第2話

 極々有り触れた学生時代を過ごした。


 小学、中学時代にいじめらしいいじめもなかった平和なクラスで伸び伸びと過ごし、卒業式には涙すら流した。もらい泣きだよと涙声で弁明をしたが、仲の良かった友達は、馬鹿にしたように私にもらい泣きしながら笑っていた。


 そして、その『普通』は高校に進学しても続くこととなった。


 地元と言っても良い位に近い高校を選んだのは、遠いと通学が面倒だからという理由に他ならないのだけれど、やはり同じような環境で育った人間が作るコミュニティの方が馴染むのも早いだろうと、打算的なことも考えていた。


 そして、同じクラスになった田南部たなべという、少しナヨナヨしているが、心根の優しい、優柔不断な少年と、彼とは逆に、一見とても横柄に見える堂々とした態度を隠そうともしない、当時既に百八十センチ近くあった大柄な海保かいほという少年の二人と仲良くなった。


 彼らは私の隣町に住んでいて、中学校も隣の学区で、近くの小さな神社で行われるお祭りや、多摩川沿いで行われる花火大会などの記憶も被っていて、ああやっぱり近場で育った人の方が話し易いなと、その高校を選んだ自分の判断が間違っていなかったことに安堵した。


 気付けば仲良し三人組みたいな認識を周囲にも持たれていて、一部の恋愛脳を持つ女子には「どっちと付き合うの?」などとしつこく聞かれたこともあったけれど、私自身も行動を共にしていた彼ら二人にも、好いた惚れたの浮いた話はなく、一度だけ海保少年に告白した低学年女子生徒がいたけれど、海保くんは好きな人がいると断ったらしい。


 彼女が欲しいなどと彼は一度も言ったことがなかったので、もしかしたら彼は田南部くんとホモセクシャルな関係なのかなと私は疑いを持ったけれど、彼の『好きな人』が誰なのかを私はこの数年後に知ることとなる。


 順調に学年を重ね、再び卒業式に涙を溢していた私を笑う者は、今度はひとりもいなかった。


 田南部くんは冷めた表情で、でもどこか寂しげで、私の充血した左目に水滴が溜まっているのを見るにつけ、顔を歪ませもらい泣きに耐えていた。


 一方で海保くんはといえば、全力で号泣していた。

 嗚咽を漏らしながら、ヒックヒックと泣いていた。


 流石に少し引いてしまったけれど、中学と違って、これからは社会人であったり大学や専門学校へ進学するのだ。地元を離れる者も多く、これを機に結婚する男女もいた。


 私が懇意にしていた友人も海外へ行ってしまったり、北海道や沖縄など、海を渡らないと会いに行くことができない場所へと住居を移す子もいた。


 そして私達ズッコケ三人組はといえば、こちらもそれぞれの道へと進むこととなった。


 田南部くんは大学へは行かずにフリーターになり、海保くんはそれなりに有名な私立大学へ進学し、私は女子ばかりの短大へと進学した。


 田南部くんは向上心がなく、やりたいこともなく、そして自分にできることを知ろうとしなかった。


 ただの怠惰だろうと彼を責める人もいるだろうけれど、彼はある意味では誰よりも自分のことを理解していたのではと私には思えた。


 自分にできることを知ろうとしないというのは、自分にできることが何か分からないから知ろうとしないというだけではなく、恐らく自分にできることが、できることの限界が、ある程度見えてしまった故に、怠惰を装って逃げることにしたのではと私は邪推した。


 それは現実逃避でもあり、責められるべきなのだろうけれど、責めたからといってじゃあ彼がやる気を出して自分探しの旅にでも出るのかといえば、彼の性格上、そんなことはあり得ないし、何より、己を知ったつもりになって諦めた人間を奮い立たせるのは、相当の話術やその人物の理解度が高くないと成しえない高等技術を要することであって、私にはもちろん、私以上に彼とは付き合いの長い海保くんでも無理だったのだろう。実際彼は田南部くんに対し何も言わなかったのだから。


 何より、たかが十八年程度で、自分の能力の底から頂点までを知り尽くすことなど不可能なのだ。


 そう、彼はだけなのだ。


 私が思うに、彼は繊細な心を持っている分、他人の感情の機微に聡い。細かいところにまで気配りができるかどうかはまた問題が別なのだろうけれど、それでも彼は争いを好まないし、他人を蹴落としてまで伸し上がろうとはしない為、上手く溶け込める職場にさえ入ることができれば、相当重宝されるのではないだろうかと私は睨んでいる。


 柔和な人間は、世間が思っている以上に少ない。


 争いを好まないなんて当たり前、他人と協調して、他人に同調して、ギスギス感のない明るく風通しの良い職場を作ることを誰もが望んでいて、それを実現する為の言動を多くの人が心掛けていると、信じて止まない人がいるけれど、残念ながらそんな考えの人間は極稀にしか存在しない。


