Ⅰ 魔女狩りと呪われた絵ー⑤

「悪魔というのは世界中に存在するんだ。各地で名を変え姿を変え、時に病となり、時に災いとなり現れる。宗教が生まれるよりずっと古くから、人は精霊や悪魔の存在を感じ取っていた」


 長椅子で手を組み、ルカは言葉を選びながら始めた。貝が彫刻された椅子に浅く腰掛けたバベルは、ルカに向かっていつでも飛びかかれるよう臨戦体制だ。


「だからユダヤの伝承に精霊は天使として登場するようになったし、主キリストは強い感度の持ち主だったんだろう」


「それは、天使も悪魔もみんな精霊ということなの?」

「そうだよ。奇跡を告げる天使も、厄災を引き起こす悪魔も、中身は同じ神の遣いなんだ」


 信じられないと、助けを求めるような顔でアヤはバベルを見た。するとバベルが静かに口を開いたので、思わず身構える。


「新約聖書の『黙示録』には、七人の天使が終末のラッパを吹き鳴らすことで、世界に厄災と死をもたらすと書かれている。『マタイによる福音書』で、人を最後の審判へ導くのも天使だ。精霊と悪魔が世界中にいるのなら、天使が悪魔のように人へ罰を与える描写も世界中にあると考えるのが自然だ」


 意外にも受け入れは悪くないようだ。ルカは頷いた。


「天使と悪魔の勧善懲悪は人間の創造だ。精霊だから、本当は天使にも悪魔にも善悪はない。心で決まるんじゃないんだ。ではどうやってというと、見た目だ」

 アヤが目を丸くする。


「え……、神様が作られるのでしょう?」

「そう。異なる二人の男女が結び付いて子供が生まれるように、天体の星のかけらの組み合わせで、気まぐれに神が生み出したのが天使なんだ。当然そこには個体差ができる」


「星のかけらって、夜空の星のこと? あなたはお星さまなの?」

「まあ、大体そういうこと。出来上がりの見た目が人に近いものが天使で、遠くなるほど悪魔になる。そして神が最も好きなのは、人間たちが試練を乗り越える姿を眺めること。だから俺ルシファーは、水の厄災を与える悪魔だった」


「今のあなたの姿はとても悪魔には見えないけれど、千年前は違っていたの?」

「自分の顔を鏡で見た事はなかったけど、全身が黒い毛むくじゃらで、ここからねじれた大きな角が生えていたよ。背中には黒い翼もあった」


 金髪をかき上げ、ルカは自分のこめかみに指を当てた。


「厄災を起こしても、そこにいる人の生き死にには干渉しない。それが神の掟だ。けれど俺は無関心でいられなくなってしまって、できなくなった。神の試練のためにたくさんの人が無意味に死んで悲しむ姿に、耐えられなくなったんだ。掟に背いて悪魔の役目を放棄した俺は、罰として地上へ落とされた」


