第8話

「……ただいま」


 玄関を開けると臭気が鼻を突く。これは考えるまでもなく糞尿の臭いで、思わず目を閉じた私はその糞の主に「ただいま」ともう一度声をかける。


「……んあ」


 態とらしく今気付いたというていで私に向き直り、壁に塗りたくっていた茶色い物体をこちらに投げつけ、ニコニコと嬉しそうに笑う。


 ……これは私がこの世で一番嫌いな笑顔だ。


「……お父さんは?」


 祖父に問う。


「……んあ」


 本当は思考もハッキリしているであろう祖父は、わざと呆けた振りをして、トイレやお風呂場を指差し、糞塗れの人差し指を私に向けケタケタと笑う。

 こんな風になってしまった当初は、当然認知症を疑ったし、医師の診断を受けようと病院にも連れて行ったけれど、祖父は認知症ではないと医師は言った。なにやら色々と質問し、それに対して祖父が答えるという問診を繰り返した結果、認知症とは考えられないという結論に至ったらしいのだけれど、こちらとしては病気認定してほしかったというのが本音でった。


 しかし、医師の診断を覆すような医療知識もなければ、セカンドオピニオンを探す余裕は時間的にも金銭的にもない。唯一の頼りであるはずの父は、一切祖父に興味を示さないので、全て私が一人で祖父の対応をしている。役所に相談に行かなきゃとか、地域包括支援センターみたいなところにも行ったほうがいいのかなとか、色々考えてはいたけれど、日々の仕事と家事に追われ、なかなか行動に移すこができず、現在に至る。


「……おじいちゃん、それ、お風呂で洗おう」


 んあんあと入れ歯を外した口許で何やら喋っている祖父の両脇に手を入れ立たせようとすると、くすぐったかったのか、私の手を振り解き、ワキャキャキャと笑い転げる。


「……おじいちゃん、立てないなら引き摺っていくからね」


 尚も足をバタつかせ転がる祖父の足を掴み、ズルズルとお風呂場へと連れて行く。お尻の辺りにたくさんついていた汚物がフローリングの床を汚す。私はそれを見て顔をしかめてしまうけれど、その表情を祖父に見られたらどんな態度に出られるか分かったものではないので、気付かない風を装い、脱衣所で祖父の服を脱がし、シャワーの温度を確かめる。


「……大丈夫だから、這入って」


 マットを引き、祖父を浴槽の前に立たせ、威力を弱めにしたシャワーを肩からかけていく。


 呆けた顔でどこか一点を見詰めている祖父の横顔を見ていて、何やってんだろ……私と、自虐的な思考が芽生えてしまうのを必死に押さえつけながら、この後すべきことを考える。


 まずは祖父を着替えさせて、床を拭いて――あぁ、壁も拭かなければ。その後ご飯を作って――


「おい、ビール買ってきたか?」

「……ううん」


 今後の予定を思案する私の思考を遮ったのは、アルコールに依存しっ放しの父親だった。


「はぁ? つっかえねーな」


 ドン! と、祖父にシャワーをかけながら屈んでいた私の背中を父は割と強めに蹴りつけ、丁度ブラのホックの上だったこともあって、色んな痛みが背中を襲う。


「ごめん、忘れてた」

「すぐ買ってこいよ」

「――おじいちゃん、洗い終わったら」

「ほっとけ! そんな死に損ない!」


 ガン! と苛立たし気に脱衣籠を殴りつけ、居間に引き上げていく父を背後に感じながら、祖父の身体を洗い流す。


「はい。自分で服着れる?」

「んあー」


 ニヤニヤと笑いながら、口の中で作った痰の塊でうがいをする祖父。


「……ちょっと待ってね。持ってくるから」


 祖父の部屋の箪笥を開けると、長袖のシャツが一枚も入っていなかった。


「あれ、洗ってなかったっけ」


 さっき父が殴っていた脱衣籠を思い浮かべる。


「……あぁ、なんか山盛りだったな」


 そういえばここ数日は洗濯をした記憶がない。曇り空が続いていたこともあって、後回しにしていたのだった。


「まぁ、どこに行くわけでもないし、洗いもののとこにあるやつでいっか」


 再び脱衣所へ。祖父はお風呂場の排水溝に干乾びた陰部を入れて遊んでいた。


「……あった。――ん? なんか変な臭いが」


 電灯に近付けて見てみると、広範囲が黄ばんでいる。臭いからして明らかに尿をぶちまけたようだ。

 殆ど全てのシャツに染み込み、祖父の肌着は全滅だった。

 仕方なく父のシャツを拝借しようと思い至った瞬間、背後に気配を感じた。


「……いつまで待たせんだよ。ビールは?」


「おじいちゃんに服着せたら買ってくるよ」と、大きく舌打ちを立てた父に黄色い染みがついたシャツを見せながら告げると、彼は嫌そうに顔を歪める。


「俺のやつ、ぜってージジイに着せるなよ。そいつくせーからよ」


 実の父親に向かって、彼はそんな言葉を容易く口にした。


 しかし、祖父は既に機能のひとつを失っているであろう自らの生殖器に手桶を乗せ、そっと隙間から覗いてはまた隠し、そしてまた覗くという謎の遊びを繰り返していて、息子の悪態に対して何を思っているのかよく分からない態度で私に笑いかける。


 ――私はもう、心が動かなくなり始めている。これが通常なのだから。


 いつもの自宅。

 いつもの地獄。

 いつもの光景。

 いつもの絶望。


 ――私には、お金がいる。

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