Ⅱ 偽作師の悩みー①

 イタリア半島は誰のものでもない。

 ローマ周辺はローマ教皇領として法王が治め、ミラノ、ヴェネツィアやナポリといった都市はそれぞれに小国として独立している。


 その一つ、フィレンツェ共和国の僭主として、卓越した外交手腕と財力で君臨するのがメディチ家だ。文化面でもパトロンとして多くの芸術家を支え、レオナルド・ダヴィンチ、ミケンランジェロ・ブオナローティ、詩人のダンテなどを世に送り出した。


 テオも同じフィレンツェ出身だ。画家を志望してメディチ・アカデミーにも通った腕前だが、どうにもなぜか注目されない。


 俺はこんなものじゃない。こんなはずじゃないんだ。


「俺だって教会の天井画を描いてみたいさ」


 生きながら既に巨匠と呼ばれるミケランジェロが、大聖堂に附属するシスティナ礼拝堂の壁と天井面に『創世記』をモチーフにしたフレスコ画を描いたのは、二十年前のことだ。

 もちろんテオも、ローマに来て最初に見に行った。描かれた人物は三百人以上という前代未聞の規模とともに、人体の緻密さ、構図とアイデアには圧倒され驚嘆するしかなく、嫉妬する気すら起きない。これこそが神の御業だと、感動で震えた。


 あれに比べたら、己の作品など鼻くそ以下だ。そう腐りながら模写した『創世記』のごく一部分が、まあまあな値で売れた。

 偶然金持ちの目に留まっただけだ。が、絵描きも成金の審美眼も玉石混合であるからには、偶然が重要なのだ。


 こうして偽物を本物として流通させたい者、偽物と分かってなお手元に置きたいという者たちの間で、偽作師テオの名は深く知られるようになった。そうなればもう、教会の天井画注文など来るはずもない。


 扉のノッカーが三度鳴る。ローマは古代より建物がひしめく過密地帯だ。アトリエを兼ねるには狭すぎる市街の住宅に高い家賃は払えず、二刻ほど歩いた郊外に部屋を借りている。今日は依頼の絵の納品日だから、仲介屋が取りに来たのだろう。


「よう、出来てるぜ」

 無精髭を撫でながらドアを開けて、思っていた人物と違ったので止まる。

 黒の神父服だ。肩まで垂らした金髪、頭の良さそうな広い額に、整った目鼻立ちをしている。歳はかなり若く、まだ二十代前半といったところか。十代でも通用する。


「画家のテオドーロ・マッジ殿で間違いありませんか」

「だっ、誰だよ。人に名を聞くなら、まず自分から名乗りな」

「失礼。法王庁使徒座署名院のルカという。この絵の作者がテオドーロ・マッジ殿と聞いたのだが、間違いないだろうか」


 手にした包みからルカが出したのは、正真正銘テオが製作した聖母子像だった。七年前に亡くなった天才、ラファエロ・サンティの作品をイメージした偽作だ。


 聖母子像といえば、聖母マリア、幼児キリスト、幼児洗礼者ヨハネの三体を三角構造にして描かれることが多いが、これはマリアが赤子のキリストを左腕に抱く古典的な構図だった。


 板に描かれた油彩で、陰影だけで口元の表情をつけたり、衣服の柔らかさを表現するのがとにかく難しかった。己の凡才に打ちひしがれながら製作したのだから、よく覚えている。


「どうして泣いてるんだ……?」

 その聖母子の両目から、黒い涙が流れているのだ。

 生気が生き生きとほとばしる頬も、筆先の点単位で色彩を変えて何度も塗り直した輪郭も、テオの全精力をかけて描いたものだ。それが、お粗末な黒インクを垂らしただけの涙にかき消されている。


「一体誰がこんなひどいイタズラを!」

 思わず叫んでしまってから後悔する。これでは偽作製作を認めたも同然だ。


 相手は使徒座署名院、つまり裁判所だ。違反を取り締まり犯人をしょっぴいて稼ぐ一方で、賄賂ワイロが大好きな連中だ。テオのように袖の下を渡せない貧しい市民に酌量するはずがない。


 ルカはテオの目を見て、静かに言った。

「三人の娼婦がそれぞれ別の死に方で変死したんだ。全員、この絵が飾られた部屋で死んでいた」

「は⁉ だから絵のせいだってのか? 寝ぼけてんのか」


「殺害された形跡がないんだ。客や身内と揉めた話もない」

「つっても娼婦なんだから、客と二人きりになりゃ分かりようがねえだろう。それとも俺がやったとでも言いたいのか?」

「そうは言っていない。最初に亡くなった娼婦は、これを客からもらったそうだ。この絵を注文した客について、知っていることを教えてほしい」


 くそっ。どうする。

 依頼人のことは知らされていない。仲介屋の依頼で製作したものだ。無論、仲介屋も日の当たる道を真っ当に歩ける商売ではないから、チクれば後で何をされるか分からない。


 だがこのままでは俺が下手人にされてしまう。仲介屋の情報を売って、偽作製作は見逃すよう取引をするべきじゃないか。

 そう考えを決めた時、神父が意外な事を言った。

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