第14話

「あぁ~たーすけてたーすけてぇ死んじゃううう」


 着信画面に『自宅』と表示された時点で粗方察してはいたけれど、予想を裏切らない祖父の馬鹿にしたような声がスピーカーから漏れ聞こえた。


「あひゃはや~たすけてたーすけてー」

「……すぐ帰るから、静かにしてて」


 最早病気を疑いたくなるほどに祖父の構って欲しい時に捏ねる駄々に辟易としていた私は、怒りを露わにすることだけは避けようと、冷静に窘める。ここで声を荒げてしまったり、祖父の機嫌を大きく損ねてしまうようなことを口走ってしまえば、地団駄を踏み、大声を張り上げる可能性もあるからだ。近所迷惑になってしまうのだけは避けたい。身内以外にかける迷惑は極力なくしたいのは当然だし、何度か近隣住民から苦情が入っていると大家さんに言われたことがあるので、年々私は神経質になっているのだ。何より時刻は現在夜の十時を回っている。そろそろ大人も就寝し始める時間だ。


 オーナーと葉柳さんと三人で簡単なミーティングを閉店後に行っていたので、帰りが少し遅くなってしまったのは申し訳ないけれど、昨日作ったカレーはまだ二三日は持つくらいの量があるはずだし、何より父がいるはずだ。


 ……まぁ食事の用意なんてしないか、あの人は。


 ご飯くらい自分で用意して欲しいと私は祖父に対し常々思っているのだけれど、一度強く窘めたことがあり、その翌日に冷凍食品を温めるどころか解凍すらせずに食べ、歯をボロボロに折ってしまったこともあったので、最近は必ずカレー等、すぐに食べられ、最悪火を通さなくても問題ないようなものを用意しておいている。夏場は冷蔵庫で冷やしているので、美味くはないけれど、死に至るような病気が発症することもないだろう。


 近所のスーパーは八時で閉まってしまうので、今日は何も買わずに帰ろうと、寄り道せずに真っ直ぐ帰途に着いた私は、夜半にしては今日はやけに人とすれ違うなと気になっていたのだが、その理由は、自宅アパート前に着いて漸く判明した。


「下がってください!」という怒声を上げた消防隊員に、スマホを構え写真や動画を撮ろうととしていた見物人達はブツブツと文句を言いつつアパート前に屯ろしつつも、「スゲー火出てるよマジ」とか「これ結構ヤバイやつじゃね?」とか、電話を耳に当て目の前の惨事を愉しんでいる。


 そう、大惨事だった。アパートの一室、私と父と祖父が住む部屋からもうもうと深夜の真っ黒な空に煙を立ち上げ、目が痛くなる位強い光を放っている炎は、天井を突き抜け、そこから更に数メートルの高さにまで登っていた。


「ちょっと――」


 ちょっと待って欲しい。――あれ、あそこはうちで、今誰が家にいるんだっけ?


「下がってください!」


 若い消防隊員に押しやられ、後方のブロック塀に背を預けながら、茫然と立ち昇る炎を見詰めていた。


「なにこれ……」


 落ち着け。――いや、落ち着いている。落ち着き過ぎているからこそ、身体が動かないのかもしれない。家には間違いなく祖父がいる。数分前に電話で話したからそれは確実だろう。通話を終えた直後に外出した可能性もなくはないが、それでもあの祖父が外に出るとは思えない。


 そう、あそこには祖父がいる。満足に動けない祖父が。糞尿を垂れ流し、垂れ流した糞尿で遊ぶ祖父がいるはずだ。ならば私は助けに向かうべきか? 向かうべきではないというのが当然の答えだ。ど素人の私が駆け込んで救われる命などひとつたりともないだろうし、二次被害を受けて迷惑をかけるだけだ。では「中に祖父がいるんです! 助けてください!」と取り乱して消防隊員に哀願すればいいのだろうか? そうだ、これは伝えておくべきだろう。取り乱す必要こそないけれど、中にいる人間に心当たりがあるのなら、申告しておくべきだ。救助するにもそれが分かっているのといないのでは大きく違いがあるはずなのだから。


「あの……」

「下がって!」


 野次馬と間違えられているのだろう、険しい表情で私をまたも押し戻す経験の浅そうな隊員に「住人です」と告げ、「中に祖父がいます。多分、父も」と短く伝えた。


「あ……」


 キョロキョロと周りを見渡し、先輩隊員らしき人物に「住人の方が……」と何やら報告をし、「203の――枝藤さんですか?」と確認される。


 私は首肯し、燃え盛る二階建てアパートの一室を見上げる。


「現在救助に向かっていますので、こちらでお待ち下さい」


 促されたのは消防車の脇で、近くに住む大家さん夫婦が心配そうに私を見ていた。


「あの……すみません」

「大丈夫なの? おじいちゃん」


 私は頭を垂れたけれど、その謝罪は受け取られず、六十代半ばくらいの奥さんが祖父の心配をしてくれているようで、ああ、これなら弁償とかしなくても済みそうかなと、胸を撫で下ろしたい気分になった。


