Ⅰ 魔女狩りと呪われた絵ー④
「実は娼婦が亡くなったのは三人目なの。最初のアンジェリカねえさんは、全身に黒い斑点が出て、髪の毛がほとんど抜けて死んだわ。次のシルヴィアねえさんは悪魔がやってきたと半狂乱になって、紐で自分の首を絞めた。ヴィオラねえさんは見た通り、全身が紫色になって死んでいたの。三人とも死の間際まで苦しんだのよ。なぜあんな死に方を……、普通ではないわ」
「そうだな、
「そうでしょう? きっと病ではないのだわ。それで今朝、ヴィオラねえさんの部屋で気付いたの。黒い涙を流す、呪われた聖母子像の絵よ」
「絵?」
「あれは元々アンジェリカねえさんのだったわ。とても価値のある絵だと嬉しそうに話していたもの。形見だと引きとったシルヴィアねえさんも変死して、その後ヴィオラねえさんのところでもまた、新たな涙を流しているわ」
「確かに不気味だな」
その時、ドカッ! と音と共に何か大きなものがこっちへ飛んでくる。
木製のしっかりした造りの扉だ。状況を理解できぬまま、ルカは扉と長椅子に上下を挟まれていた。
ステンドグラスの
「貴様、何者だ」
「イタタタタタタッ! 重たっ!」
「答えろ」
タチの悪い酔っ払いか。いや、覗き込んでくる男の切れ長の目は恐ろしく冷えている。痛みや恐怖というものを、母親の腹の中に忘れてきた顔だ。人を痛めつけるのに何の罪悪感も感じていない。絶対に関わってはならない輩だと直感する。
「うぐっ、苦し……」
「今日は早かったのね、バベル。あなたが来るまでの間と思ったのだけど」
すぐ隣でアヤは、慌てたり怖がる様子もなく淡々としている。
「こんな貧乏人が金を払えるはずないだろう。なぜ相手にする」
「ねえさんを三人も失ったわ。アンジェリカねえさんの聖母子像の絵を、シルヴィアねえさんもヴィオラねえさんも持っていた。あの絵は呪われているのよ。でもおかあさんはこれ以上、
そこまで聞くと、男はようやくルカと扉の上から足を下ろした。
「見ず知らずの人をいきなり扉で踏みつけるか⁈」
扉の下から這い出たルカが噛み付かんばかりに叫ぶが、男は気にも留めない。
するとアヤの潤んだ瞳に見つめられた。ルカの中に沸いた怒りは瞬時に消え去り、ただ熱く甘い気持ちだけが胸に広がる。
「わたしはねえさんたちに何が起こったのか真実を知りたい。だからお願い。呪われた絵を、ねえさんの死を調べて」
アヤの瞳から一粒だけ涙がこぼれる。なんて綺麗なものを見せてくれるのだろう。
改革派の根城を調査しに来たことなど、ルカの頭からきれいに吹き飛んだ。
「もちろん。一緒に解決しよう。約束する」
即答したルカ。だがすかさず男の屈強な腕が割り込んできて、胸倉を掴まれる。
「アヤに馴れ馴れしい口をきくな」
「ぐ……離せ」
ルカは顔で反抗するだけで精一杯だった。ビシビシとぶつけられる敵意の質も量も、善良な一般人とは一線を画している。艶のあるダークブロンドすらも冷たい。そしてルカと似ているようで全く異なる、濃い青色の神父服だ。
法王は白、枢機卿は赤というように、黒色以外の法衣を仕立てられるのは、高位の聖職者に限られるのだ。バベルといったこの男、歳は二十代で、高位に叙階されるにはまだ若すぎる。
「何者だ」
「俺はッ、法王庁のルカだ」
「人ではないだろう」
思わず目の奥が開いてしまい、しまったと後悔するがもう遅い。人間の反射というのは不便なものだ。
「まいったなぁ、初対面で見破られたのは二回目だ」
先ほどまでの苦しげな顔から一転し苦笑いのルカを、男は冷たい敵意に満ちた目で見下ろす。
