第20話

 メラちゃんとの同居生活も一週間が過ぎると、色々なことに慣れ始めていた。


 火事の翌日、彼女の自宅に招かれた私は、明日から始めなければならない不動産屋巡りが面倒で仕方なかったけれど、とりあえず敷金礼金なしで即日入居できるところを探すよと、楽しくディナーを食しつつメラちゃんとそんな話をしながら、促されるまま一番風呂まで頂いちゃって、しかもメラちゃんのパジャマまでお借りしちゃって、私は床で寝させてもらうねとブランケットだけ借りようと地面に横たわる私の腕をグイと引き上げて、そのままベッドに押し倒された私は、おいおいまさかこれからとんでもないことが始まってしまうんじゃないだろうなと危惧というか喜々としていたというか、とにかく「いや、ちょっと、流石にこれは――」と年甲斐もなく赤面していると、「咲苗さんはベッドで寝てください 、床は私の場所ですから」と、よく分からない縄張り意識を発揮され、「それはほんとに悪いから」「いいえ、普段のお返しなのに、さっきもお世話になっちゃったし」「だからそんなの全然気にしなくて――」「じゃあ咲苗さんも気にしないでベッドに寝てください」「だから私がベッド使っちゃうと――」「床で寝るのが私の趣味なんです日課なんですこれだけは譲れません」「いや、早口で言われても、へぇそうなんだとは思わな――」「ほんとに、大丈夫ですからっ」


 なんて、そんな益体やくたいのないやり取りは、彼女が私の顔にボフッと押し付けた枕によってもたらされた沈黙で終了した。


 メラちゃんの匂いが染み込んだ枕は、なんというか甘美で妖艶で、芳醇な穫れたてピーチに頭から飛び込んだみたいに感じてしまう程に、この世のものとは思えない、麻薬にも似た快感を私に与えた。


 こんなにも素晴らしい感覚は、父親が捌いていたと思しき麻薬よりもきっと何千倍も素晴らしいもので、そんなハイリスクの薬に手を出さなくても、たった一人の人間が作り出す香りで胸が満たされてしまう私がおかしいのかは定かではなくとも、やっぱり好きな人の体臭って、ずっと包まれていたくなるものだなぁと、淫靡いんびな妄想に浸りかけてボーっとした私が諦めてベッドで寝ることにしたのだろうと看做した私の愛するメラちゃんは、うんうんと満足気に頷き、「じゃあ私は下で寝るので、ゆっくり休んでください。――あ、喉が渇いたら適当に冷蔵庫から出してくださいね」と、何も敷いていないフローリングの床にゴロリと寝転んだので、意外と野生児っぽい行動するんだなと新たな一面を発見しつつも、「あのさ、もしよかったら――一緒に寝ない?」だなんて、なるべく邪な意味合いを含ませていない感を装って訊いてみたところ、彼女は数秒黙考した後、「――咲苗さんが、良いんでしたら」と起き上がった。


 私は掛け布団を持ち上げ、飼い猫を招き入れるように「おいでおいで」をすると、メラちゃんは子猫よりも可愛らしい動作で私の胸へと飛び込んできた。


「なんか、高校の修学旅行以来です。こうやって女の子同士で寝るの」というメラちゃんに、女の子と呼ばれる適齢から二十年近く経過し、今や、所狭しと全身を網羅するセルライトに覆われた中年女子である私は苦笑いを返し、「人肌が恋しい季節だからねぇ」と枕に頭を乗せた。


 電気を消すために一度立ち上がったメラちゃんは「あの……小さい灯り、点けてても大丈夫ですか?」とおずおず聞く。


「あ、うん。大丈夫だよ。いつも点けて寝てるの?」

「私、お化けが怖くて」


 照れた彼女の顔をまじまじと見ていたかったけれど、照明が落ち、小丸電球だけになると、シルエットでしか認識できなくなってしまい、私は泣く泣く諦める。


「……咲苗さん」

「なぁに」


 背中合わせに横になってから一分程して、メラちゃんはこちらを振り向かずに言う。


「あの、咲苗さんさえよければ、ずっと、……ここにいてくれても、いいん、です、けど……」

「……」


 ずっと。ここに。メラちゃんと。


 これほど素晴らしい提案なんてない。極上の生物を毎日愛でることができるなんて、今の私には家賃百万円の高級マンションに住ませてあげるという話よりも価値がある。


 しかし、甘んじて受け入れるには、様々な壁があるのも事実なのだ。


 最大の理由は――新たな癖に目覚めてしまう危険性を危惧しているという、実に恥ずかしいものなのだけれど。


「有難いんだけどね。やっぱり申し訳ないよ。ここワンルームだし、常に誰かが隣にいるのって落ち着かないでしょ? メラちゃんだって学校の勉強もしたいだろうし、一人になりたい時だってあるはずだから」


 仲の良い同年代の友達ならまだしも、歳の離れたおばさんと相部屋だなんて、ぞっとしない話だ。

 しかし、そろそろおねむの時間なのか、若干舌っ足らずになりながら反論するメラちゃん。


「そんあことないです。むしろ私、一人でいるのが嫌なんです。一人にありたくないんです。いつでも」

「――学校でもそうなの?」

「……」


 黙ってしまったメラちゃん。


 寝ちゃったのかな? と顔を覗いてみると、細く目を開けたまま、声を出さずに口を動かしていた。

 寝惚けているんだろうなと、ブランケットをかけ、私も横になる。


「……ま、そこまで言ってくれるのであれば、意地でも出て行くだなんて言わないよ。私もメラちゃんと一緒に住めるなら嬉しいしね」


 聞こえていないだろうと見越して、独り言のように呟き、おもむろに目を閉じる。


 こんなにもゆったりとした気分で眠れるのは、何十年振りだろう。


 しかも、明日から暫くの間、毎日こんな風にメラちゃんという幸せに包まれて眠ることができるだなんて、嫌なことの後には良いことがあるというのは、強ち嘘でもないんだな。


 瞼を落とす前に目に焼き付けたメラちゃんのうなじを思い浮かべながら、良い夢が見れそうな期待を胸に、数分の後、眠りに落ちた。


 こうして私は、図々しくも、メラちゃんの住む八畳一間のマンションに居候として転がりこませてもらうことになったのだった。

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