているみたいだった。


「はい。じゃああたしが持ってるから、押し込んじゃって」


 店の奥からチリトリを持ってきた矢満田さんは、今までの彼女であれば新人の、況して虐め倒しているような歳下の少女の前で片膝をついてかしずくような姿勢を取ることなどプライドが許さないであろうポージングのまま、「あれだったらあたしが割ったことにしてもいいからね」と、ウインク交じりに言う。


「そんな! 割ったのは私ですから、弁償します」

「いいのいいの。あたしのせいにするのが嫌なら、お客さんってことにしてもいいんだし。子供がはしゃいでーとかさ」

「はぁ……」


 多分、メラちゃんの性格からして、ここで何を言われようと後でオーナーに自分から話して、弁償しますと申し出るだろう。彼女は本当に気が優しくて、嘘が付けないいい子なのだ。


 そんな彼女の性格を見抜くことができていない矢満田さんは調子の良い解決策を口にするけれど、尚もメラちゃんは「はぁ……」と上の空な生返事を返し、せっせと掃除を済ます。


「あ、咲苗さなえさん」


 入口付近に置かれているアンティーク椅子の上のアンスンエンシスに隠れるようにして立っていた私に気付いたメラちゃんは、「ごめんなさい、これ……」と、視線を床に落とし、「割っちゃいました」と謝罪する。


「――あぁ、うん。怪我、しなかった?」

「あ、はい。大丈夫です」

「そ。よかった。オーナーには後で私から言っておくから」

「すみません……」


 普段からミスの多い彼女のフォローは基本的には私の仕事で、ミスとはいえ大抵は「ごめんなさい」で済んでしまうようなことばかりなので、この時もいつもの感じで私が処理しておこうというつもりでそう言った。


 しかし、意外な者が意外な攻撃を仕掛けてきたことにより、私は目を白黒させてしまう。


「枝藤さん、それってチクるってことですよね? 別に態とじゃないんだし、落谷さんのせいじゃないんじゃないですか?」

「……」


 うっかり黙ってしまった。


 え、なに、メラちゃんを庇うの? いつも虐めている君が? 日頃、問題が起きる度にメラちゃんのせいにしてきた君が? という気持ちと、私が悪いの? ……というか君は何に噛みついているの? という疑問がせめぎ合い、返す言葉を失ってしまった。


「そういうの、なんか凄く感じ悪いと思うんですけど。結局枝藤さんもそっちの人間なんだなーみたいな」


 そっちってどっちだよだなんて、馬鹿馬鹿しい事は訊かない。オーナー側、というよりも、社員を含めた経営陣側、ということなのだろう。


「そういんじゃないよ。あったことをただ報告するだけ。別にメラ――落谷さんが悪いだなんて言うつもりもないし」


「……どうだか。案外裏では色々とネガティブな発言してたんじゃないですか? 告げ口とか陰口とか。オーナーに信用されてますもんね、枝藤さんって。あたし達の勤務態度とか逐一報告してそう」


 つい、平家物語に出てくるカムロを想像してしまったが、私はオーナーに遣わされた密偵でもなければ、スタッフの仕事振りを査定して昇給や減給の是非を管理者達とあれこれ検討し合うような立場にもいないし……どれだけ凄まじい濡れ衣なんだ。着衣泳後の体操着並の濡れ衣だ。


「そういえばあたし、最初の方はすぐに上がったんですよ、時給。入ったばっかの頃は葉柳さんと一緒になることが多かったからかなとか思ってるんですよね、それ。枝藤さんと被るようになってから一円も上がってないし」


 それこそ言い掛かり以上の何ものでもないだろう。私如きにどこまで力があると過信しているんだ彼女は。私がちょっと入れ知恵しようとあることないこと彼女達の勤務態度を悪く言おうと、オーナーはそれで態度を変えたり、況して昇給させないなどということはない。