「バベルっていうのか。もしかして
信仰心よりも筋力で悪魔を退治しそうな男は、エクソシストらしく命じてきた。
「真の名を名乗れ」
「ルカだよ」
「……ルカ、あなたはバチカンの神父様ではないの?」
アヤの宝玉の瞳に見つめられる。
「正真正銘ルカだよ。ローマ大学を卒業して、法王庁で働いている司祭だ。でも千年前はルシファーと呼ばれていた」
「ルシファーだと⁈」
バベルの手に更に力が入ったと思うと、次には上体を床に叩きつけられていた。背中をしたたかに打ち、息を失う。
「この程度で高位の悪魔を名乗るか。阿呆が」
「ッ……。ほ、んとうだ。人に憑いてるんじゃない、千年間封印されて、弱体化したのが俺なんだ」
「冗談にも程がある。凶悪な悪魔が今はキリスト教徒だと?」
「わけを話すから」
「必要ない。今すぐ消滅させる」
バベルは十字架のロザリオを取り出した。悪魔祓いを始める気だ。
「ちょっ、人の話を聞けよ!」
「悪魔の話を聞く筋合いはない」
「だからもう違う。信じないなら悪魔祓いでもなんでもしてみろ! 効かないから!」
バベルの瞳が怒りに燃える。ルカは殴られるのを覚悟してギュッと目を閉じたが、拳を止めたのはアヤだった。
「待ってバベル、わたしは話を聞きたいわ。それにこの人は貧しい娼婦を蔑むことなく助けて、ねえさんにも祈りを捧げてくれたのよ。悪いことをしに来たのではないと思うわ」
懇願するアヤの瞳。バベルはしばらく迷っていたが、荒い鼻息で掴んでいた腕を離した。
よろよろと長椅子につかまり、上体を起こす。
「アイタタタ……、悪魔よりあんたの方がよっぽど凶悪だよ。一体どこの司祭なんだ?」
明らかに不機嫌な声でバベルが答える。
「サン・クレメンテ・アル・ラテラーノ聖堂。司祭ではなく司教でエクソシストだ。間違えるな」
「しっ、司教だって⁉」
あり得ない出世のスピードだ。この男、一体どれほどの
「なのにどうして、犯罪組織がはびこるいわくつきの聖堂に? 何かやらかしたのか?」
「その犯罪組織の頭目が俺だからだ」
言われたことを理解するのに十秒は要した。司教というのはキリストの十二使徒の後継であり、教区の教会活動の責任者である。次代の法王候補になることすらあり得る立場なのだ。なのに犯罪組織の頭目……?
「はあっ⁈ 冗談にも程があるのはそっちの方だ! そんな無茶苦茶があるか!」
古都ローマは表の顔と裏の顔の持つ。繁栄と爛熟の裏側には、多くの闇を抱えているものだ。そんな裏社会の支配権をめぐり、犯罪組織が抗争を繰り広げていた。
「確かにこの辺りは治安が悪すぎて手に負えず、本来の教区から独立させたとは聞いていたけれど」
そうか、それがサン・クレメンテ教区だったのか。
「悪魔の信仰心の方があり得ん」
「あるよ! けど待てよ。そうか、そんな無茶苦茶が認められるのはメディチ家だな」
メディチ家という言葉に、バベルはフンと鼻を鳴らした。当たりのようだ。
「ちなみにこの一帯を支配してるというと、まさか『ベツレヘム』か?」
「そうだ」
「おい……、ローマで一、二を争う大勢力じゃないか」
「人の話はいい。十数えて待ってやるから、その間にお前の話を終わらせろ」
ちなみにメディチ家とはフィレンツェの銀行家で、ローマ法王庁に対して貸付を行うほどの影響力を持つ大商人の一族だ。先々代法王のレオ十世、そして現法王のクレメンス七世はメディチ家出身で、
一つ吐息とともに、ルカは長椅子に座り直し話し始めた。
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