第17話

 ネットカフェで一夜を明かそう。今日は考えるのも疲れた。何より一睡もしていないのだから、眠くて仕方ない。ええと、この辺にあったっけ。いや、ちょっと歩かないとないか。タクシー代なんて勿体なさ過ぎて使えないし、やっぱり歩いて向かうしか――


 ピリリリ。


 なんの面白みもない着信音が鳴り響き、身体をびくつかせつつ鞄からスマートフォンを取り出すと、メラちゃんからのラインだった。


『もしよかったら、今日ごはん食べませんか?』


 まさかのディナーの誘いだった。


 ランチはよく一緒に食べているけれど、ディナーは初めてで、別に深い理由があって避けていたわけではないけれど、なんとなく、仕事終わりにどこかに一緒に行くということは一度もなかったのだ。


 それがこのタイミングでなぜ――とは流石に思わない。


 傷心しているであろう私を、彼女は元気づけてくれるために、食事に誘ってくれたのだろうことは一目瞭然であり、むしろ他に理由を探すことのほうが難しい。


『うん。大丈夫だよ。どこで待ち合わせよっか?』


 返信後五秒も経たずに電話が鳴る。


「もしもし」

「あ、お疲れ様です、落谷です」


 耳元で囁かれるキュートボイスは耳障りが良過ぎて、疲弊した私の脳にクラシック音楽よりも穏やかな癒しを与えてくれる。


「咲苗さん今どこにいますか? お店出たところですか?」

「うん、そうだよ。どうしよっか」


「私は今家なんですけど――、じゃあ、咲苗さんの家と私の家のちょうど間くらいがいいですよね」


「うーん、それはありがたいんだけどね、いやー私家燃えちゃったからさ。今日はネカフェで夜を明かそうかと思ってたとこなんだよね。だからごはんはどこでもいいよ。なるべく駅近くのほうが嬉しいかも」


「あ……」


 それから暫しの沈黙の後、おずおずと彼女はこんな提案をしてきた。


「あの、もしよかったら、うちに泊まりませんか……?」

「え? いや、流石にそれは悪いよ」


「いえ、私一人ですし、迷惑かかる相手もいませんから、咲苗さんさえよかったら……」

「うーん……でも」


「全然気にしなくていいですから。私なんていないものと考えてもらってもいいですから」

「まぁ家主をいないものとして泊まらせてもらう程心苦しいこともないけどね。――ほんとに大丈夫だから。こう見えて結構な年齢の大人だからね、自分で何とかするよ」


「でも……あの……ほんとに、気にしなくていいので、よかったら」


 引かないなぁこの子。この前の矢満田さんとの喧嘩の時といい、実は意外と我が強いというか、考えを曲げないところがあるのだろうか。


「……分かった。それじゃあ、お言葉に甘えて、今日は泊めてもらおうかな」

「ほんとですか!? よかったぁ……じゃあ、部屋片づけておきますので、ゆっくり来てくださいね。あ、うちの場所分かります?」


 リアクションが私とメラちゃんで逆な気もするけれど……余程日頃の私に恩義を感じてくれているのだろうか、ここぞとばかりに恩返しを企ててくれているかのようで、とにかく微笑ましい気もするが、一回り以上離れた少女とも言える女の子の家に厄介になるなんて、年長者のプライド云々は抜きにしても気が引けてしまうのだけれど、彼女の情熱を帯びた勢いに押されてしまった私は、心のどこかで宿代が一日分浮いてラッキーとも思っていた。


「住所は分からないけど、何となくの場所は前に聞いた気がするなぁ」

「それじゃあ住所送りますね。家の向かいにローソンがあるので、近くまで来てもらえれば分かると思います」


「そうなんだ。ありがと。じゃあそっち向かうね」

「はい! 待ってます!」


 パタタタとスリッパで走り回る音をさせながら電話は切れ、お客さんとして迎えてくれるつもりなのだろう、おもてなしの準備に奔走してくれるのはありがたさより申し訳無さが勝る。


「ふぅ……ま、あんまあれこれ考えてても仕方ない。今日は無心でお世話になろう」


 そう決意し、メラちゃん宅に向かいつつ、スーパーに寄って下着と食材を買い込む。


 家に着いてから外食しに出かけるということもないだろうし、食事を作って食べることになるだろう。いつもは三人分の食材をなんとなく計算して買っていたので、女二人分だとどれくらいの量で足りるのかなと測りかねつつ、適当に肉や野菜を買い込んで、送られてきた住所を頼りにメラ家へ向かう。


 スーパーを出て十数分後に辿り着いた天使の住処は、住宅街にぽつんと佇む三階建てのこじんまりとしたワンルームマンション。最寄り駅から徒歩二十分ほど離れた場所にある八畳の1Kで、家賃は五万円らしい。


