第10話

 事件と言っても、窃盗だ強盗だという犯罪行為が発覚したわけではなく、ちょっとしたいざこざが起きたに過ぎないのだけれど、それでもこの小さなお店にとっては笑って看過できるような出来事では決してなかったのだ。


 発端は矢満田さんの発言だった。


 二十四日のクリスマスイヴの出勤メンバーは、私、小美野さん、メラちゃんの三人で、何事もなく無事終わった。


 そしてクリスマス当日、葉柳さん、小美野さん、矢満田さんの三人が出勤し、夕方、珍しく小美野さんから連絡をもらったのだけれど、どうやら矢満田さんが一日中不貞腐れてて大変だったとのことだった。


 どうやら最近彼氏ができたらしい矢満田さんは、その彼氏とクリスマスを一緒に過ごしたかったようだ。


 前日のイヴは彼氏が仕事だった為、自分は休みだったけど夜にちょっとだけしか会えなかったから、今日は相手も休みだし、折角一日中一緒にいられたのになぁという愚痴から始まり、その場にいないメラちゃんに対する苛立ちや、メラちゃんの失敗談を葉柳さんに注意するように進言し、挙句、この店はあれがおかしいここが嫌だとお店に対する小言が口を衝き出したようで、その日はオーナーも一時的にバックヤードにいたらしく、葉柳さんも少し強めにたしなめたようだ。


 しかし、口をつぐむどころか悪態は更に増長し、「そもそも花なんて今は誰も買わないから。売上だって悪いし、ここも潰れるんじゃないですか?」と言い放った彼女に、葉柳さんらしくもなく、彼女を怒鳴りつけたらしいのだ。


「帳簿の付け方ひとつ分かんねーガキが気軽にこの店はもう駄目だとか潰れるだとか分かったようなこと言うんじゃない」と、静かな声で、しかし、矢満田さんに向かって怒気を一直線に放ちながら、怒りを露わにしたとのこと。小美野さんはビックリしたと言っていたけれど、数年来の付き合いである私ですら葉柳さんのそんな一面は見たこともなければ聞いたこともなかったので、小美野さん以上に私の方がビックリしたよと返した。


 ブツブツ文句を言いながらも、最後まで仕事を続けた矢満田さんはお疲れさまでしたもなく、無言で帰って行ったらしい。


「最悪の空気でしたよー」と憔悴した感じの小美野さんに、「今日は大変だったね、お疲れ様」と労いの言葉を掛けて、電話を切ったあと、明日は平和に終わりますようにと、あまり輝きを感じない星空に願う。


 そして翌日の今日。


 本来は私の他に、古賀谷さんと矢満田さんの二人が出勤予定だったのだけれど、昨日の夜遅くにしゃがれた声で「明日休ませてください」という古賀谷さんから電話があり、「代わりの人は見つけたので」と言って彼女は電話を切った。


 てっきり小美野さんかなと思っていたけれど、実際現れたのはメラちゃんこと落谷さんだった。


「昨日電話が来たんですよ。明日代わりに出てもらえるかって。古賀谷さん辛そうでしたし、特に用事もなかったからOKしました」と、いつもの朗らかな笑顔で応えたメラちゃんは私にとって清涼剤以外の何ものでもなくて、私の荒んでいるのか寂れているのかもうなんだかよく分からない心中を柔らかいミントの香りでいっぱいにしてくれる。


 二人で楽しく二時間程仕事をしていると、遅番出勤だった矢満田さんが十一時一分前に「おはようございます」と小さな声で挨拶をしながらタイムカードを押す。


 もう二十回くらい「せめて五分前に」と伝えてはきたが、初めから聞く気など持ち合わせていない彼女は、毎度「はぁ頑張ります」と気だるげに返すのみで、数分の遅刻を物ともしない図太さは見習いたいところだけれど、正直、数分遅刻したからといってお店に損害をもたらすこともなければ、それで三十分分の給料をフイにして損してしまうのは彼女自身なので、私はもちろん、オーナー達も最近は何も言わない。


 そもそも論として、一般企業では一分どころか一秒の遅刻も許されない風潮があるけれど、果たしてこれはそんなにも大きなことなのだろうかと私は常々思っている。


 たかが数分だろうと。


 彼らの言い分としては、他の従業員に示しがつかないという理由が主なのだろうけれど、だったら三十分早く出勤することを義務化し、社訓にでも書き連ねておけばいいし、求人情報にも『始業は九時からだが八時半にはデスクについているように』と但し書きをする必要があるのではないだろうか。


 朝礼がある、何かしらの当番である等の理由があるなら未だしも、毎日毎日十分前には仕事開始できる状態にしておけなど、ただでさえ給料が発生しないというのに、ギリギリに来たからといってそれで叱責を受けるなどあまりにも横暴に過ぎるのではないかと、同僚の後輩に同様の講釈を垂れた私ですら思ってしまうところなのだけれど、社会とは理不尽さをどれだけ飲み込めるかで、生き易さが天地程も変わってくるというのは世の常でもあって、それがたとえ飲み込むのには大き過ぎる物事であっても、仕方がないと喉の奥へ躊躇なく押し込める人間であることこそが、最期の時を笑顔で迎えるには重要なファクターのひとつなのかなという気もする。


「あれ、今日古賀谷さんは?」


 エプロンをつけながら、矢満田さんは店内を見回す。


「あ、私が代わりに出ることになりました」


 今朝入荷したばかりの花に水を注していたメラちゃんは、馬の尻尾のように後ろでひとつにまとめたサラサラの髪をグルリと振り向き様に大きく振り、いじめっ子の矢満田さんに笑顔で応えた。


「ふぅん」


 興味なさそうに彼女はエプロンを整え、腰や腕を伸ばしたり、ストレッチを始めながら店内をうろつき出す。


 またぞろ、メラちゃんの失態を暴き出し、あることないこと並び立てて罵倒しつつストレス解消をしようと目論んでいるんだろうと看破した私は、今日は積極的に彼女を守るんだと決め、メラちゃんが嫌味のひとつでも言われようものならすぐに飛び出せる準備をしつつ、潰した段ボールを束ねて店の裏手にあるゴミ置き場に向かう。


 ここには店内からはいけないので、一度入口から外へ出て、店に沿って裏手まで行かなくてはならないので、雨や雪の日は少し面倒ではあるのだけれど、ゴミ置き場自体には屋根もついているし、走れば数秒の距離なので、誰かが文句を言っているのを聞いたことはない。


「ちょっとゴミ捨て行ってくるね」

「はぁい」


 メラちゃんの返事は群生するマリーゴールドに飛び込んで全身を包み込まれているようなくすぐったさを孕みながらも、仄かな暖かさを足の指先から頭の天辺まで感じさせてくれるような、なんとも柔らかく心地よい響きを私の耳に届けてくれる。


 こんなに可愛くていい子を傷付けさせやしない。


 私はさながら、姫を守るナイトのような面持ちで、颯爽と店外へと出、速足で店の裏手へと回る。


 金網にかかっている南京錠を開けようと、ポケットから八橋のキーホルダーがついた鍵を取り出したのだが、早く戻ろうと焦っていたのか、金網の向こうに落としてしまう。


「うわ……」


 面倒臭いな、というよりは、早く戻らなければならないのに、私はなんてミスを……! と、自分に対する憤りが勝ち、隙間から手を差し入れ、袖を砂埃塗れにしながらなんとか手にすることに成功した。


 ササッと開けて、ササッと放り、ササッと閉める。

 ごめんよ、メラちゃん。すぐに戻るからね。

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