Ⅴ 天使が吹く破滅へのラッパー②

 法王庁の建物に戻ったルカは、同僚のマルコを探した。


「いたいた、マルコ! ちょっと頼みがあるんだ」

「なんだよ。お前準備も手伝わないで、一体どこに行ってたんだよ?」


 大きな机の上には、これから売りに出す蝋燭が並べられている。


 復活祭の前日「聖土曜日」の日没から「復活の主日」の夜明けまでの間に、主キリストの復活を待ちつつ祈り、死から生への過ぎ越しを祝うのが復活徹夜祭である。

 この夜、ローマ法王が執り行う復活徹夜祭は「光の祭儀」から始まるのだ。


 祭儀では、法王の蝋燭から信徒たちへの蝋燭へと炎を移していく。蝋燭にはキリストを示すXの文字の焼印を押してあり、これをヨーロッパ中から押し寄せる信徒たちへ販売するのだ。


「悪い。急ぎの用事があって、薬草園に行かなきゃならない。一つ頼まれてくれないか?」

 逃げ出そうとするマルコに飛びついて、ルカはお願いしますと頭を下げた。


「法王猊下げいかの復活徹夜祭ミサに入り込めないかって? そう言われてもな……」

「頼むよ。マルコの人脈で何とかならないか? どうしても直接猊下のお耳に入れたいことがあるんだ」


「それって、カメルレンゴやカミロ主任司祭の死にまつわる事か」

「そうだよ」

 真剣に頷いたルカに、マルコは無下にするわけにもいかないと唸った。


「わかった。やれるだけはやってみる。けど約束はできないからな」

「うん。恩に着る! 今度何でも好きなもの奢るからさ。乾燥パスタが流行ってるって知ってるか?」


「俺みたいに貧乏癖がついた神父が知るわけないだろ。とっとと行けよ」


 マルコならきっとやってくれるだろう。ルカは急ぎ足で法王庁の更に奥にある薬草園へと向かう。


「チャオ。アルミロ師はいますか?」

 さすがに今日はここにも人の姿は見えない。だが「毒ジィ」と言われ変人で通っているアルミロ師が、復活祭の手伝いをするとは思えなかった。


「おう、ルカか。ここじゃ。ここ」

 かがみ込んで雑草を抜いているらしい。鶏の骨のような手だけひょこっと出てきて、手招きされた。


 生えているのが薬草なのか雑草なのか分からないので、踏まないよう慎重に奥へと進んでいく。師と呼ばれる痩せた老人は、青黒い血管が顔や手に浮き出て、左目が白濁している。二本しか残っていない歯でニイと笑った。


「復活祭の準備をサボって何をしておる。そんなことでは出世できんぞ」

「いいんだよ。俺はアルミロ師と同じで、出世しようとしない変人なの。ちょっと見てもらいたいものがあって」


 ルカはイメルダから預かった、香油の洒落た小瓶を開けた。


「これが何の香油か分かるかな。毒物の可能性が高いと思っているんだ」

 アルミロ師は手であおぎ、立ち上る香油の香りを嗅いだ。途端に顔をしかめる。


「青みがかっておるの。じゃが奥にある毒の香りは消せておらぬわ。ベラドンナじゃよ」

「すごい、たったこれだけで。さすがバチカンの生き字引だ」


「いやはや、天使の見た目で中身は悪魔とな。こんなものを作る奴はロクな者ではないの」

 毒ジィは可憐な小瓶をルカへ突き返す。


「ベラドンナには強い幻覚作用はある?」


「あるぞ。根と実が特に毒性が強くての。最悪は呼吸困難で死に至る。じゃが葉の汁を目にさせば、瞳孔が開いて瞳が大きく見えるというて、化粧法にもなっておるぞ」


「えっ、化粧品によく使われるの? そっか。それなら女たちは抵抗なく使うよな」


 入手したのは香油と口紅だけだったが、深堀りすれば他にも出てくるかもしれない。


「ベラドンナ液に触ると、かぶれることがあるのかな。これ、手に湿疹ができちゃってさ」

「ふむ。他に心当たりがないなら、ベラドンナじゃろう」


 額縁に濃度の高いベラドンナ液が塗られていたので間違いないだろう。触れた皮膚や、すぐ近くで吸った香りから毒を摂取し、シルヴィアとマリアンナは幻覚に狂乱となり、自殺したのだ。


 ルカは楽園の三人の娼婦の死に様を話し、思い当たる毒はないかとたずねた。アルミロ師は少し考え、よっこらしょと腰を上げる。曲がった上体をゆらゆらさせ、小さな建屋へ入っていくと、室内ほとんどの面積を占める大きな書架がそびえていた。


「上から二段目の、右から五番目の本を出しとくれ」

「鉱物の図譜? もしかしてアルミロ師が作ったの?」

「そうじゃよ。鉱物にも毒はあるんじゃて」


 見上げる高さは、はしごで上らなければ届かない。古びたはしごをギシギシ言わせて目的の本を手渡すと、アルミロ師は指を舐めてページを繰っていく。たくさんのスケッチとともに、何重にも説明が追記されたそれは、出世よりも探究を求めた毒ジィの粋だと思った。


「全身に黒い硬質の斑点ができるのはこれじゃな。オーピメント(石黄)という。黄色の絵の具の原料に使われることがあるぞ」

 絵の具の原料。ルカの腕に鳥肌が立った。


「でもあの絵に黄色はなかったな……」

「ふむ。インディゴ(藍)を混ぜて作れば緑色になるぞ。マラカイトという高級な石も緑色の原料で毒がある」

「それだ!」


 聖母マリアは赤のドレスに、エメラルド色のローブを羽織っていた。


「絵のすぐ近くにいたら、やっぱり毒を少しずつ吸い込んだり吸収することになる。だから即死じゃなくて、何日かかかったんだ」


「じゃが最後の全身が紫色に変色したというのは、すぐには思い当たらんの。ワシも調べてみるが、おぬしも手掛かりがないか、もう一度現場を見るべきじゃ」


「わかった。ありがとう、アルミロ師」

「なんの。若者の役に立つと寿命が延びるというものよ」


 アルミロ師に別れを告げ、サンタンジェロ橋を走って渡る。休む間もなく向かうのは、本日二度目の楽園イル・パラディーゾだ。


 途中、あるものが目に入った。人が何十人も集まっている。それも一か所ではなく、通りを越えるとまた別の人だかりができているのだ。


「これは……ッ!」

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