 翼をもがれた堕天使ルシファー。地上ではそう呼ばれた。


「それから色々あって、一年のほとんどを雪に閉ざされる山の修道院に封じられたんだ」


 四方を壁に囲まれた、外の見えない狭い空間に閉じ込められた。封印が施されているのか、何をしても内側からは開けられなかった。


「長い年月が経つうちに、全身を覆っていた黒い毛は抜けて、頭の角も落ちたよ。その角で壁を叩いていたんだ」


 その人が現れたのは、短いある夏のことだ。

 ほっそりした体で、獣道とも言えぬ山道を一人で登ってきたのだ。身につけているのは神父服とわずかな食糧だけで、狼の餌にならずに辿り着けたのが奇跡といえる。


「あらぁ。天使がこんなところでどうしたんです?」

 ズリズリと重い音をさせて空間の天井が開き、年齢不詳の顔が興味深げに覗き込んできた。


「コーン、コーンと、毎晩音を鳴らしていたのはあなたですよね?」


 あまりの驚きに、ルシファーはただ口を開けて固まるだけだった。

 果てしなく長い間、己以外が存在しなかった暗い世界に他者が入ってきた。それを理解するのに頭が追いつかないのだ。


 返事をしないルシファーをよそに、神父は天井を全部開けてしまった。薄暗いそこは、ひんやりと少し湿った石窟のようだ。


 待って、どうしてここにいると分かったの。

 そう言いたかったのだが、あまりに長く声を発さなかったルシファーの喉は、声の出し方を忘れていた。


「大丈夫ですよ、怪しい者じゃありません。歴とした司祭ですからね。さあ、立てますか? 外に出てみましょう」


 その人は手を差し伸べてくれた。

 ぺたんと座ったまま、手を出そうとしないルシファーの腕をひょいと掴むと、軽々と体を担いでしまう。


「外に出るのは久しぶりですか? 私の予想だと千年ぶりじゃないかと思うんですが。眩しいですから、目を閉じていてくださいね。私がいいと言ったら、ちょっとずつ開けるんですよ」


 背中に負ぶい直され、ルシファーは言う通りにした。自分の体がそんなに小さくなっていたとは知らなかった。

 裸の腹と胸に触れる神父服の感触と、神父の体温がくすぐったいが、我慢する。


 まだ修道院から出ていないのに、閉じた瞼の裏側がチカチカと橙色になる。そして急に痛いくらい強烈になったので、怖くなったルシファーは神父の首筋に顔を伏せ、がくがくと震えた。


「目を閉じたままでいいですよ。そのまま、耳を澄ませてみてください。風に葉が揺れる音や、鳥の声が聞こえますか」


 そうやってしばらく、その人はゆっくり歩き回っていた。ルシファーの体の震えが収まると、ふと瞼が暗くなる。


「今、木陰に入りました。もう慣れたでしょうから、少しずつ目を開けてみてください」

 言われた通りに細目を開け、痛くないのを確認してから瞼を緩め、地面を見る。確かに日陰だ。眩しくない。


 それからゆっくり顔を上げると、目の前の断崖に教会が貼り付いていた。岩と一体化した教会のアーチの柱が眩しく、神父の髪の中に顔を隠す。


「見事な石窟教会でしょう。今は廃墟ですが、千年近く前までは修道院だったそうですよ。私はね、これが見たかったんです。でもあなたにとっては、千年の時を奪った憎き家ですよね。壊しましょうか?」


 ルシファーが囚われていた狭い空間は、礼拝堂の祭壇だったのだろう。

 修道院は木の枝や蔦に浸食されて、半分以上覆われてしまっている。よく見ると太い柱の下の部分が崩れかけていて、いつ倒壊してもおかしくない。


 俗世から離れた厳しい環境に身を置き、ひたすらに神に語りかけようとした修道士たちの祈りが積み重なった場だ。だがルシファーが孤独だった千年の間に、祈りは誰の目にも触れることなく朽ちてしまった。


「天使だろうと人だろうと建物だろうと、時は皆に平等なんですねぇ」


 ふいに、耳と鼻と喉が塞がれたように痛んだ。顔と頭が熱い。己の中で何かが壊れてしまう気がしたが、そうではなく、涙が流れていた。

 声ともいえぬ声を上げ、ルシファーは泣いた。司祭の背にしがみつくと、やさしく尻を叩いて、揺らしてくれる。


 古い記憶が体の奥底から甦り、苦しくて苦しくてたまらない。


 地上へ落とされた醜い悪魔は、人にとって格好の憎悪の対象だった。不運や不幸の元凶にされ、恨まれ、居るだけで暴力に晒される。いわれのないあらゆる罪を着せられ、逃げても逃げても終わらなかった。


 それでもルシファーは人を憎めなかった。どんな悪意も敵意も受け止めようとした。神の掟に背いてまで地上に降りたのは、愛したかったからだ。

 だから最後に捕われ、人里離れた山の修道院へ封じられた時も、抵抗せずに受け入れた。そして修道院が朽ちると共に、ルシファーの存在も忘れ去られたのだ。


 ずっと誰かを待っていた。

 人を愛し愛されたいという願いを捨てきれず、誰かに届いてほしくて、角で壁を鳴らしていた長い日々——。


 ルシファーが泣き止むまで、司祭はずっと負ぶって揺らしてくれていた。

 それが司祭シリウスとの出会いだった。

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