「研修時給だったんじゃない? 最初は。うちの場合、先ずは研修からスタートするでしょ? マイナス五十円だったかな。で、一ヶ月で通常の時給に、大体三ヶ月で五十円アップが多いんじゃないかな。メ――落谷さんも上がったでしょ?」


「あ、はい。私もちゃんと頂いてます。確か今月か来月分から時給アップするよって言われました」


 ね? と疑念の目を向ける矢満田さんに向き直ると、彼女は小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、「そうですよね、なんかすいません」と、軽く会釈し、「じゃあ落谷さん、これ裏に捨てに行こうか」と、メラちゃんと連れ立って外へと出ていく。


 ポリペールと言われる、大きめの丸いゴミ箱にガラスなどの割れ物を入れるのだけれど、態々二人でやる必要ある? と訊けない私は、矢満田さんの根も葉もない言い掛かりにショックを受けてしまっていたのかもしれない。


 数分で戻ってきた彼女達を尻目に、私は来店したお客さんの接客に当たり、彼女に花束をプレゼントしたいという二十歳そこそこの男の子に「彼女さん、好きな色とかありますか?」などと情報を聞き出していると、メラちゃんが気を利かせてくれて、私がやりかけていた仕事の後処理をしてくれた。


 チラリと時計を見遣ると、もうそろそろお昼時。さて今日は何を食べようかと思案しながら、予算の三千円以内で黄色いバラをメインに据え置き、白と黄色のコントラストを意識したブーケを作成し、結婚を考えてると照れながら手に取ったブーケを満足気に見ている男性客を観て、私もこんな風に誰かに愛してもらえたらなぁと、何だかありきたりな願望をチラつかせてしまった。


「ありがとうございました」


 重なるように互いにそう言い、男性客を見送った後、時計を見ると後十分で休憩だ。今日もメラちゃんと楽しいランチタイムを過ごせるなんて、今日の私はツイてるな。


「落谷さんてカレシいるの?」


 唐突に、そんな不躾な質問をしたのはもちろん矢満田さんで、まぁ彼氏がいるか訊くくらいだったらそんなに失礼なことでもないのかな、メラちゃんまだ若いし、とかそんなことを考えながら何となく聞き耳を立てていると、「いないですねー」と可愛い声が聞こえて、何故かちょっと安心してしまう。


 まさか同性愛者だとかそんなことはないよなと、短絡的過ぎる自分に若干引いてしまったけれど、その後に続いた彼女の台詞に、私は驚きを隠せなくなる。


「私、性的趣向? みたいなのが、ちょっと変わってるみたいで、なんか普通に格好良い男の人とかってあんまり興味ないんですよ」

「ふーん。なに、不細工が良いってこと?」

「あ、いえ、そういう美醜に関してとかではなくて……なんて言うか……」

「じゃあナヨナヨした女っぽいのが良いとか?」

「うーん……あ、でもちょっとそっちの方がいい、かな。あんまり筋肉ガッチリ! みたいな人よりも」

「へぇ、変わってんね。キモイじゃん、男のくせにほっそい奴とか」


 自分の趣味をキモイと両断されたメラちゃんはあははと笑い流すのだけれど、私は何だかドキドキしてしまっていた。


 こ、これはまさか……。


 ――いや、冷静になれ、枝藤咲苗三十五歳。彼女は女みたいな男が好きと言っているだけで、女が好きなわけではなくて、そもそも私のことが好きかどうかも分からないわけで、いや、というか女みたいな男が好きとか一言も――


「枝藤さんはどうですかー?」

「あぇ?」


 声が裏返ってしまったことよりも、真っ赤に赤面しているであろう表情を見られる方が何倍も恥ずかしいんだぞと自分に言い聞かせた私は、先程のブーケを作る際に抜いた分の花を補充しながら、矢満田さんに応える。