 こんな事態に、何を考えているんだ。


 そんな風に、自己叱責をすることなどできなかった。私は祖父の無事より、近隣住人の無事より、出ていくことになるお金が心配だったのだ。


「多分……少し前に電話があって、家にいたのは確認してるんですけど」

「あらそう……怪我してないといいわねぇ」


 彼女は彼女で少し楽観的にも思えたけれど、火災保険には入っているだろうし、もしかしたら大家さんの懐は痛まないのかもしれない。寧ろ、住民の不注意による火災のお陰で、新しく建て直しができるのであれば、それは万々歳なのかもしれない。


安東あんどうさんと野口のぐちさんは無事でしょうか……」


 そう、あそこまで大きく火の手が上がっているのだ、隣人にも被害は及んでいるだろう。


 202の野口さん、205の安東さん、どちらも中年夫婦で、この時間には家族全員が自宅にいるだろうと思われるのだけれど、彼らは大丈夫なのだろうか。


「野口さんは留守だったみたい。安東さんはすぐに火事に気付いて、息子さんと奥さん連れて外に批難したから無傷よ。通報したのも安東さんだし」


「あ、そうなんですね。よかったです。他の部屋の方も……?」

「ええ。怪我人はいないみたい」

「そうですか」


 思わず息が漏れる。本当によかった。これでもし死人でも出ていようものなら、どれだけの金額を失うことになるのか分かったものではない。身内が火事を起こしてしまった場合の損害がどれ程のものになるのかは分からないけれど、数十万程度のはした金で済むとは到底思えないし、もしも多額の請求をされてしまったならば、身体を売ってでもお金を作らなければならないのだから、これは文字通り死活問題になっていただろう。……どれだけ喫緊に迫られたとしても、売れる身体など私にはないのだけれど。


「咲苗」


 振り返ると父がいた。


 神妙な面持ちで、薄手のダウンをTシャツの上から羽織り、下はジャージ、親指ら辺に穴の開きかけたスニーカーの踵を踏んで履いた父は、パッと見浮浪者みたいで不審者そのものだったけれど、紛れもない、私が三十五年間見続けてきた、血を分けた肉親の顔をしていた。


「お父さん……家にいたの? おじいちゃんは?」

「……」


 彼は無言で二階を見上げ、「……まだ中にいるんじゃないか」と他人事のように呟いた。


 大家さんに軽く会釈だけして、これから警察に事情聴取を受けるからとその場を後にした父は、何だか生気が感じられなかったというか、感情そのものが感じられなかった。


「大丈夫かい? あれだったら、一旦うちにおいで」


 奥さんはそう言ってくれて、旦那さんも隣で頷いていた。


 放水が止まり、黒ずんだコンクリートの建物は私が住んでいた部屋だけ綺麗に燃えてしまい、隣室までは殆ど火の手が回らなかったようで、水浸しにはなってしまっているだろうけれど、甚大な被害を齎したとは思えない。当事者の私が不幸中の幸いと言っていいのかは分からないけれど、とにかく鎮火されて一安心――と思いきや、二人の救急隊員が前後で担架を持って階段を下りてくるのが見えた。


 担架にはシーツのようなものが被せられていて、明らかに人が中に横たわっているのが分かる。


 微動だにしていない様子の『人』と思しき物体は、救急車の後ろに乗せられ、バタンと小さな音を立てて閉められた。


 ギュルルルルとエンジンがかけられ、動かなくなってしまっていると思しき『誰か』を乗せて救急車が動き出した時、消防隊員の一人がストップをかけた。


 彼は私に走り寄り、「おじいさんが救助されました。同乗お願いします」と、拒否は許されないような言い方をされ、私は一も二もなく再び開けられた後方のドアから、中に這入る。


「……」


 無言で軽く頭を下げられた。


 それは明らかに「お悔やみ申し上げます」という意味を含んでいて、むしろそれ以外の意味は汲み取れなくて、全身にかけられたシーツを私は勝手にズラし、顔を見る。


 救急隊員は私の行動を止めずに、「……ご家族の方で、お間違いありませんか?」と問う。私は頷く。


 祖父だった。私の知っている、父の父だった。


 もしかしたら、確実に遺体だと分かる救助者の場合は、身体がどんな状態であろうと何かをかけて人目には見えなくしてしまうのではとも思ったけれど、祖父の場合はそれ以前に、人に見せていいような形をしていなかったからなのかなと、安らかとは言い難い、黒焦げになった胸元から上を見て思った。


「……自殺ですか?」


 なんとなく、独り言のように質問した。隊員は言葉を選びながら、「原因は今のところ判明していません。キッチンに倒れていたところを見ますと、火の不始末が一番疑わしいですが、それも断定はできません」と言い、その後は一言も口を開かなかった。


 私は泣かず、慌てず、多分動揺も混乱もしていなかったし、何なら祖父の介護から解放された喜びすらあって、ああ、これでひとつ枷がなくなったなんて罰当たりなことを考えていた。


 でもちゃんと、お悔やみの気持ちも供養してあげようという思いもあって、私はそこまで人でなしではないんだろうなと祖父の死を然程哀しんでいない自分を慰め、そういえば父はどうなったかなぁと、異常なまでに揺れる車内で警察に連れて行かれた父に思いを馳せていた。

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