Ⅰ 魔女狩りと呪われた絵ー⑥

 シリウスという司祭は、とにかく変わり者だった。

 特定の教会には属さず、イタリア中を行脚あんぎゃしながら布教活動をしたり、貧しい者へ治療を施しているらしい。

 更におかしなことに、女の護衛と共に旅をしていた。


「シリウス様、山猿を拾ったんじゃないんですからね。どうするつもりなんですか子どもなんて!」

 シリウスに詰め寄るフィナという女人は、短い赤毛の髪に、体もシリウスよりずっと大きい。腰には剣をぶら下げ、背中には弓を背負っていた。


「まぁ、いいじゃないですか。三人で旅をしたらきっと楽しいですよ。フィナは子ども好きですし」

「そういう問題じゃありません! もうっ、何にも考えてないんだから」


 と言いながら、フィナはてきぱきとルシファーの髪を切り、風呂に入れ、着るものを調達してきた。ルシファーじゃあんまりだと言って、ルカと名付けたのもフィナだ。


「よしっと。ガリガリだけど案外かわいい顔してるじゃない。お腹は空いてる?」

 祭壇の中にいる間はずっと空腹で、癒えることはなかったがなぜか死ななかった。外に出てからは、まだよく分からない。


「まだ体が慣れていないのですから、一気に食べてはだめですよ。さっきいただいたこの桃をどうぞ」

 シリウスから手渡された桃はみずみずしく、ぺろりと平らげてしまったが、味はよく分からなかった。


 今のルカの姿は、人間でいうと十歳くらいの子どもらしい。二人から次々と話しかけられるので、ルカが言葉と声を取り戻すのに、さほど時間はかからなかった。

 旅慣れしている二人は、とにかくよく歩く。最初こそすぐに疲れてしまい、フィナに負ぶってもらったが、すぐにルカも歩くのが楽しくなった。


「シリウス様ってひどいのよ。神父のくせに飲酒はするし、女好きだし。一体どこに信仰心があるのか疑っちゃうわ」

「それはほら、頼まれたら断れない性格が災いしてですね」


「嘘よ。自分から寄って行ってるんだから。ルカは真似しちゃ駄目よ」

「おや、お誘いに乗ることで人の役に立っていますけどねぇ。特に独りで寂しい夜を過ごしている女人には——」

「ちょっ、子どもの前で何を言おうとするんですか⁉」


「ねえねえ、シリウスとフィナは夫婦じゃないの?」

「ありえない! あたしは雇われてるだけ。欲しいのはお金だけ」


「司祭は妻帯できない決まりなんですよねぇ。だからなるたけたくさん、女人のお相手になるのが務めなんです」

「その解釈間違ってますから!」


 そうやって言い合う二人の間で、手を繋いで歩くのが好きだった。

 護衛を雇っているのは、シリウスが持つ聖書の写本が大変貴重なものだかららしい。えらい人から託されたとても美しい挿画の聖書で、それを見せればどこの関所でも簡単に通れたし、村ではありがたい神父様が来てくださったと、いつも人だかりができるのだ。


 声色を変え表情を変え、芝居のように展開するシリウスの説教は大変に面白く、清らかな見た目と柔らかな物腰も相まって、特に女たちからの人気は絶大だった。たまにシリウスが戻ってこない夜もあり、そういう時は少し寂しそうなフィナの背中にくっついて眠ったものだ。


 そして旅路は、危険と隣り合わせでもある。盗賊に襲われた時のフィナは本当に頼りになった。ある時は並外れた剣技で蹴散らし、ある時は金をチラつかせ、取引で凌いでいくのだ。


「すごいね。フィナはどうして女人なのに護衛の仕事をしてるの?」

「魔女だから」

「えぇ⁉」


「嘘よ。たまたまそういう稼業の家に産まれて、体が大きかったからこうなったの。小さく産まれてれば、平凡な女の人生だったろうにね」

「そっか。俺も悪魔に生まれたけど、人に試練を与えるのは好きじゃなかったんだ。見た目がよかったら天使になれたのかな。でも俺は、かっこいいフィナが好きだよ」


 フィナの顔を見上げると、急に頭をわしゃわしゃされて、胸にぎゅーっと抱かれて、窒息するかと思った。


 彼女が亡くなったのは、それから六年後だ。

 この頃、ヨーロッパ中に熱病が蔓延していた。行きついた村も病に侵されていて、三人で懸命に治療に当たった。その結果、フィナも病に倒れたのだ。


「どうしてフィナが病になるんだよ! たくさん人を助けてきたのに。どうしてフィナは治らないんだよ! シリウスッ!」


 シリウスは何も言わずに、フィナの顔を丁寧に拭いてやっている。そしてゆるしの秘蹟を授けた。こうなったらもう手の施しようがないと、ルカも分かっている。それでも訴えずにはいられなかったのだ。