「男のタイプ。どんなのが好きなんですか?」

「えー、特にないなー。誰でもいいよー、好きになってくれるなら」


 冗談めかして言ったつもりのこの手の発言を冗談に取ってもらえないのが三十代半ばの辛いところで、私もその辛さを重々承知していたつもりだったが、何だかまともな思考に至れないような、浮ついた気持ちに支配され、本音に近い思いをそのまま口走ってしまったことを後に猛省することになる。思い返せば、これがあの惨事を招く引金だったのかもしれないし。


「誰でもって……飢え過ぎじゃないですか? それ。女は四十台くらいが一番性欲が強いみたいな話聞いたことありますけど、あたしは四十にもなって性欲強いとかやだなー。なんかみっともなくないですか?」


 あれ? これって私批判なのか? でも私は未だ三十五だし、別に性欲だってそこまで強くもないし、彼女が批判している内容にはひとつたりとも適合していないのだから、恐らく彼女は私がこの先至ってしまうであろう末路を案じてくれているのだろうと推測し、「性欲強くてもみっともなくはないけど、見境ないのはみっともないかもね」と適当に話を合わせるのだけれど、彼女は「っていうかカレシはいるんですか? 枝藤さん」と返す。


 まともに付き合った経験など片手の親指が要らない程度しかない私は「いないよ」と即答する。


「流石に寂しくないですか? それ」

「うーん、どうだろ」


 何が流石なのかはさっぱりだけれど、寂しいという感情はできるだけ心の奥底から出てこないように厳重に封印してあるし、家に帰れば一秒でもいいからひとりになりたいと思わせられる日々なので、寂しいかと言われれば寂しくないと返したいところなのだけれど、しかし彼女の言う『寂しさ』はまた別の意味が含まれているのだろう。


 いい歳して彼氏も旦那もいない独り身の私に対し、寂しくないか? と問うているのだ。


 もしもそうであるのなら、私の答えも変わってくる。


 寂しいに決まっている。誰にも愛されない、愛を語らう相手すらいない人生が寂しくなくて何が寂しいと言うのだ。


「まぁ、そうね。でも慣れたよ、もう。彼氏も随分いないしねー。うち帰れば親もじいちゃんもいるし、毎日賑やかだよ」


 この『賑やか』に含まれる意味合いは、矢満田さんやメラちゃんが想像する騒々しさとは趣を異にするのだけれど、先程の矢満田さんの『寂しさ』云々に対する意趣返しみたいなもので、意図的ではあるけれど、だからと言って同情して欲しいからとか、そんなつもりは全くない。


「はぁ……」

「?」


 私が百円ショップで買ってきた、百円にしては可愛くて実用的でもあるミニ如雨露じょうろを、花束やラッピング等をする作業台の上に放るようにして置いた矢満田さんは態とらしい溜め息を吐きながら、「もうなんか……人生諦めてますよね、枝藤さんって」と、馬鹿にしたような、見下したような、そんな言い方を、彼氏のいない寂しい私はされてしまう。


「女捨ててますよね、それ。親の介護しながら一生終わらせちゃうんですか? よく遊ぶ男友達とかいるんですか?」

「いや……特に」

「でしょうね」


 心配そうに私を見詰めているメラちゃんとは視線を交わさないように矢満田さんに向き直り、「ま、そんなに悪くはない人生だよ」と、余裕を匂わせた達観したような台詞を吐くのだけれど、正直ちょっとダメージを負っている。


 彼女の見分は、強ち的外れとは言えないからだ。


「まぁ強がりたくもなりますよね。今からじゃ子供だって産めないだろうし、これから男と出会って付き合って結婚して――ってなるの、結構しんどくないですか? てゆか相手の方がしんどいんじゃないかな」


 ここまで言われて漸く気がついた私は間抜けだったのだろうか。それともあまりのショックに呆けてしまったせいで、事ここに至って気づくことになったのか。


 成程。今日の攻撃対象は私か。


 そして、メラちゃんに必要以上に優しく接していた理由も何となく察することができた。

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