 大抵は、自分が楽をする為ならば他人に負担を押し付け、自分が損をしない為ならば他人に罪を擦り付け、自分が褒められたいが為だけに、情報共有を敢えて行わないなど茶飯事である。


 日和見主義と気配りのできる人間はもちろん同一ではないけれど、それでも気が小さいが故に見える、剛胆な者にとっての死角に潜む闇やちりを、彼らは取り除くことができるのだから、一方的に無能だなんだと批難することは違うと思うのだけれど、彼の場合、最も批難しているのは自分自身で、まるで卑下することによって許しを得ているのではと思える位に自分の能力を低く見積もっているのだ。


 一般的には根拠のない自身に満ち満ちている筈の十代の身空でそこまで達観してしまうというのも寂しい限りではあるが。


 そして、彼とは逆に、自身に自信を感じていたのは海保くんであった。


 彼は自信があったというよりは、自分の能力をとてもよく理解していて、分析能力に長けていた気がする。


 どこまでならひとりでできるのか、どこからは手を借りないとできないのか、その辺りの線引きが高校生とは思えない程に、大人顔負けの客観視ができていたのだ。


 しかし、彼にも欠点はある。自分の事は深く理解しているのに対し、他人の心情にはてんで疎いのだ。

 恐らく興味がなかったのだろう。


 自分で言うのも口幅ったいけれど、海保くんは田南部くんと私に対してはとても好意的に接してくれたし、きっと自分の事のように色々と考えてくれていたのだろうと思う。特別視をしてくれていたのだと思う。


 だからと言って、他のクラスメイト達を蔑ろにしていたかというとそういうことでもなく、なんと言うか、彼の中では明確な線引きがあったのだろう。クラスメイトと話している時の彼は、相槌ひとつ取ってみてもどこかぎこちなく、私と田南部くんに助けを求めるように頻繁に目配せをする場面に何度も立ち合った。


 だが、彼自身に自覚はなかったらしい。無意識の内に私達、気の置けない仲間にヘルプを申し出ていたのだ。見方によっては田南部くん以上にセンシティブな一面もあり、もしかしたら不安定さでいえば田南部くんよりも海保くんのほうが上だったのかもしれない。


 そんな欠点とも取れる一面を、彼は持ち前のスペックで十二分以上に補っていたので、私と田南部くんは――何より本人も、然程問題視していなかった。


 陰で努力していたのなら私の認知するところではないのだが、特別勉強に勤しんでいる姿を見たこともないのに、テストでは常に平均点を大きく上回る高得点を獲得し、平均点ど真ん中に居座る私や、やや下回る田南部くんの称賛を受けても、しかし彼は得意になることもなく、事もなげにテスト休みにどこへ遊びに出かけるかの話を切り出した。


 照れ隠しなのか、それとも私達に同情して話題を避けたのかは定かではないけれど、彼は時々相手の気持ちを汲み取れないのではと疑ってしまうような言動をすることがあって、恐らくテストの話もその『彼らしさ』の現れなのだろう。


 無神経という言葉を使うと刺々しく感じてしまうが、ナチュラルに相手を傷付けるようなことを言い、痛みを負ったその人が顔を顰めても、そのまま話を続けるのだ。


 彼の友人関係を全て知っているわけではもちろんないので、私の知らないところで多くの男女に囲まれて過ごしていたのかもしれないけれど、少なくとも高校の校舎内では私達以外の生徒と会話を楽しんでいる姿を見た記憶はあまりない。


 運動神経も悪くはなく、顔も頭もそれなりに出来が良くて、他人の悪口で盛り上がるような性格もしていない彼は、もっと女子に人気があってもいいのにと田南部くんと話したことがあるけれど、海保くんは無意識の内にどことなく近寄り難い空気を醸しているのではと私達は同様の見解を見せ、その空気を感じ取った周囲の人間は、男女問わず、彼から少しだけ距離を開けるのではないかと、大きなお世話ながらもそう結論付けた。


 だけど、今以って海保篤という人間を、私は理解しきれていない。


 もう十年近く会っていない。

 二十代半ばに行われた同窓会が最後だったか……。

 それ以来彼がどこで何をしているのかも分からない。

 そういえば田南部くんから先日電話があった。


 彼は落ち込んでいるようで、相変わらずもどかしい悩み事に苛まれているみたいだった。


 きっと彼は私を能天気な女だと看做みなしているだろう。もちろんそこに悪感情はなく、揶揄しているわけでもなく、好意的に、好解釈をしてくれて、私という人間を一時的にとはいえ必要としてくれているのだろう。だからこそ、何度も連絡を寄越すのだ。


 ――考え事をしていたら、気付けば深夜二時を過ぎていた。


 花屋の朝は早い。今からだと後三時間くらいしか寝られない。


「……」


 私は隣室から漏れ聞こえる呪いの言葉が耳朶じだを震わせないようにと、百円ショップで買った耳栓を耳の奥の奥まで入れ、暫く洗っていない寝具一式に包まりながら目を閉じた。

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