「いやだよフィナ! 一人で死ぬなんて許さないからな! フィナがおばあさんになって戦えなくなったら、どこかの山で三人で暮らそうって約束したじゃんか」

 寝台にかじりつくルカの頭を、フィナは撫でてから小突いた。


「シリウス様のこと、お願いね。あの人、あんたが笑って、楽しそうなのを見るのが、一番の楽しみなのよ。見かけによらず、寂しがり屋だから。あんたは私の、天使だよ」


 フィナが息を引きとっても長い間、ルカは手を離さなかった。葬式で祈りを唱えるシリウスが、一度だけ声を詰まらせて沈黙したのを覚えている。


 シリウスとはその後、三十六年間を共にした。あちこちを旅したが、シリウスは齢六十を過ぎると体力低下を理由に、自身はイタリア中部の小さな修道院でこれまでの旅を手記にまとめ、行脚はルカと弟子たちに任せた。戻って来た彼らの話を聞くのを、何よりも楽しみにしていた。


 病で痩せ、衰えは日に日に進行していく。もはや寝台から起きることもかなわなくなったシリウスとは対照的に、ルカはまだ十代の青年の姿でしかなかった。


「あなたはきっと長生きするのでしょうね。ほとんど不死身なんでしょうか」

 フィナを亡くした日から、いつかこの日が訪れるのだと分かってはいた。けれども失う痛みはあまりに深く、大きかった。


「心配しないで。シリウスとフィナとの楽しい思い出がたくさんあるから、俺はもう平気だよ。たとえ同じ場所に長くは居られないとしても、誰かと繋がって暮らしていけると思う。でもやっぱり、シリウスがいないと寂しいよ」


 この修道院もそうだ。今の弟子たちはルカの正体を知りながら、何も変わらず接してくれている。だがそれもずっとというわけにいかない。シリウスが去り、次が去り、人が入れ替わるにつれ、老いる速さが違うルカを訝しがるようになるだろう。


「叶うのなら、いつまでも見守ってあげたいですけどねぇ。生憎、死んだ後の事は私にも分かりません」

「なんだよ。ずっとヒラ司祭のふりしてたけど、本当は偉い大司教のくせに」


「救えなかった命もたくさんあります。聖書と祈りを唱える事しかできない己の無力さに、どれだけ苛まれたか。旅を続けられたのは偉いからではなく、あなたがいてくれたからですよ」

 シリウスがそんなことを言うのは初めてだった。


「何言ってるんだよ。そんなの、俺だって……。俺の存在に気付いてくれたのは、シリウスだけだったんだよ」


 抜け落ちた角で石壁を叩いていた。その音に気付いてくれたのは、千年間でシリウスただ一人だけだ。

 千年の闇を晴らし、陽の光を見せてくれた。


「あなたはあの石窟教会を残してもいいと言ってくれました。千年間という時の重さを考えたら、決して誰でも言えることではありませんよ」

 負ぶって外へ連れ出してくれたあの日、あんたが気に入ったならこのままでいいと、確かに言った。


「ねえ、あの時、どうして俺の事がわかったの? 天使がこんなところでって、最初に言ったよね」

「夢でお告げがあったんです。小さな天使が私を待っていると。後にも先にもそんな体験は初めてでした。それで山に登ってみたら、コーン、コーンと聞こえました」


 シリウスは微笑んだ。あの日、木陰から石窟寺院を一緒に見た時のように。


「ルカ、私にゆるしの秘蹟を授けてくれますか」

「俺が? 司祭じゃないし」

「構いません。こういうのは資格よりも心なので」

「シリウスにも神に告白すべき罪があるの?」

「まぁ、いくつかは」


 するとシリウスはごにょごにょと何かを告白したようだった。指差した先に、聖油の小さな壺が置かれている。

 今まで見てきたように、病人の額と手の平に塗る。


「聖なる油と、大いなる慈しみによって、主があなたの罪をゆるしてくださいますように。アーメン」


 シリウスが使う祈りの言葉の中でも最も簡単なものだ。それから聖餐せいさん(種なしパン)をシリウスの唇に差し入れた。


「フィナと三人で、もっと一緒にいたかったですねぇ」

 翌日、東の空に明けの明星が輝く頃、シリウスは穏やかに旅立った。


 話を終えると、アヤが涙を流していた。すかさずバベルが、指を添わせて払ってやる。


「フィナさんやシリウスさんに、ねえさんたちを重ねてしまったわ。わたしはね、赤子の時にお店の前に捨てられていたの。ねえさんたちがみんなで可愛がって育ててくれたのよ。たとえ血が繋がっていなくても家族なのよね」


「うん。シリウスの顔が忘れられなくて。ちゃんとゆるしの秘蹟を授けられるようにと思って、司祭になったんだ」

 アヤは頷き、隣で渋い顔をしている男へ向き合った。


「お願い、バベル。一度だけルカを信じてみてくれないかしら」

「……娼婦たちが死んだ謎を解くまでだ。その後、悪魔は消滅させる」


 ルカとアヤは顔を見合わせる。今はこれで良しとしましょうと微笑みかけられ、ルカの胸が高鳴った。腹の底から熱いものが湧いてくる。


「わかった。じゃあまず、呪われた絵について教えてくれ」

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