 築年数はまだ五年位なので、広さと新しさを考えてもそれなりに良い物件を選んだようだ。


「あ、お疲れ様ですっ」


 インターフォンを鳴らすと、まるで主人が帰宅したときの飼い犬のようにパタタタと走る音が聞こえ、ガチャリと扉が開くと同時に飛び掛かってくるんじゃないだろうなと思われるくらいの満面の笑みで出迎えてくれた。


「こんばんは。ごめんね、ちょっとだけお世話になります。あ、これ買ってきたから、なんか作るよ」


「わっ! ごめんなさい、ありがとうございます。そっか、私、何にも考えてなかった。そうですよね、うちでごはん食べたほうがいいですよね」


 どうやら彼女は外に食べに行くつもりだったらしい。しかし、今から外出するのも、正直疲れ切っている私は遠慮したいのが本音なのだけれど。


「じゃあ、うちで食べましょう。せっかく買ってきてくれたんですから。もちろん私もお手伝いします!」


 腕捲りをした彼女の手首はとても細くて、標準だと思っていた私の腕が女子プロレスラー並みに太く感じてしまうけれど、全体的に華奢である彼女が細過ぎるのは本人も自覚はあるだろうし、こんなに若い子と競っても虚しいだけだと自分に言い聞かせ、「じゃあ二人でちゃちゃっとやっちゃおっか」とキッチンに立つ。


 料理上手とは口が裂けても言えない私でも、それなりに経験はあるので、最低限の包丁捌きや調味料の扱いなどはできるつもりだけれど、隣でおっかなびっくり慣れない手付きでニンジンの皮を剥いているメラちゃんを見ていると、自分が一流のコック並みの技術を持っていると勘違いしそうになってしまう。


「メラちゃんはあんまり料理とかしないの?」

「えと……はい。えへへ、私、不器用で」

「そうなんだ。なんか意外だね」


 メラちゃんは美術の専門学校に通っていて、バイトがない日は学校で終日絵を描いているらしい。さぞかし自宅にも絵具やらキャンバスやらの絵画セットが散乱しているんだろうなとイメージしていたけれど、スケッチブックが数冊と、数本の色鉛筆やマーカーがあるだけで、とても絵描きの家とは思えない品揃えだった。


 画家の卵とはいえ、手先がそれなりに器用じゃないと、上手に絵を描くこともできないのではというのは如何にも素人考えだけれど、実際はどうなんだろう。


「不器用な人もいっぱいいますよ、有名な画家さんたちにも」

「ふぅん。ということはやっぱ『絵は心で描く』ってことなのかな」


「どうなんでしょう……でも、綺麗な丸をそらで描くことができる人の絵が魅力的なのかって言ったら、必ずしもそうじゃないですし、人を感動させるのって技術以上の何かがある気がします」


 そういうものなのだろうか。

 まぁ、そういうものなのだろうな。


 漫画すらほとんど読まない私には興味のない世界の話だから、理解が及ばないのも無理ないんだろうけど。


「いたっ」


 刃物を使用しているときに話しかけた私に全責任はあるのだけれど、はにかみながらこちらを向いた彼女は自分の親指の皮も剥いてしまう。


「平気?! 絆創膏ある?」

「あ、えっと、どこだったっけな……」


 血の量からしても浅い傷なのは明らかだったけれど、それでも怪我をしている彼女にあちこち探し回らせるのもどうかと思い、「とりあえずこれで押さえておいて」とポケットティッシュの袋から全て取り出し、メラちゃんに渡す。


「そこのコンビニで買ってくるから、ちょっと待ってて」

「……すみません」

「ううん。完全に私が悪いから」


 仕事中に失敗したとき同様の動揺っぷりを見せたメラちゃんに明るく笑いかけ「すぐ戻るからね」と、財布だけ持ってローソンまでダッシュ。ゼェゼェ息を切らしながら消毒液と絆創膏を買い、またもダッシュ。


 ものの三分程度で帰宅し、メラちゃんの指に治療を施し、「あとは私がやるから、メラちゃんはテレビでも見てて」と、キッチンへ立つ。


「なんか、ごめんなさい。私が招待したのに、家でもお世話になっちゃって」

「何言ってんの。これからお世話になるのは私でしょ。正直滅茶苦茶助かったんだからね。一泊の宿賃すら惜しまないとならない身だからさ」


 下手糞なウインクをしてフライパンを振る私を見て、少しだけ卑下する気持ちが収まったのか、それとも私のつたない料理の腕を盗もうとしているのか、ふむふむへ~へ~言いながら、野菜を炒める様を横で見詰めていたメラちゃんは、母親の料理している姿を尊敬の眼差しで見詰める幼子のようで、もう半端ではない愛らしさを醸していた。

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